――何かが可笑しいという感じはあった。
 卿の後ろをついていきながらさっきからかつて無いほど高速で頭を働かせている。
 何でも知っているはずの卿が(少なくともこの街の中のことなら何でも知っているはずの彼が)、何も知らないような顔で笑うなんてことはあり得ない(・・・・・)。真佳は確かに考えている。絵の具のこと。沈殿していた石のこと。描かれている魔術式。
 何度も考えて、何度も思って、何度も心の中で問いかけた。それが卿には届かない。
 ――唇を湿した。
 スサンナなら――
 スサンナなら何か知っていることがあるのだろうか?

「――!!!」

 ――いきなり卿が振り返ったので驚いた。袖を通されていない上着の代わりに、真佳が拝借した絵の具と同じ、赤い色をしたベストが真佳の視界に収まった。

「……びっくりした」

 というのが卿の言い分だ。

「随分可笑しな反応をするね。大人しくついてきていると思ったら。前方不注意には気をつけなさい」

 ……割りとまともな注意を受けたことが気に入らない。こっちは未知なる世界に追い詰められているのだぞ。

「よく分からないことを言っていないで入りなさい。それとも貴方は、友人の勇姿を見に来たわけではないのかい?」
「…………そうで正しいよ」

 わざわざちゃんと発話した。卿は何とも感じていないような顔色でこっちの顔を一瞥してから、紫眼の視軸を元へ戻して物置部屋の扉に手をかけた――こもったような埃のにおいが鼻を突く。
 ――「外の彼らは一周終わった」。
 ――「貴方の友人の話だよ」、というのが、さっき話した卿の言。友人、というのは、まあ恐らくさくらであるのは確実のことであるとして。
 ……何で戻ってきたんだろう。って、多分考えるまでもない。

「そう。随分友人想いの友を持ったね」

 鏡を指して、揶揄するような言葉で言われた。さくらやマクシミリアヌスやガプサの面々が街壁と分かるその外縁を、時に観察し時に話し合いながら通過していく様だった。……見ていられないと感じてしまったのは何故だろう。人を殺す術を、実行はしないまでも求め探してしまったが故の気後れ、のようなものであろうか。ただ、さくらだけは――
 さくらだけは、別だった。
 卿が体ごと振り返ってこっちを向いた。

「彼らはこの壁を何とか破壊し、貴族の街へ舞い戻り、そうして貴方を奪還するつもりであるらしい」

 寄って、
 触れる。
 鏡の表面。
 そこに体温は無いけれど。
 ……彼は、鏡のほうは見なかった。

「こじ開けられるかもしれないのに」

 と真佳は言う。

「余裕だね」

 ……彼は肩を竦めたらしかった。それはこの鏡には映らない事柄ではあるけれど、何も鏡それ自体のみが物を反射する仕組みを持っているわけでもない。

「こじ開けられるものならそれでもいい。その時には既に終わっているから」

 真佳の意思を嘲笑うかのような言い様だ。けれど言いたいことはよく分かる。万一さくらやマクシミリアヌスや、ガプサの面々が運良くここに入ってこられることがあるとして、それで何が起きるかというと、対真佳用の人質が数人増えるというだけのこと。ましてや真佳の友人である姫風さくらの存在なんて、入って来ようものならそれは、真佳の不殺(ころさず)を打ち砕く絶対の剣となるだろう。
 だからこの場合、真佳の意識は無に等しい。真佳はただ定められたとおり流されるままに卿を討つ。それ以外の選択肢は、万に一つも見られない。
 それでも真佳は口にした。それが明らかなデメリットであると知りながら。

「さくらなら解ける」

 へえ、と卿は無表情の中に愉悦を交えてそう言った。

「さくらなら解けるし、そしたら私はここにいる意味と理由から開放される」

 ――ポケットの中の感触を頭で思った。
 これは絶対の盾であろうか。
 はたまた、卿の永劫を打ち砕く無慈悲な光の刃だろうか。



ルモーレ、ルモーレ、ルモーレ



 うるさいなあ……
 というのが、ウィトゥス・ガッダの当面の考え事だった。街は混沌としていて、逃げ場の無い状況にあった貴族の皆々様がついに反旗を翻さんというところまで昇り詰めている。それはいい。それについてガッダは何も思っていない。

