真佳に殺しを依頼したこと、敢えてスサンナには口にしないんだと考えた。まさか内緒にしているつもりではあるまい。多分真佳がスサンナにさっきのことを話したことも、スサンナがそれを聞いたことも、実際卿は知っているんであろうと思う。それでも敢えて口にしないのは……
 スサンナに対する同情か、或いは気まずさとか、そういう類いのものであろうか。

「よもや」

 ……卿が短く否定した。

「そのような軟弱な理由で話すことをやめたとなれば、あの子はここを去るだろう。そういう子だ。昔から」

 ……まるで昔から知っているかのように言う。
 さっきの話だと、たった数年前に出会っただけだという話のはずだ。

「会って間もないのは確かだが、それだからと言って全く知らないというわけではないよ。何でもない一挙手一投足、指先のぶれや視線の動かし方から大抵の性格は想定できる。加えて僕には、ほら、神より賜りし心を視る目があるからね」

 眼鏡の上から自身の右目のその付近に指をやり、それからそんな格好つけた感じをうっちゃりベッドの具合を確かめるためにマットレスをぽふぽふたたいてみたりする。際限ないレベルの埃が舞って流石に引いた。口と鼻を片手で押さえながら神妙な顔つきで卿。

「……ああ、やっぱり駄目か……ソファの上で眠ってもらったほうが衛生上も遥かにマシだな……」
「どこででも寝ることは出来るからどこでもいいけど……」

 野宿だってしてきた身だし、ソファがあるだけで十二分な厚遇だ。というのを説明したのにわざわざ館の部屋部屋をウィトゥス・ガッダと見回ることになっていた。広い館だから多分まだ半分も見ていないとは思うけど、どの部屋のベッドも、というかベッドどころか部屋全体が埃と何かの巣みたいなもので大変なことになっているので心が折れかかっているところ。ここまでひどい有り様だとは思っていない。埃や蜘蛛の巣ならまだしも、このよくわからないものの巣というのが真佳としてはとても怖い。繭みたいのが吊り下がってない? 何これ? 恐ろしい怪物とか羽化したりしない? 早く居間に帰りたい。

「そうだね……貴方がそれでいいと言うのなら僕もそれに甘んじよう。流石にここまでひどいものだとは僕も想定していなかった。壁紙や家具も変色しているし、マットレスやカーテンも何らかの被害を数多く受けているらしい。数百年という時の流れを前にすれば、不動の物などというものがいかにまやかしであるかがよく分かる」

 ……むしろそのことに今まで気付かなかったのがすごいというか何と言うか。時間に関してだらしがないというスサンナの言は、あながち言い過ぎでもないんだなあ……。……。

「出来れば、客人にはそれ相応の、きちんとした部屋に泊まってもらいたいとは思っていたんだが」

 ベッドマットレスをどこか未練がましげに見下ろしながら卿がやっと立ち上がってくれたのでほっとした。私はもう外に出ていい? これがさくらでなくて良かったな、もしも彼女がこの場に選ばれていたならば、部屋に入る寸前でサスペンスものもかくやとばかりの悲鳴が街中に響き渡っていたところであった。卿がこちらへ歩き出すよりも先に真佳は廊下に陣取った。扉は整然と並んでいるのに使える部屋の少ない屋敷。

「……客間が使えないということは、ここ数年泊まりに来た客はいないということ?」
「何だい、唐突に嫁さんのようなことを言い出すね」

 そんなつもりはないふざけないでほしいというのをとても嫌そうな顔に込めて思念で送った。卿は肩を竦めながら部屋を出て、それから静かな音でもって扉を閉めた。

「来ていない……ことになる。そもそもここ数年で声をかけた殺し屋というのがあまりいない。頭脳も使えるような逸材が噂にも上らなかったので、声をかける意味無しと判断したんだ」
「スサンナはその少数のうちの一人?」
「そう。あとは声をかけたとしても、僕を殺せという依頼を気味悪がって断ってきたのが大半。もとよりこの屋敷の外観と、あとはウィトゥス・ガッダの噂に怯えて約束の時間をすっぽかしてきたのが少数」

 ……まあ、スサンナはそういった類いには入ったりはしないだろう。しかし彼女が、他より長く卿に付き合っているというのは意外であった。お金にならないとか狙っても楽しくないからとか、そういう理由で早々にとんずらしてると思ってた。

「ああ、期限は設けていないから」

 きげん……。
 恐らく居間のほうであろう方向に爪先を向けた卿の背を、真佳も一歩遅れるくらいの歩調で追った。右方向に扉が並ぶ。

「今すぐは出来ないと彼女は言ったし、僕もそれを急かさなかった。だから彼女はちょっとしたときにここへ来る。彼女がさっき言ったことには……確か半年であったかね?」

 そうだよ、というのは言わなかった。もう既に曖昧なのかということに呆れていたので。

「……何で私には期限を設けた?」
「貴方はすぐとここから出てってしまうだろう? それも何年しても帰って来ない、文字どおり違う世界の屋宇へと」

 ……オクウ、というのが最初何のことだか分からなかった。一拍遅れて理解した。屋宇、つまり家である。マクシミリアヌスがつい最近(つい最近! 時間の感覚が狂いそう)、背嚢と口にしたのを想起した。

