「ぜえええったい、離さないでね。これであんたに何事かありゃああたしがただでは済まないんだから」
「抜かせ、貴様一人に任せるものか。サクラ、頼むから足元に注意してくれよ。俺は君を踏んづけたくはないものでな」
「私だってそれは嫌よ」

 二メートル超えの大男に踏みつけられたら手だか足だか肋骨だかが無事に済むような気もしない。十分足元に気をつけてはいますとも。カタリナに手を引かれながら慎重に足元を確認し、背中にマクシミリアヌスの巨大な手のひらを感じながらさくらは思う。
 夜のうちにチッタペピータに戻りたいと言ったさくらに対して、ヤコブスとマクシミリアヌスが出した条件というのがこれだった。最難関の沼の橋をアルブスのネロに手を引かれながら渡った後、前述した二人にサンドイッチにされながらこうして山を抜けている。夜の山は足元も見にくく不便ではあるが、おかげでそうはまり込んだ状況にはなってはいない。

「カタリナはともかく、マクシミリアヌスまでそうやって普通に歩いていれるとは思ってなかったわ」

 ふん……とマクシミリアヌスはどこか不満げに鼻を鳴らした。

「俺一人の力ではあるまいよ。俺は君を援護しながら、君の、つまりは君の手を引くカタリナの後を追っている。足元の確かさはようく存じているということだ」

 カタリナが得意げに鼻を鳴らした。ただし飽くまでも慎重に、夜の山への警戒は断じて怠らないがまま。

「当然さ。まああたしも、ヤコブスやトマスについていってるだけだがね……!」

 ――さくらがチッタペピータに戻りたいと言ったとき、ヤコブスは苦虫を噛み切って飲み下しているまさにその最中のような顔をした。それでもこちらが揺るがないというのを見ると、苦虫を追加で何万匹も噛み砕きながら妥協案を口にする。まだ地の利があると言えるヤコブスとトマス、記憶力に富んだグイドの三人が先行し道をつくり、カタリナとマクシミリアヌスは前述どおり、沼の橋を超えた後にはフゴとネロが後続につく(当初ヤコブスの案にマクシミリアヌスとネロは入っていなかったのだが、マクシミリアヌスがねじ込んだのと、沼の橋を超えた後もネロがどうしてもついていくと言い張るためにこういう並びになっている)。随分大袈裟な道連れであると思われるかもしれないが、夜の山とあってはこれだけ連なってもまだ足りないくらいだとヤコブスやカタリナは付言した。実際その通りではあると思う。この山にどんな生物が潜んでいるかは知らないけれど、視界が利かないというだけで十分そこは危険であった。ヤコブスが苦虫を噛み潰していたのも道理というもの。
 それでもさくらは譲らなかった。“あちら”に時間が無いと言うのなら、つまりこちらにだって時間は無い。“あちら”が何かしらの準備を整えるその前に、さくらはチッタペピータに行かねばならない。

「見えてきた」

 カタリナが言う。その視軸の先にはヤコブスとグイドとトマスがあって、何か手で合図をするのがさくらの視界にも辛うじてながら読み取れた。見えてきた、というのは多分、ヤコブスら三人の視点でだ。
 やがてさくらにも森が開けた。下方にぽつりぽつりと灯りが見えて、ようやくそれがチッタペピータの街の灯りなのだと知った。
 思ったより灯りは多くない。
 多分、灯りのついていない家もあるからだ。
 ――瓦礫の下敷きにされた数多の人間のことを考えた。外に出るかしようとしてた身分であるから、多分ほとんどは商人だろうということだったけど。
 まあどのみち、退路の絶たれた状態で灯りを灯して呑気にお喋りしたがる人はあまりいまい。
 広い平坦面のただ中に浮かび上がる円形の街の様相は、午前中にやって来たときに既にさくらは目にしていたために幾らか思い浮かべることは可能であった。それでもやはり夜は頼りなく、日本で見た街のそれとは一線を画して見えづらい。
 あとは下れば平野帯。
 ここに来るまで随分長かったような気さえする。それでもまだまだ先は長い。

「一度休憩するか」

 首の動きのみで否定した。ヤコブスはそれ以上何も言わなかったし、誰も休憩を勧めることはしなかった。フゴがネロを担ぎ上げようとするのが視界の端に微かに見えて、ああ、彼のためにも休憩に応じたほうがよかったのかと自分の焦燥さを恥じはした。
 ネロが僅かに首を振る。さっきのさくらと同様に。