(まあ、それでも時間はかかるだろう。生まれてきた時代から僕に、私に虐げられてきた彼らは、私に対して絶対的な怯えを持った。少人数の結束なら兎も角、街全体の結束となれば誰かしら臆病な家の人間が待ったをかける)

 それに、とウィトゥス・ガッダは思うのだ。それはこの街でしか通用しない絶対の防御網であり、ほかの街ならとっくに打ち砕かれていても可笑しくないもの。

(貴族は年数を何より第一に考える。何千年に近く貴族であり続けたガッダの家に、果たして反抗しようという気概を持った人間がどれほど残っていることか)

 その時には終わっていよう。何も問題にはなりはしない。それならいっそ、外を巡っている彼らが到達するのを待っているほうが望みがあるというものだ。

(それは私にとっての望みで無いがね)

 鏡面に指を這わせた少女を、横目を流して一瞥した。オンダ(ウェーブ)のかかった黒髪。赤い目。黄みを帯びた白い肌。貴族の中ではあまり見ないその外観に、しかしウィトゥスは感慨をすら思考する。

(懐かしいな、あの肌)

 五百年前にやってきた異世界人と同じ肌の色をしている。彼は皆がそうではないと言ってはいたが、チッタペピータでは見ない色であるだけに注視はされる。例えばアルブスの民など、民族によっては変わった肌の色も極少数いるにはいるが。

 ――最後に一つ予言しよう。君の願いについてだが、それに関してはいずれ必ず成就する。いつか再び訪れる、異世界人の来臨によって。

 知らず知らずに過去のことを考えている。五百年前。彼とウィトゥスが初めて出会ったその時を。

 ――それが僕の望みになるかどうかは、神のみぞ知るというやつだ。

 不敵に笑んだ五百年前の異世界人は果たして、どれほどまでのことを見据えて話していたのだろうか。彼に千里眼は無いはずなのに、どうしても見透かされたような気になった。自分に対する他者というのは皆すべからくあんな感じであったのか。興味深さに高揚感すら思考する。異界人と対することはどれもほかでは得難いほどの宝玉ばかりで、だから周囲に彼の言伝によってちらりちらりと寄ってきていたアルブスの民の存在も、ウィトゥスは敢えて見て見ないようなフリをした。どのみち彼らはチッタペピータの貴族どもには告口しまいし、したとしても自分に何らの害悪を及ぼすことはしないだろうと考えたので。これは以前に述べたまま。だから五百年前の異界人と自分の中に、貸し借りなどという言葉は存在しないと考える。
 ――ああ、そういえば、別れ際に彼に尋ねたことがある。僕の願いが叶うことこそを、本当に貴方は望むのかい、と――。笑いながら。値積もりなんかをするかのように。
 彼は笑ってこう言った。

「――さて、どうだかね。そもそも僕は、ウィトゥス・ガッダの願いをそう詳しくは知らないために」

 世迷言を、とウィトゥスは思う。であるのなら、何故ウィトゥスの願いが叶う機会を彼は予言し得たのか。
 ――男が笑った。

「ただの単純な計算式だよ。この世界には数多無数の可能性と未来というのがあるけれど、一つ一つの生命体の、要は思考回路の傾向さえ分かればあとは概ね推理は出来る。一旦大岩に何らかの外力を加えてしまえば、あとは下り落ちていくだけ、という具合にね」

 ――では僕の、私の思考回路の傾向は? とウィトゥスは言う。
 それに対しても男は笑う。

「だから叶うだろうと言ったのさ――君は何百年、何千年と待つことになろうと、決して諦めようとはしないだろう?」

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