「……その、他の人たちはどうしたの?」
「他?」
「スサンナ以外の、殺しを依頼した人ら。残っているのはスサンナだけと言ってたけれど……」

卿が眼鏡越しの横目でもって、ちらとこちらを振り向いた――のを知覚する前に、真佳は視軸を落っことす。カーペットも何もない廊下を真佳の素足がぺたぺた乗って、傍から見ている分には現実感というのが乖離している光景だ。洋服のほうは、まだ返してくれる気がないらしい。

「折角着たのだから」

 と卿が言う。

「以外に奮闘もしたからね」
「……」

 そんな自分の都合を押し付けられても、としか真佳としては思えない。そもそも何だこの服は? 一体どこから買い取った? もしくは貰い受けた?

「血を頂いた過去の子どもが着ていてね」

「……それを剥いだのか」人非人かよ。
 真佳の心中の突っ込みは高らかに笑い飛ばして卿が継ぐ。

「折角綺麗な装いなのだから、きちんと動いているところを見てみたいとは思うだろう? 大きさが合っていて良かったよ。これで憂いも一つ減る」

 ……そうやってまた、死を意識しているようなことを言う。一つ一つ、後悔や心残りを潰して生きる。死のために生きているかのごときことをする。

「……スサンナ以外の、ほかの殺し屋たちの話であったね」

 卿の声音がワントーンほど、静かに下がった。無論真佳の心の中は、見通していたとは思うけど。

「ああいう仕事であったから――無論、何人かは死んでいてもおかしくない。或いは教会に検挙されているのかも。特別の連絡手段を僕は用意していないから、彼らがどうなっているのか本当のところは分からない。ただ、訪れなくなって随分久しい。僕に分かるのはそれくらいだよ。とっくに諦めたのかもしれない。飽きているのかもしれない。巨万の富を得、殺す必要性が既に無くなっているかもしれない」
「……スサンナ以外は?」
「スサンナ以外は」

 今度は男は振り返らない。ただ前を向いたまま、顎を引き、どうやら首肯したらしい。……そういうものかもな。健全に生きている人間は、目の前に次々現れる事柄に対処するので忙しい。現実を生きなきゃいけないからだ。仕事しなきゃいけないし、食べなきゃならない。眠る場所も確保して、憂事にも向き合って。……時の流れから弾かれた、緩慢にたゆたい続ける男のことを、ずっとは考えてはいられない。彼の生涯の謎について、一緒に悩む間が惜しい。――いずれいずれと先延ばしにされ、忘れ去られるのがオチであるかもしれなかった。

「だから僕は貴方に時間を与えない」

 ……卿の背中を盗み見た。肩に羽織られただけの黒のジャケットが、卿の歩調に合わせて揺れていた。

「忘れないように――街の壁が壊されるとき、それが貴方と、この街の人間たちとの終焉だ」



壁に花



 居間に戻ったとき、既にスサンナはいなかった。部屋を探してくるーってことで真佳が卿と一緒に部屋を出、もとい引きずられていったとき、確か欠伸を噛み殺しながら行ってらっしゃあいみたいなことを言っていたような記憶はある。……スサンナは寝る場所があるんだろうか。もしくはここには泊まらないことに決めたのか。
 卿に聞けば良かったかも……。当のウィトゥス・ガッダ卿は、やっぱり欠伸を噛み殺しながら居間の手前で、「それじゃあおやすみ」と、白状にも自分の居室の方向へと姿を消した。服の件を切り出す隙もありゃしなかった。真佳の手にはただ、無理矢理押し付けられた毛布が一枚残っただけってことになる。

(……シワになるということを考えていないのかな……)

 あるいはどうでもいいのかな。真佳が着終わった後、その後もそれをとっておく気はなさそうだったし。

「…………」

 ……というか、その時には卿か、あるいは真佳がいないから。
 ……滅入る。
 このことを考えていると。
 ふとした瞬間に鬼莉は出てきそうになるし、本当に全く最悪だ。毛布を一度ソファの上に放り投げてから、そこに勢いよくゴスロリチックな洋服のままダイブした。卿がもしも見ていたら、これは体にかけるために渡したものだよとか何とか言われる。きっと。

(……疲れた……)

 通常よりずっと。
 卿の言うとおり、奴は真佳の中で真佳の支配から逃れんために燃えている。いつもよりも過激に苛烈に、熱烈に。大分……大分精神が消耗するんだ。こういうことは。鎖は短いほうがいい。真佳がやらないと男が一人ここから消える。

「……。…………。………………」

 卿の所業をさくらが知ると言っていた。
 さくらが……。
 さくらはそれを知って、一体どのように思うだろう。何をどのように思うだろう。
 横たえていた体を起こしたことに、特別な理由は恐らく無かった。

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