居間から物置部屋までの道のりを勿論真佳は覚えている。然程遠くはないし、一度目は卿と、二度目は一人で同じ道のりを通ってきた。もう何度も開かれてへそを曲げたらしい扉が抗議の軋み声を上げ、真佳は一瞬どきりとして廊下の先に視線を凝らす。L字型の廊下の先には何もいない。灯りのついたままの吊り下げ型の電球が、風に煽られてかゆらゆら揺れているのを視界が捉える。
 ……一度唾を飲み下し、意を決して扉の奥に滑り込む。



我は常に狭小なる人生に住めり



『あの壁は結界であるという話は既にした』

 鏡の中の好々爺が先手を打ったことに一瞬間だけ呼吸が止まった。……何のことはない、真佳が意識を向けるまでもなく、それが真佳の見たいものだと鏡が意識を汲み取ったのだ。アルブスのお爺さんは湯気の出るコーヒーカップを両手に抱え、多分恐らくその場の全員を見渡した。

『あれは恐らく、ガッダの人間の執着心の塊だ。そうそう容易く壊れるものではなかろうし、超えることすら叶うまい。何百年何千年の時を経て形作られた魔術式がいかに強固なものであるか、君らは恐らく知らなんだろうが……。我らはガッダの魔術式発動と共に自動的に発動してくれる類いの陣を、術式の一隅に半ば無理矢理にこじ開けて、一度切りの抜け道をああしてこさえてやっただけ。歴史に歴史で対抗し、陣を陣で迎え撃つ。君らにそれは出来るまい。あれからガッダも歴史を重ねて更なる力を得ておろう。歴史に歴史で対抗するような同じ術策が通用するとは思わんよ』
『では……』

 ――その野太い声がマクシミリアヌスのものであるということに、真佳はすぐに感付いた。円卓に集った面々の顔を、真佳は随分久しぶりに見たような気がそのときした。

『開くことは出来んと申されるのですか?……あの壁を抜けることは叶わんと?……』
『これは我々の答えである、と話したろう』

 黒々としたエスプレッソを啜る音。美味そうとも不味そうともつかぬ顔を老人はする。マクシミリアヌスの顔には焦りがあった。それが誰のための表情であるか、分からないほど馬鹿ではない。

『君らは君らの答えを得、そうしてチッタペピータに進軍するのだ。さすれば神はきっと君らに応えよう。アルブスの知恵は万能ではない。理解出来る物事には限りがある。あってしまう。これは一つの解答だ。そう言うた。その程度の援助しか出来ぬこと、真に遺憾には思うがの……』
『いえ……』

 硬い声がマクシミリアヌスの喉元側から絞りでた。
 老人が唇を引き締めたのを、その口髭のジャングルの中から視認する。

『もう一つ。もしも念願叶って壁の中に入れたとして、ゆめゆめ油断しようとは思わぬことだ。むしろそこから先が難敵であると思いなさい。ガッダの歴史は非常に厚く、そしてガッダの執念は地中の何よりも昏く深い。飲み込まれぬよう用心すること……忘れるなよ。これは当時の異界人の見解だったが、私も疑ってはないことだ。奴は神のご意向に背いた吸血鬼(ヴァンピーロ)であり、吸血鬼というのは』

 ……老人は言った。
 そのぐるりを見渡して。

『吸血鬼というのは、神のいなくなった暗闇に図々しくも君臨し続ける覇者とも言える』

 ――ばつんとテレビの電源が切れるみたいに鏡の中の景色が変わって前後不覚に陥った。いつの間にか自分は鏡の前にしゃがみ込み、その鏡面に右手を添えているらしかった。……背後に男の姿が見えたことに驚いた。驚いて、でもそれは長続きはしなかったし、まあそういうものかとも考えた。真佳の考えることなどどうせ男はすぐに汲む。
 だからせめて真佳は自嘲気味に、笑って男を振り仰ぐ。

「……バレたよ。吸血鬼」

 光を反射した眼鏡に隠れて、紫玉の瞳は真佳の視界に収まらない。我ながらその“吸血鬼”には、意地悪な響きが存分に含まれていると考えた。

「……――……」

 ……とても小さな、唇だけを動かすような発し方で、しかし卿はこう言った。「……神のいなくなった暗闇に……」……。
 さっきの老人の言の葉を、繰り返しているのだと真佳は思う。それはどこか憔悴しているようで、存在が希薄で紙のように薄く、呆然としているように思われた。……意地悪が過ぎただろうか?
 くはっ、と、空気の塊を吐き出すような声音を吐いて、卿は笑った。……ようだった。抑えるような笑声で、それがだんだん声を上げた引っかかり気味の音に成る。埃が空気に擦れるような掠れた声で男は笑う。

