「お話は全部聞いてます……サクラ、……さんが皆さんにお話していたとき、ボクもこっそり……聞いて、ました」

 首がもげるのではないかと思うくらい俯きながらネロは小さく口にした。まるで自分の爪先以外視界に入れたくないといった態で、或いはもしかしたら、この世界の何とも目を合わせたくなかったのかもしれないが。

「……だから……お爺様の許可を得て、ここに来ました。アルブスの代表として、ここに来ました…………」

 ――お爺様、とネロが言うのは、アルブスの民の長老として親しみを込めて言われているわけではないだろう、とさくらは以前、ちらっと思ったことがある。何も紹介はされていないが、それでも多分、この子と長老とは血が繋がっているのだろう。アルブスの代表として、ということは――即ち、アルブスの次期長老として、というような意味合いだ。
 ……そういえば、最初にアルブスの民について説明しようとした時にも、確かに彼は敬語であった。

「――だからここに来た、と、アンタはさっき言ったわね」

 ネロの視線が上向いて、真っ赤な顔で彼は力強く首肯した。目尻に溜まった僅かな涙滴を、さくらは気が付かないようなフリをする。

「あの時私は確かに、アルブスの村で私の推測を披露した。確証はないけど、魔術式は人の血液によって描かれているのだろうと。それを聞いていて、尚ここにやって来てくれたということは……状況を打破する計算が貴方の中にはあるのでしょう」

 目線を合わせた状態でネロの視軸を受け止めた。ペリドット色の双眸はこんな宵闇にも確かに光と力を発し、アルブスの民という特殊性を主張する。――マクシミリアヌスとカタリナから聞かされたことを想起した。彼らには到底聞き取れない類いの言の葉で、けれどそれを放ったとき彼は第一級魔力保持者すらも凌駕するほどの力を扱っていたという。そしてネロのこの言動。既にさくらは確信していた。ガッダの意表をつくのなら、彼の力を頼るほかに道は無い。

「力を貸してほしい――アルブスの次期当主として。ネロ」

 頼もしげに、今度はしっかりと頷かれたことにさくらは薄く微笑する。



――“世界で一番美しい光を見た”



 ――人というのはあまりに怖い、とネロはずっと前から考える。
 アルブスを同じ生命体として扱わない、欲に塗れてすぐ滅ぶ、歴史から何も学ばない、そういうとき人は何を仕出かすものか分からない。アルブスとは、彼らにとって、ただの希少な有機体の一つに過ぎず、それは多額の無機体として変換され得る生である。

 ――ほほほ……。

 好々爺は眠れないネロのためにラッテ・カルド(ホットミルク)を入れながら、アルブスの民全体の翁として人好きのする笑みをする(ここでは別の言語の精細さを後世の民にも伝えるためにアルブス言葉は一切使わないものとする。これらの言語は決して神の真似事としてつくられた愚か者の詩ではなく、善いと悪いが絡み合いながら形作られた大地のような言語であると知覚する)。
 老人はネロにタッツァ(カップ)の類いを差し出した。

 ――だが、それだけでは無いのだろう?

 ……ネロはお爺様の顔を見る。ネロの目線では、祖父の瞳は未だ眉には隠れておらず、その細い、樹木のシワにも似た双眸の奥側に、きらりと閃く宝石みたいな緑色の光が仕舞われているのが伺える。

 ――それだけのものを見てきているのなら、あとは行動するのみだろうて…………。

 ……ネロは人というものに恐怖を覚える。
 けれど守ってくれた。
(たとえそれで味方を敵に回すことになろうとも)。
 信じてくれた。
(案内された場所が彼らの危険地帯になり得るかもしれなくとも)。
 赦してくれた。
(――ボクは異世界人を“利用”した)。
 行動するのみだ、と、昨夜長老に言われた言葉の意味を理解した。それは自分の意思ではなくて、ただ衝動的に、嗚呼、飽くまで衝動的に――他人(ヒト)を想って他人(ヒト)の願う事を己のために成すことだ。
 方策には事欠かない。
 ただの魔術とは神より与えられた手数が違う。
 恐らく、嗚呼、恐らく――ネロとサクラらとを引き合わせたのは、神の思し召しに他ならない。だってこんなにも彼らの求めるものをネロは、アルブスは識っている。

「xr」

 一言、神に対して乞い願わん――

「exz、ck、vig、ras、zk」

 開いた(・・・)
 乞い願わん、神に全てをお返しするという誓約、全ての生命の始まりは魔術でありその魔術は神のお膝元。その全てのものが神へと還り、神の采配を待つ次なる儀式へ移行する。

「sih、va――!」

 ――お返しします、とネロは告ぐ。
 貴方の命、貴方の力、貴方の魔術、貴方の血潮――
 アルブスの民は、神への直接の口述を許された稀なる種。その言霊は神へと届き、神の意向は少しの間も置かず世界に響く。それを人々は“奇跡”と云う――

