――街壁はまるで空に突き立っているようにさくらには思える。暗く影を伴った煉瓦塀が、まるで星の連なる夜空の一部であるかのようにさくらの視点からは見えるのだ。それは世界を断絶する壁であり、地中からも、もちろん空や宇宙からでも付け入る隙は全く無い。
 ……一つ、
 壁の瓦解を促進させない限りにおいて。



綺羅星



「どこがいいのだ?」
「どこでもいい。……でも一番脆そうな、本来門であったところのほうがいいかもしれない。後で壊すことにはなるんだし……」

 マクシミリアヌスがさくらの返答に応えるように上を向く。ちょうど今、目の前にあるのがチッタペピータの西門――だった(・・・)場所だった。地面から隙間一つなく瓦礫で埋まっているのは昼間確認したとおり、何ら変わったところは一つも無い。――ただ、少し瓦礫の境目が見にくくなっているかもしれない。この暗さでは仕方がない。
 空を更に仰ぎ見る。ここからでは街壁が邪魔で月は一つも見えないけれど、そこに満月に満たない月が一つだけ、世界の唯一の空洞であるかのような面持ちで鎮座ましましているのは簡易に想像出来ていた。東に昇った月が中天に差し掛かる手前だろうか……途中から、空を見上げて歩くことをやめていた。

「もしも姫さんの言うとおりなら……」

 トマスが呻くように呟いて、晩春の夜風に怯んだように言葉を呑んだ。夏に近づいたスカッリアの夜風はそれでもまだまだ冷たいほう。さくらの言うとおりなら――
 さくらは短く頷いた。

「確かめましょう。そのために来たのだし」

 ――それに一刻の猶予もない。ガッダ卿が時間を必要としているのなら、時が満ちるよりも先に乗り込んでいなくては間に合わない。――そしてそれはいついかなるときにやってくるのか、さくらも誰も知りはしない。
 街壁に手を触れられるくらいまで近付いて、足元を見て、それから上を見た。
 首をうんと上に持ち上げなければ見上げられない高さの壁だ。垂直なのは間違いない。馬車が二台は通れるに違いない西門を、そうやって上下ともに確認しながら一歩一歩視認した。何があるのか。――何が無いのか。“平凡な顔ほど見分けがつきにくい”と、心の中でさくらは思う。
 ――ちょっと行くところが出来た……。さくらにもそう言っといてくれるとありがたい。
 ――先に行っててくれても構わないから。
 ……吐いた息が震えていないことに安堵した。いつも勝手なことを言う。いつもいつも……。スカッリアへやって来る前もそう。
 さくらは軽く教えられた程度であるが、真佳の血族である秋風家というのはとにかく人に狙われる。それも大物が背後にいるような、殺しを生業とした危ないやつに。お祖母ちゃんが人の弱味を握るから、その証拠を消させるために身近な人も狙われる、と真佳は言った。「お祖母ちゃんは私よりも数万倍は強いから、まあ普通は孫娘のとこに来ちゃうよね」と。怪我をしているところを見たのも一度や二度のことではない。
 あの日、異界渡りをするより前に真佳は今思いついたかのように、「……何か狙われてるらしい」と口にした。
「また?」と聞くと、そうだと言う。「あのさあ、大変申し訳無いんだけど、先に帰って」「嫌だ」「……ですよね、分かってた」。真佳は少し考えて、うーんと唸りながら自分の顎先を人差し指の腹でとんとん叩いて。

「じゃあさ、私が先に出るから、私の跡を黒服の男が追跡するのを見届けて、ちょっと時間を置いてから別ルートで帰ってくれる?」
「私が先に帰るのとどう状況が違うのよ」
「私はその間に追跡者を振り払う。時間をかけて家に戻る。さくらはマンションの玄関ホールで私を待つ。或いは、私が先に着いたら私が待つ」

 さくらは呆れを交えて吐息した。

「駄目? 言っておくけど私は約束を守るよ。ほかでもない、さくらさんとの約束なので」
「何でアンタはそんな無茶をするの」

 真佳が笑った。教室の窓から差し込む斜陽が彼女の横顔を照射して、赤い双眼を一層濃い色に染め上げる。

「無茶でも何でも、そうしないと帰れないよ」

 まるで脅し文句みたいな言の葉を当たり前みたいに吐き出して、奴は眼を微笑に細める。……視線を逸らして吐息した。さくらとの約束を――今まで一度も違えたことは無いのは事実であった。

「マンションで」
「うん、マンションで」

 ――靴先が、門の一端にたどり着いたところで現実に即座に立ち返る。間違っているようなわけがない。打ち明ける前に何度もシミュレートして、それで間違いなかったからここにいる。
 ――西門だけしか最後の確認は取ってはいないが。
 確定だ。
 短く吐息してから左足を軸に振り返る。

