やっぱりどう考えても一番気にかかったのはウィトゥス・ガッダの肖像画で、ちらっと大丈夫かなというのを考えたがまあ何に触れるなとも言われなかったので大丈夫かと真佳自身を納得させて、壁から肖像画を引っぺがすということをした。
 先程、スサンナと会う前に一応肖像画の裏は確認したが、ちょっと肖像画を傾けただけで引っぺがすほどはしていない。壁には何も書かれてなかったし、触った感じ不自然な凹凸も無かったために改めて手元の肖像画に目をやった。
 この塔の中に答えがあると聞いた後、さよならの挨拶もそこそこにここまでそれなりに急いで戻ってきていた。途中で別に急がなくていいことに気付いて、階段だけは比較的マイペースに登ってきた。街壁の天辺がぎりぎり見渡せる窓の役割を担った空洞、小さなアトリエ。特別息は切れていない。
 肖像画は真佳が両手で抱えられるほどの大きさで、十六インチくらいのノートパソコンを目一杯開いたくらいが一番近いかもしれない。額縁が結構豪華っぽく、質量的には多分本体よりもそっちのほうが重かった。
 手に持ったままひっくり返すのは困難だったので、一度床に置いてから肖像画の裏を覗き見た。額縁の裏にはやっぱり何の違和も無い。ここでもちょっと躊躇って、ガラスが傷つかないように気をつけながら裏板を外すことを成就した。幾つかの緩衝材みたいなものがあり、ようやくキャンバスの裏面を見いだせたがここにも特に何もない。緩衝材には四隅に魔術式みたいなものが小さくあったが、多分これは作品を保存せんがためのものだろう。

(……うーん……)

 あとはもう絵の具を直に見ないといけないんじゃあないか、これは。でもガラス越しに見たキャンバスに特に可笑しなことはなし、いたずらにキャンバスを引っぺがしたところで無駄ではないかという感もする。せめてそこに何かあるという確信を掴まないとやる気にならない。万一キャンバスに傷をつけたら卿に何と言って詫びればいいか分からんし……。肖像画というのはよく分からんが、高価なものだ。

(ここじゃないのか……?)

 スサンナは、ここにある肖像画に答えがあるとは言わなかった。ならばほかのどこかだろうか……厚み調整材なんかを元通りに収めきって蓋をして、元の位置に掲げながら小さなアトリエを見回した。
 この塔の中に何か物があるとしたら、それはここだけであろうと思う。一階にも幾つか段ボールっぽいものは積まれていたが、そこに入っていたのは折れた絵筆とか使い古したパレットとか、ほとんど空箱同然のものだけだ。何か意味あるものがあるのだとすれば多分ここ。
 肖像画がハズレであると仮定すれば、あとこの部屋で残るのはキャンバス立ての横にある画材入れしかないわけだ。
 蝶番も何も無い簡素な入れ物と蓋だけの、ただとても大事に使われたこととところどころの意匠から高価なものであることだけは分かる画材入れを、そっと真佳は開けてみた。誰が使っていたんだろう。外から来た画家というわけではなさそうだ。それなら画材を、商売道具を置いていくという理由が無い。ガッダお抱えの画家か、或いはガッダの人間の誰かのものだ。それは分かる。
 二段式の木箱で、多分当時としては珍しいものだったのではないかと思う。
 上段が絵筆入れで、下段が絵の具入れ、それから蓋のほうが簡易なパレットになっていた。
 真佳が知るほど絵筆の種類は多くはないが、年季は古いのに大分綺麗な絵筆であった。何百年も経っているため使い物にはならないだろうが、絵の具の飛び散りや毛の部分に変色が無いことからも丁寧に扱われていたのはよく分かる。

(入れ物といい絵筆といい……随分丁寧に物を扱う人だったのだな)

 或いはそれは当然であるかもしれない。数百年前ともなれば、きっと今より物は豊かではなかっただろうから。今、この現代のスカッリアでも、真佳の世界ほどには物資に恵まれているわけではない。だから貧富の差というのがはっきりされる。
 パレットには何種類かの色がついてはいたが大分色褪せていて判別がつかなくなっていた。混ぜて出来上がった絵の具をそのまま放置していたのだろう。真佳はそういうのが苦手で、水で復活させようと試みても上手くいかないことが多かった。