「わ――」

 ――後ろのほうで誰かが何かを口にした。
 ネロは一つ咳をする。アルブスの言語を使った今、スカッリア語や異界語を習得していないネロには彼らの言を発するだけの権利が無い。ただ、聴くことは出来るし見ることも出来る。ネロの伸ばした手の先で、ぽう……と光が、天上に召し抱えられるように昇っていくのが目についた。幾十、幾百、幾千万の光の円が、一つの街を囲むように連なって、宵闇の帳が下りきったはずのこの地平に光の奔流を灯しだす――!
 それは人の目を奪うほどの光であり、人の絶望を、人の愉悦を、人の一生を、人の決心を奪い去るような無慈悲な光の輪であった。

「…………rxs……」

 神よ
 矮小なるアルブスの申し出を、聞き入れてくださったこと感謝します――
 そこでネロの思考は瞬時に切れる。

「ネロ……!」

 誰かの声と、誰かが駆け寄って来るその音色だけを最後に聴いた。

■ □ ■


「――」


 ガッダ卿が何か呟いたようであったが、真佳の耳には届かなかった。まるで神の怒りを買ったみたいだ――と思っていたから(真佳は基本無信仰者だが、ここにいると当たり前のように神という存在が話の流れに出て来すぎるので半ば考えが伝染していると自覚する)。

Cacchio(カッキオ)……!」

 今度は真佳にも聞き取れた。マクシミリアヌスはあまり言葉にはしないけど、これも一種の罵倒の一種だと自然と学んだ。英語の“シット”と多分ほとんど同等だ。
 街壁に沿って、黄金色の光の屑が導かれるままに天上へ昇っていくのを真佳も見ていた。部屋の外から急激に漏れ出してきた光の正体は、どうやらあれで本当に間違いないようだ。まるでファットに当てられたピンク色の光線だ。光が世界とチッタペピータとを断絶し、神の怒りを買ったチッタペピータはこの世界と切り離されるに違いがないと一瞬真佳は本気で信じた。

「何だ何だ、何が起こった?」

 物置部屋を出てすぐそこの窓に張り付いていた真佳のところにスサンナが驚き慌てて駆けつけたのはその時だった。卿は窓を見ていない。多分見ずとも知っているからだと考える。

「――アルブスを使うとは考えなかった」

 卿が何かを言い出した。

「あれの人間嫌いをどうやら僕は過信した。なるほどね……あの時素直に街の人間を行使して、アルブスの子どもを何らかの形で屋敷に招き入れるべきだった。済んだことを言っても仕方がない……」

 ぶつぶつと口の中で呟きながら、それでも急いているだろうことは早口の口調で見て取れる。焦れったそうにスサンナが、そこの流れを中断させた。

「あんたの懺悔なんざ聞いてないんだよこちとら。何があった? 何が起こった? あの壁の光は一体、何だ?」
「…………」

 卿が下唇を忙しく摘み上げながら熟考するような短い間。――でもそれは、スサンナの聞いていることに対しての間ではなかったろうと考える。

「魔術だよ。魔術の強制的な失効だ」
「…………失効……?」
「アルブスが何故神に愛されていると言われているか知ってるか。長寿も色彩も彼らの住処も関係無い。本来の意味は――神が、出来得る限りにおいて彼らの申し出を受け入れることからつけられた」

 絶句、
 しているのは恐らくスサンナだけだった。真佳にはそれの意味合いが分からない。それは魔術とは違うのか? アルブスだけが使える特別な魔術の一種などではないということ?
 ……頭を振った。『帝国は終わっていなかった』。
 卿が頭を小さく傾け、眼鏡チェーンが軽い金属質の音を立て

「……貴方の友人を、どうやら僕はなめすぎた。あの気難しい種族を数日で……いやはや、人の成せる業じゃない。少なくともスカッリアの人間ならば、あれの価値に傾注しすぎて警戒心を剥き出しにされているはずだった。どいつもこいつも計算外……だからこそ――」一度スサンナのほうを見て「……貴方たちは面白いと言えるのだけど」

 異世界人、と言いかけてギリギリのところで取りやめた事実にほんの少しだけ心を緩めた。今ここで真佳に選択を迫るつもりではないらしい……ということが、分かったためだ。壁の魔術は崩れ去り、チッタペピータの密室条件は無くなった。“僕はここに然るべき処罰の魔術をかける”――かつて言われた卿の言の葉が脳裏を駆ける。今ここでの選択は避けられたが――危機が去ったというわけでは無い。無論。
 卿は真佳の心中に何らの反応も示さなかった。多分恐らく、さくららの方向に意識の矛先を向け続けているがため。

「……貴族たちは外に出るかね」

 神妙な感じでスサンナが発す。そう、壁の魔術が無効になったということは、さくらやマクシミリアヌスだけでなくチッタペピータの人間も外に出られるということだ。

「門は物理的に閉まってあるから、もう暫くは無理だろう。彼らの力でねじ伏せられるものではないよ、あれは。問題は、彼らの飼ってる第一級魔術師くらいだが――あれらも所詮牙の抜かれた獣に等しい。然程の力は出せまいよ」

 卿の物言いに沈着さが戻っている、ということに真佳は気付く。次の策は多分彼の頭の中、脳みその中。
 ……その間に真佳も決めねばならない。
 卿を殺すのか、やめるのか――。
 鬼莉を抑えるか、任せるべきか――。

(……)

 胃の痛みを感じながら、無意識のうちにくだんの小瓶を握ってる。

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