「夕餉は早めに済ませて良かった」

 声の出し方を今、漸く思い出したみたいに男は言った。自嘲気味な――自嘲気味な声色だった。さっきの笑声にも同じ色が含まれていたことに、この時漸く真佳は気付く。

「あまり聞きたくない……あまり聞きたくない話であったね」

 男は口角を上げたらしかったが、その双眼は頼りなげに揺れているように思ったし、真佳と視線は合わせなかった。無理くりに上げたのだろう、ということは、多分真佳でなくても読み取れた。
 ……カバネと対峙したときの、皆の様子を思い返していた。カバネ。未だ記憶に真新しい、神の意向に反し無様にも更なる生を追い、死体の骨となってまで徘徊し続ける不敬者の成りの果て。神の意向に反すること自体が不徳とされる彼らにとって、カバネの存在は触れることすら穢れであり、視認することすら吐き気を催すものなのだ。
 ――ではそんな彼らが不死に成り果てればどうなるか。
 想像に難くない。無論考えるまでもない。
 卿は笑ったらしかった。
 一瞬遅れて、これらは全て垂れ流しになっていることに感付いた――心臓が嫌な具合にどきりと鳴った。

「神は我々の道である。その道を外れ道無き道を進むなら、無論穢れることも道理だろう」
「……でも、それは卿の望んでいることじゃない」

 そうだよ――と、卿は言ったらしかった。
 掠れた声で、半ば空気に埋もれた声で、やっぱり聞き取りにくい声だった。

「だから僕は貴方に殺しを依頼した。この体を――魂を、神の御下に無事に返しに行けるよう」
「――」

 ――。
 ……――。
 ……………………。
 真佳は何も発せなかった。何も口には出せ得なかった。それは救いに思われた。正直衝撃を受けたのだ。体の芯を撃ち抜かれた感覚だった。心の臓が張り裂けそうな感覚だった。……それは救いに思われた。

「今すぐ、とは誰も言わない」

 卿が言う。
 心の臓がじんじんしていた。目頭が何故か熱かった。

「制限のある時間の中で存分に迷ってくれればといい。今更一日や二日待ちわびるのは、考えるよりも苦ではないんだ」

 さくら――……。
 さくら。
 心の中で寄す処のように名を呼んだ。それがたった一つの救いであって、取り縋るべき道徳であると考えた。卿は物も言わずに唇だけで薄く哂い、部屋を出て行く音がしたきり二度とそこには戻らなかった。
 ……さくら。
 縋りつかねばすぐに何かを取り零してしまいそうに思われて――ただ溺れる者であるかのようにがむしゃらに猛然にその名を呼んだ。


■ □ ■


 ……卿も酷なことをするものだ、とスサンナは思う。スサンナはウィトゥスのように心を読めたりはしないけど、何かにぶつかったような顔をマナカがしているのだけは察知した。

 彼女は言葉を濁したけれど、多分マナカは人を殺したことが今までない。あれはかつて人を殺したことを思い返して絶望するような顔じゃあなかった。未知の領域に、恐怖の領域に踏み込むことに絶句したらしい顔だった。物置部屋の戸口から背を離して、スサンナもこっそりそこを辞す。さっき卿が通りかかったとき、一瞬間だけ目が合った。合って、微笑して去ってった。あれほど切羽詰まった言動をしていたくせに。あれが演技でなかったくらい容易に分かってしまうんだから、僕に強がったって無駄だぜ、卿。
 卿が何故彼女に殺しを依頼したかスサンナには理解が出来ない。確かにスサンナよりは圧倒的に強者だけれども、こと殺しに関してと戦闘センスというのは基本的に別枠だ。強いからって誰かを確実に殺しに行けるわけじゃない。それは全然別の違う科目。あの子に殺しを開拓させることに意味がある、なんて……まさか考えているわけもあるまいし。
 殺す術を探すだろうか、とスサンナ・マスカーニは考えた。
 あれを、
 ……殺す術を知ったとしても、殺すつもりが果たしてマナカに残るだろうか。

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