「山道は慣れているので……大丈夫、です……」

 引っ込み思案な声がして、横目で流していたさくらのそれとネロの視軸とかぶつかった。暗闇を裂くかのようなペリドットの――
 ――ネロは小さく頷いた。

「多分、ボクにしか出来ないことなので……大丈夫です」

 さっきより芯の通った声だった。

「……?」

 さくらは些か小首を傾げる。言葉の意味が分からなかった。
 腕を引かれる。
 手を繋いだままのカタリナだった。さくらが棒立ちになっていたので、若干カタリナがたたらを踏むような形になった。

「? ……行かないのかい?」
「……行く」

 疑問を押し込め頷いた。ぼさっとしている場合じゃない。というか、さくらの我儘でこうしているのにさくらが足枷になるわけには当然いかない。
 登りを踏破したところで下りが安全になるわけでは勿論無いため、これまで以上にカタリナには慎重に手を引かれたように思われる。マクシミリアヌスもどこか遠慮がちに、むしろ下りの段にはさくらのほうを道標に下っていたのではなかろうか。さくらの護衛顔でさくらの背後を守ってくれていたマクシミリアヌスだって、夜の山道を歩き慣れているというわけでは勿論無い。実際下り始めたときにはカタリナと、「……あんた不注意に転ぶんじゃあないよ」「誰が転ぶか」「あんたが転んだらサクラやあたしまで巻き添え食らうんだからね。その巨体が突然降ってきたらか弱い女二人どうなるか」「ええい、だからこうして気をつけておるだろうに!!」……とかいうコントみたいな会話をしていた。事実そのおかげでさくらもカタリナも、マクシミリアヌスの下敷きになるような事態は避けられた。
 カタリナが一つ吐息した。足を地面につけたとき、彼女のその理由を理解した。――山道よりも頼りがいのある平野の感触。

「一度休むか」

 というのを再びヤコブスに言われて、さくらは視線を巡らせる――ネロに疲れた様子は特段無かった。流石、山道には慣れていると断言していただけはある。逆にこっちが気の張り過ぎで、疲れているような具合であった。
 深呼吸する。
 一度、二度、三度。

「――いや」

 最後に一つ息をつく。

「私は大丈夫。行ける」

 マクシミリアヌスが大息ついた。

「君が行けると言うのなら、俺たちが休むわけにはいくまいな」

 見るといつもきっちり閉まっているはずの彼のワイシャツのボタンが二つ、いつの間にか開けられていることに気が付いた。暗くてよくは見えないが、多分汗もかいているんではないかと思う。さくらの米噛みにもさっきから数滴汗が伝って、首筋を通って鎖骨に吸い込まれてを繰り返しているのでよく分かる。

「別に、行けないのなら休むわよ」

 何せもしもさくらの思惑どおりに事が運んだのだとしたら、これから少し体を動かさなくてはいけなくなるかもしれないために。体力は温存しておいたほうができればいい。それはマクシミリアヌスもヤコブスも、よく分かっているはずだ。
 いや、とやっぱりマクシミリアヌスが首を振る。

「付き合うとも。これくらいのこと、教会ではよく訓練としてやってはいたことであるからな」

 そこでヤコブスがふんと短く鼻を鳴らした。

「当然だ。俺が休むかと問うた中に貴様は一片も入っていない」

 それに対してマクシミリアヌスは何も反論しなかった。普段ならばうわうと獰猛犬並みに吠え立ててくるところなだけに、さくらとしては余計に心配になってくる。

「本当に、休むのが必要なら休むけど……」

 言いかけた言葉を頭に触れた手でとめられた。常人より一回りか下手したら二回りも大きいマクシミリアヌスの左手が、さくらの頭部を小慣れた様子で撫でていた。

「何、体力を温存しておるところだ。きついのはこれまでではない、これからだからな。一歩踏み入ったが最後、一瞬たりとて気の抜けない修練場に赴くのだから、不必要な体力の消費は抑えるがいい。だろう?」

 ……その通り、なのだけど、そういうことを気にする時点で疲れているのではないのかと。「ははは!」マクシミリアヌスが笑った。

「何……休めないのは俺も同じことだということだ」

 ――真佳の顔が脳裏を過ぎった。
 そうだった……今、あいつを心配しているのは何もさくら一人だけというわけではない。

「分かった……行きましょう」

 頷いて、
 夜の山道を後にする。



突き動かすもの

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