…………どうやってソファに戻ってきたのか覚えていない。居間に戻って、ソファにもぐって、手渡された毛布もちゃんとかぶってた。ただし頭から。服装は変わらずガッダ卿に着せられたゴスロリなので、あんまり休んだという気はしなかった。もう誰にも着られることは無いとは言え、シワだらけにするのは躊躇われる。

「…………」

 まだ重い頭で周囲を見渡したが、スサンナの姿も卿の姿も見られなかった。朝ご飯を食べたような形跡はない。そういうのも全部食堂で食べているのかも。っていうかそれが普通なのだ。そもそもスサンナが今日もまたここにいるのかどうかということすら真佳は知らない。

(……)

 二度寝しようかなと考えたが大分頭は覚めていた。今何時だろう。陽の加減から考えて朝のような気はするが、この屋敷の陽光は何故だか常に怠惰だし、真佳の経験則で考えてもやっぱり昼間になってる気がする。
 ……あんなことがあっても昼まで寝るのか。
 我ながら根性が据わっているのか緊張感というのが無いのか。
 毛布を剥ぎ取って重い上半身をこわごわ起こした――ワタシはマナカの肯定なしに、イつでも人を殺せるよ――服に返り血がありでもしたらどうしようかと思ったが、幸いにしてそれらしいシミは見当たらなかった。乾いた血液が黒の布地と同化して、わかりづらくなってるということも無さそうだった。恐ろしすぎて穴があくほど確かめたので間違いない。
 ……卿は生きてる。
 そのことにほっとしている自分がいること、それ自体に安堵した……大丈夫、まだ自分は、卿の延命を願えてる。それがどんなに非道い呪いであるのか知ってても。
 下半身にかかった毛布もうっちゃってそのまま立ち上がりそうになってから、ちょっと考えて毛布をきちんと畳んでから退室していくことにした。卿には何だかんだで一宿一飯の恩がある(……真佳の希望であるかどうかは別にして)わけなので、義理は通すことにした。とりあえず卿を探そう。ここから無理矢理外に出ることは可能だろうが、どのみち街の外には出られないので一緒だし、相手は心を読んでしまうし、出た瞬間に街を(文字通り)陥落されても困るので。
 とりあえずは食堂に到達したいと考えた。居間から食堂へはとても容易に到達できる。居間の隣の台所が食堂に通じている造りになっているようで、真佳でも迷うことなくそこまで行くことが出来るのだ。食堂まで行ったら何か残り物とかあるかもしれない。地味にお腹が空いてきた。台所を漁るのはお客さんとしてどうかと思う。……台所の食べ物と食堂に置いてある食べ物とでどう違いがあるのかという突っ込みは今は別にしよう。
 最短距離で厨房から食堂の扉を押し開けたら(これも多分お客さんのすることではない)きょとんとした顔が出迎えたことにぎょっとした。――卿とスサンナが、昨日の夕餉と同じ向かい合わせの位置に腰を下ろしてこっちを見ていた。

「まだその格好だったのか」

 というのをまずスサンナに言われた。真佳としては心外である。若干わざとらしく頬を膨らませながら、

「卿が返してくれないんだから仕方がない」

 卿は小さく笑ったらしかった。
 自嘲的な笑みでなかったことに心のどこかでほっとした。

「僕の自室に放ってあるから、事が済んだら勝手に持っていくといい」

 ……せめて丁重な扱いをしてほしいものだと、後半の台詞に気が付かないフリをしながら真佳は思った。
 パンに、ローストビーフに似た何かと、野菜が挟まれているものが数個、皿の上に乗っかっていることに気が付いた。直感的にお昼ご飯だなと考える。スカッリアの朝ご飯は大体それよりも簡素に、菓子パンや、地域特有のパンにジャムやバターをつけたものが一般的だと知っていた。

「貴殿は朝が弱いのだな」

 とスサンナが揶揄するように薄く笑い、卿もそれに乗じる形で「それにしても、昼まで眠り込んでしまわれるとは思わなかった」と口にした。……大分耳タコな話であるが、何度聞いてもいたたまれなく話である。

「まあ座りたまえ、貴方の昼餉も、そこに用意させていただいたから」

 ……そう言って指された場所は卿の真横なわけだけど。しかしまあ、これも昨日と同じ配置であるし……半ば予測できたものではあった。一度ちらりと卿の横顔を盗み見て、卿の後ろを通り過ぎてから大人しく指された席に腰下ろす。……昨日の夜の一件を、特に気にした素振りもないことにほっとするやら……不穏になるやら……。
 皿にはパンが半分にして置かれている。元の世界で言うとバゲットサンドと言われるものが、食べやすいように置かれているのだ。……これを卿が? 横目でガッダ卿を一瞥した。この卿が、食べる者への配慮としてこれを行ったというのは実に不均衡なように思われる。