「間違いがない」

 とさくらは言った。
 多分無意識にであろうけど、密集した結果二列に並んだ彼らの顔を、さくらは真摯に受け止める。緊張と、興奮を抑えたような目、それから希望。
 ――希望を背負うというのはあまりに残酷な選択だ。暗い地獄に垂らされた頼りなげな一本の蜘蛛の糸はその見た目のとおり薄弱で、頼りなく、おおよそ助けになるとも思われない。しかし窮状に陥った人間に、一転それは唯一の救いの道になる。それが切れるか、消えるかしたら彼らが一体どうなるかなど、考えるまでもなく明白だ。それでも背負うと言うのなら、絶対的な希望を持って。
 ――深呼吸。
 何のことはない。さくら自身だって、窮地に陥った一人の罪人にほかならない。

「魔術式は街壁の中に埋め込まれているのでも、突端に描かれているのでもない。それは門が崩れることで初めて発生されなければならないもので、恐らく、絶対防衛の魔術式を仕込むことを考えたであろうガッダ卿は、その時点で、この絡繰りを考え出してはいたのでしょう」

 ――あまり信じられないことではある。何百年と先の実行になっても、そのとき自分の意識に何らの変動も無いことを、恐らく確信として彼は心に持っていた。数年後、或いは十数年後の自分が今と同じ意識を有しているかなど、さくらには到底確信の持てぬものである。ましてやこんな非人道的な絡繰りなどを――……。

「……私は最初、彼があのタイミングで門を閉ざしたとき、人を恐慌に陥らせるためだと考えた。自分の権威を示すため、人の出入りの少ない夜や朝方には門を完全には落とさなかったのだろうと……。
 でも違う。全知全能として降臨しておきながら、そこには確かに意味がある。逆に言えば、彼は夜や朝方には絶対に門を落とせなかった(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 あとはもう簡単だ、とさくらは思う。チッタペピータ介入まであと一手。理論的な面はクリアした。あとは――

「この魔術式は壁と地面の境界に在る。即ち――人の血という形で」

 ――どうやって術式を無効にするか。
 ……見当さえつけばすぐ分かったのだ。どの門も人の流した血というものは膨大で、門の一端から一端まで、驚くほど血に溢れ切っている。悪臭は昼間よりも強くなり、夜の帳に死臭だけがさくらの鼻腔を支配する。彼は、――ガッダ卿は、この街を行き来する数多の人間を犠牲に変えて、鉄壁の防衛を自身の街に張り付けた。――人を殺してまで彼はこの防護を欲しがった。
 ――「何とかしてやりたいんですがね……門のところに押し潰された連中も。中佐の魔術が使えないんじゃあ火葬だって出来やしない」。
 ――「人死にが出たのですね……」。
 ……“死んで”いることは分かっていたのに、それを“魔術式のために”使われた可能性があるということが抜けていた。魔術式というものは、術者が魔力を込めさえすればそれが何によって描かれたものであっても自動的に発動する、そういうものだ。
 ……誰かが、音を鳴らして唾を呑む。

「……血というのは、太古の昔から純粋な魔力の源です。例えば水では出来なくとも、血液ならば一部分だけを血そのものの魔力で補うことも可能でしょう……」

 やりたくはねえですが、とトマスは吐き捨てるように付け足した。濃厚な血の香りとガッダ卿のやり口に、さくらのほうも胃の腑がむかむかとしてきたところだ。

「――じゃ、それが決定だとして」

 同じく吐き気を催しているに違いない顔でカタリナが言って、片方の眉を器用に上げた。

「……どうやって取り除く?」

 困ったように眉尻を下げたのが目に見えた。
 結局はそこに帰結する。魔術式がどこに描かれているかが分かったところで、昼間の偵察の様子ではどうやらそんな隙は無い。円の一部を切り取ればいいというのは分かるのだけど、この壁に魔術は効かない上に目的の血潮は瓦礫の底だ。これだけの人数がいるわけだから、歩いているうちに何かいい方法でも思い浮かぶかと思ったのだが。

(結局思い浮かばなかったか……)

 そこに在るのが分かっているだけにもどかしい。魔術式、血、街壁の下の……。

「だからっ――」

 一瞬張り詰めたような声がして驚いてそちらに視線をやったら、ネロが続きを口ごもったように「……あの……」白い肌を真っ赤に染めてもじもじしていた。全員の視線が一気に自分のほうを見たことで、気勢が削がれたらしかった。
 ……そういえば、ネロが今回の旅に同行した理由をさくらは知らない。てっきり山で迷ったときのためにだろうと勝手に納得していたが。

「……どうしたの。何か思いついてるの?」

 傍まで歩み寄ってから膝を折って目線を合わす。アルブスの民の白い肌は、体調が悪くなって青ざめた色とか羞恥に染まった赤い色とか、そういう顔色をあまりに明け透けに周囲に伝えてしまう類いのものだ。
 泣きそうな顔でネロが小さく頷いた。「あの……」小さな声で。

「だから、あの…………。…………、だから、ボクが来たんです」

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