(絵の具……)

 真佳がよく見知ったチューブに入っているのでは勿論無く、これは小さな壺に小分けして入れられていた。こちらも色褪せか、あるいは中身が無くなっているかだろうと思ったがそんなことは無かった……鮮やかな赤や、緑や、青をしている。つい最近卿が入れ替えた? そんなことをあの御仁がしようと思うわけがない。
 色が保存されていた種は案外すぐ見つかった。瓶の蓋に薄っすらと魔術式が掘られているのだ。術者は既に亡くなっていると思われるが、何故かこれは共に死にはしなかった。そういえば、この屋敷、幾つか捨てられているところがあるが、冷蔵庫なんかはまだ魔術式が生きている。屋敷全体にかけられた魔術がこちらにまで影響しているということだろうか……魔術式はガッダの玄関先で見たのと同じ、観覧車みたいな幾つかの円形の集合体。――ガッダ一族の魔術式。
 開けてすぐさま褪せることは魔術式の効能的にないとは思うが、もしそうなってしまっては取り返しがつかなくなるので絵の具瓶の蓋を開けてみることは躊躇した。ただ幾つか日に透かしているうちに、底のほうに石らしき物体が何個か、沈んでいることに気が付いた――劣化の象徴だろうか? あるいはこれも保存剤とかそういう系統の何かだろうか。昔の絵の具は、たしか色の粉と糊を混ぜ合わせたものじゃなかったかしら。それが組み合わさった状態で保存されているのは魔術式のおかげとして、ではこの石は果たして色の粉の一部だろうか?
 比較的絵の具の少ないものを見つけ出して、窓の傍へ寄り添ってから改めて瓶を傾ける。水状のものが重力に従って瓶の中を流れ出したが、石のほうはちっとも動きやしなかった。

「……?」

 よく見ると表面に薄っすらと何かが描かれている。丸、の中に何か複雑な紋様が――

(魔術式……?)

 片目をしかめてから瓶の中身を水平に戻した。瓶の底にビーズくらいの小石が幾つかあって、それらが連なることで魔術式が出来上がっているらしい。これは青い絵の具であったが、他の色でもそうだった。これも保存の魔術だろうか……? ――そうではないだろうな、という気はしている。

(保存の魔術式なら瓶の蓋のほうで事足りる。他の街で見た保存の魔術式とは形態は異なっているけれど、多分これが保存だろう。容器の表面に彫っておいてその中身を保存するという手法だけは何度も見ている)

 ……ではこれは?
 まるで絵の具を魔術式に浸すようにせんばかりのこの出来は、一体何のためのものだろう。
 ついでに他にも小部屋の中を見て回ったが、特に気になったのはこの絵の具の瓶以外に見当たらない。スサンナが言っていた解答というのはこれのこと? 割りと数分単位で躊躇はしたがとりあえず一瓶だけ絵の具を拝借しておくことにした。絵の具が答えとか正直意味が分からないけど……他に当たりらしいものも無し……。引き抜いた赤い絵の具をポケットの中に忍ばせる。スサンナか卿に聞いてみて、これの意味が分かればいいけど。
 最後にもう一度部屋の中をチェックして、ついでに降りるときにも壁と階段と一階部分をチェックして、それで二度目の塔を後にした。



拘泥



 さっきの廊下に戻ってみたが、そこにスサンナはいなかった。真佳に助言をするだけしといて、その後どこかに消えたらしい。この屋敷を彼女捜して無闇に歩き回るのは、あまり得策だとは思えない。
 仕方なく真佳は塔を横目にもう一度中庭を突っ切って、真佳の仮の住処となった居間と、食堂と、物置部屋とがある左翼の屋敷に戻ってみることにした。今言った三つの場所には、誰かしら(と言っても二人だけだけど)がいるかもしれない。
 居間を覗くと、果たしてそこに卿がいた。
 本当にいるとは思わなくて、いた、ということに驚くだけの間が要った。

「そこまで意外に思わなくとも。言っただろう? 僕には貴方たちのことが少しく詠める。貴方がここへ向かっていることが分かれば、待ち伏せすることは容易だろう。僕を捜していたんだろう? なら好都合じゃないか、おめでとう」