「実に失礼なことを考えているね」

 当たり前だが何を考えているかは即行バレた。

「いや……えっと……実に貴族らしくないなと……」
「彼らが料理をせずにいられるのは、全て使用人が行うからにほかならない。ガッダの使用人は既に滅び、行えるのがこの僕一人となるならば、当然行えるよう努力はするさ。時間だけは、何せ無数にあるわけだからね」
「誰か雇えばよかったのに」

 とはスサンナの談。そりゃそうだ。多分ほかの貴族が卿と同じ立場に立ったなら、迷わずそういう選択を取ろうと思う。

「……初めはそれも考えたがね……」

 と、珍しく卿は言葉を濁した。
 横顔をそっと盗み見る。今日は朝から眼鏡をかけていた。眼鏡のブリッジのその奥で、玉座に収まった紫水晶が揺れていた。
 卿が考えるようにちらりとこちらを向いたので、真佳は慌てて視線を逸らす。目の前のバケットサンドに大口あけてかぶりつく。特性タレみたいのがかかっていた。まさかこれも卿のお手製じゃあるまいな。

「……そうだね」

 何故だか短く卿が言う。何に対しての“そうだね”かは、やっぱり真佳に分からない。

「最初は使用人の雇入れも考えたのだけど、実際入れてみるとどうしてもね。館の気味の悪いのと、年を取らない当主のせいで、どうしても表情が引き攣っていくのを見てられなくて。心中も十分荒れていたようだったから、すぐ解雇して、以来自分で何でもこなせるようにやってきた。食べやすいようにとしてるのは、全て自分のためだったんだよ? ここにはあまり客が入らないものだから」

 ……いつの間にかバケットを食べるのをやめていた。また……また嫌なことを聞いてしまった……。考えないようにしてたのに。そうすることは得意だったはずなのに。それは多分酷なことだが、道徳を踏み外すよりはマシだと思えた。鬼莉に堕することよりはマシだと思えた。だから考えないようにする。
 目を瞑る。
 目を開く。

「忘れてくれても構わんが」

 小さな声で卿が言う。

「時間制限があることだけは、忘れてもらっては少々困る。……僕の命か街に点在する数多の命か、選ぶ覚悟は出来たのかい?……」



暗中



「卿を殺せバ皆が幸せになれル。幸せのためニ殺すのは、まあつまらなくはあるケれど」

 窓の中で鬼莉が言う。真佳が移動するのに合わせて窓ガラスの鬼莉も移動する。

「迷う理由がよくわからないナぁ」

 そう言って鬼莉は肩を竦めて、どうやら消えたらしかった。ノーを表明し続けられたことに真佳自身ほっとした。……何のためにノーを表明し続けたいのか、何のために拒み続けているのか、とっくに分からなくなっていた。それ自体が不道徳であることを知っていた。

(こうなってくると、ヴィケンスの問いにイエスともノーとも答えなかったことが愚かに思えてくるな……)

 港町スッドマーレで、頭に甲冑を被っていた男に言われたことだ。“君は、人を殺したことがあるのだね”……。
 ない。
 と、今ならはっきり断言できる。鬼莉にも殺させていないはずだ。まだ。無抵抗の相手を傷つけたことはあったとしても。
 それをあの当時躊躇したのは、殺していなくても多分それ以上に人の運命を歪めてきたことは確実だから。決して潔癖ではなかったから――殺していない、で、彼らは満足するだろうか、と……考えてしまった。
“人を殺したらどうなるか、私たちは既に知ってるからだ”……そう口にしたのは真佳自身のはずだった。正確にはそれは祖母の受け売り。真佳の体術の師である祖母は、殺しの談になるとき短くこう言った。「殺しを真に恐れるのはね、人を殺したやつだけさ」……。
 お祖母ちゃん……なら、こういうときどうするだろう。あの人なら殺すだろうか。幼子の真佳を半ば無茶苦茶な方法で鍛え続けた祖母ではあったが、こういうとき考えるのは、やはり祖母ならどうするか、ということだ。あの人なら人殺しの業を新たに背負うことになっても殺すだろうか。人殺しの業を背負ったとき……私はさくらの隣にいれるだろうか。

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