 そう言う割にはあまり目出度そうでない声色で、眼鏡の奥で瞳を細めて優雅に嗜んでいたティーカップをゆっくり置いた。カップの底が受け皿に触れるとき、中の液体がじわじわ波打つのが目についた。
 ちょっと考えてから真佳は言った。

「絵の具を拾った」
「拾ったというよりは、拝借してきたんだろう? 懐かしいな、まだ魔術が切れていないとは思わなかった。当時は何とも思っていなかったけれど、ガッダの紋章が施されていたのだね」
「…………」

 聞きたいことがあり過ぎて、頭の中で整理し切れないまま口を開いてそうして黙った。喉のところで大渋滞が起きたので。卿は少しく笑ったらしい。

「それは流石に読み取れない。いいね、読めないものがあるというのは。では貴方の整理がつくまで、僕は貴族の魔術式というものについて語っていよう」

 口をぱくぱくさせながら、真佳は一方的に聞かされるそれを脳みそに叩き込むことになる。最も、無論全てを覚えることが出来たかどうかは別の話だ。

「貴方が塔の中で思ったとおり、大抵の術式は術者が死ねばその時点で死に絶える。ただし、貴族の場合は少しく違う。この術式は貴族の家系全てのもので、家系が生き残っている限り滅びを迎えることはない。高価ではあるが、それなりの貴族にとってははした金さ。そして今、このガッダの人間は不本意ながら生きている。絵の具の瓶に魔術式を仕掛けるほどに絵画について執着しているとは思わなかったが、まあそいつが生きているのは僕のおかげと言えるだろうね」

 ……真佳のポケットに含まれた絵の具の瓶を、あからさまに視線で示してそう言った。そんな複雑な術式があるとは思わなかった。魔術というのは意外なことに奥が深い。

「意外、と言われるのは心外だ。魔術とは、貴方たちの世界で言うところの科学であり、数式だよ。深遠であるのも自然と言えよう」

 ……真佳は科学や数学にはてんで無学であるからなあ、という顔をした。恐らくだけど、真佳の科学の知識よりかはスカッリアの人たちの知識のほうが優っているのであるまいか。

「この魔術式がつくられたのは随分昔のことだから、僕も詳しく作り方を知っているわけではないのだが、まあきっと、一族の血統でも含まれているのだろう。即ち、血だね」

 また血かあ、というのを考えたが、これに関しては読み取られないまでも多分卿には分かっただろう。恐らく誰よりも、卿が一番思っていそうだったから。

「貴方が持っているその瓶の蓋にも、きっと微量の血が含まれていることだろう。いつの代の当主かな。僕の祖父は偏執家でありながら絵画を愛した人だったから、そうして考えるに祖父の血かな。まあ誰でも良い。効力はどの道変わらない」
「お爺さんが絵を……?」

 描いて、という部分は口にする必要も無かった。彼は全てを見通すからだ。

「そうだよ。本当に偏狭でどうしようもない人だったけど、絵を描くことだけはどうやら彼の趣味だった。小さな絵画は大体彼が描いたのだろう。どれにも祖父のサインがあった。僕は、彼の絵の技量というのは分からんが」
「絵の具の底の魔術式は?」
「――」

 一回、そこでエアポケットに入ったかのような空白があったのを真佳自身は訝しむ。そう真佳が問うことは、当然予測済みだと思ったが。

「……何? 何だって?」
「……? だから、瓶の底にある魔術式――」

 ポケットから引きずり出そうとして絵の具の瓶を掴んだ刹那、「っ――?」強烈な静電気みたいなものに右手を焼かれて咄嗟にその手を引っ込めた。
 ――指の先に、薄からぬ焼け焦げたような跡がある。――この瓶の、瓶による拒絶反応? こんなもの聞いたこともない――人の肉を焼くほどのこんな拒絶反応が、魔術で出来るなんてこと。

「外の彼らは一周終わった」
「っ……、……?」

 卿が何を言っているのか分からなかった。思わず手癖で自分の焦げた指先を、左手のほうで庇ってしまった。

「貴方の友人の話だよ。見に行くかい?」

 右手を庇った真佳に対して、いつもと何ら変わらぬ笑顔でウィトゥス・ガッダはそう言った。

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