強欲とはどういう意味で言ったのか。どちらも殺せないという、真佳の心情を知ってのことか。それまで理解しやすかった彼女の“中身”が、唐突に不透明に濁った気がした。春濁り……というのを、どこかで聞いたことがある。生命が始まる前の不透明。
 ……暴食が知識欲であることを、一体どこで聞いたんだろう。
 ソファの背もたれに深く背中を預けかけ、伸ばした腕と、その指先を見るともなしに見つめて思う。その字面から過食と表現されがちな七つの罪源“暴食”には、実は隠されしもう一個の意味がある……と、いう説がある。その昔、イヴが貪ったとされる知恵の果実に端を発し、食べること、それすなわち知識を得ることであるならば、罪源における暴食も知識を貪ることになるのではないか――と、それに帰結するという話。
 真佳がここに来たその理由を知ったとき、彼女は確かに“暴食”という言葉を口にした。異世界人は前述のようなそういう説をも、この世界の住人にきちんと伝えていたのだろうか。どちらにしてもこの世界ではマイナーな知識だと思うけど……。

「そう、彼女は実に真面目で、それに勤勉家という言葉に値する。希少だよ。とてもね」

 ……腕と指先とをぴんと伸ばしたその状態で、真佳はうろんげに、あるいは食傷気味に顎と目線を持ち上げる。やっぱりというか当然というか、嫌がらせみたいに真佳のうなじが乗った背もたれのそのすぐそこに卿の腕が乗っかって、無駄に爽やかなにこにこ笑顔で真佳の顔貌を見下ろしているのと一瞬間だけ目が合った。――逸す。紫水晶は微笑の形に引き絞られて、さっきまではしていなかったスクエア型の縁あり眼鏡をかけている。まるで妖力を抑えるための道具だな、と皮肉を交えて真佳は思う。――眼鏡のつるからは、一定の間隔でビーズみたいなきらきらしたものが装飾された細身のチェーンが、卿の首に向かって伸びていた。

「貴方は僕を歓迎しないね?」
「歓迎しろと言うのが可笑しい」

 卿が笑った。
「然り」と笑った。

「ただその感応は、暫く忘れていてくれるとありがたい。何せもうすぐ夕飯時だ。そんな情感を飼っていると、美味しい飯も楽しめまい」
「夕食……?」

 訝しげに呟いてから、ああそういえばと気が付いた。時刻は既に昼を超えているのだし、晩御飯を食べるというのが普通の人間というやつだ――全く人間離れしたウィトゥス・ガッダと一緒にいるため何となくそういう気持ちがすっかり心から溶けていた。
 卿がやっぱりまた笑う。

「心外だね、吸血鬼であれ人外であれ、腹が減れば飯を食う」

 ……血じゃなくて? というのを思いはしたが、実際口にはしないでおいた。あまりに意地悪過ぎたので。とは言え、結局彼には届いてしまうのだろうけど。

「そうだね」

 雨上がりの、清涼感を伴った湿った空気と似た声色で卿は言う。やっぱり笑った。

「まああれは本能みたいなものだから……あんまり、考えないでおくといい」

 後半は湿り気が強くなったと思ったが、疑問を先に進めるよりも卿が言葉をつぎ込むほうが早かった。「それに」というので真佳の思考は中断される。

「どうやらもうそろそろ、僕の所業が明かされる。貴方の無二の友人に」

 目を瞠った。
 こちらに覆いかぶさって影になっている卿の顔を見据えたまま、どうやら一時硬直していたようだった。……さくらの話が彼の口からなされたことに、どうやら思った以上に緊張していたらしかった。卿は笑う。

「心配しなくとも、今彼女は僕の手中の外にいる。手の出しようが無いだろう? 無論――戻ってこなければ、の話だが」

 硬い唾液を呑み込んだ。卿はやっぱり微笑した。

「他人が僕の悪逆非道を口にしているその横で、夕飯に舌鼓を打つという、そういう趣味は残念ながら僕には無い」

 彼が上半身を起こしたことで真佳に降っかかる光の量が元通りの位置に増す。背もたれの頂点がこんこんとたたかれる小さな感触。卿の指のどこかがソファを刺激しているのだと、真佳は気付く。

「だから、さあ。晩餐にしよう。彼らが全てを語り終える、その前に」



エラーコード



 鉄板に並べられた何かの肉のステーキと、薄く切られたハムらしきもので野菜らしきものを巻いたもの、トマトとチーズ、それに籠に盛られたパンと、付け合せが幾つか。
 食べることを最初は渋っていたものの、結局真佳はそれらを完膚無きまでに食い尽くしたし、当然毒などは微塵も入っていなかった。そもそも毒が入っていたら卿の願いは断たれるわけで、そこで毒殺を企むようならわざわざ門を封鎖する必要も無かったわけだ。何を理由に毒の有無を真佳が疑っていると考えたのか、真佳にはちっとも分からない。ただの嫌味であったかも。
 ……少なくとも今この段階で、真佳の安全は保証される。真佳が殺しを失敗するか、或いは殺さずを選ばない限りは、という意味で。

「肉饅頭(マントウ)というものが、下の商店にはあるだろう?」

 食後のアイスクリームを舌先で溶かすような間を置いて、ウィトゥス・ガッダが口にした。茶色かったのでチョコレート系の甘いのを想定していたが、これはどうやらコーヒーだった。この後、通常スカッリアでは食後のエスプレットが運ばれる。国内で恵まれている類いの教会関係者と共の旅であるならともかく、失礼ながら干からびた外観の屋敷の中で一通りのフルコースが待ち受けているとは思わなかった。給仕はいないので前菜から順に運ばれてくることは無く、全て最初からテーブルの上に広げられていたのだが、料理の質は多分教会関連のお店と同等か、或いはそれよりは上だった。シェフもいないはずなのに。何なんだこの人。「何せ余生が長くてね」というのをついでのようにウィトゥス・ガッダは口にした。

「肉饅頭、あれがとても気に入っているのだが、街に並ぶのは非常に稀とも聞いている。遠くから来る行商人が、時々売買のネタとしていくらしい。あれを食べられなかったことだけが、今唯一の心残りと言えようね」

 スプーンですくったアイスクリームを口に運びながら真佳は肉饅頭というのを想像したが、ミートボールみたいなものしか浮かばなかった。きょとんとしたのを察したのか知らないが、スサンナが同じくアイスクリームを突っつきながら若干うんざりしたように言葉をかける。

「蒸したパンに肉とかが入ってるやつだよ。多分野菜とかも入ってる。“僕”は知らない」
「貴方が持ってきたんだろう?」
「珍しかったから持って来ただけだ。まさか貴殿がそこまではまるとは一つも考えていなかった」

 ……まるで幼馴染然とした会話だなあと真佳は思う。死にたがっている割に意外と人生を謳歌しているように見えて調子が狂う。それら全て、卿が持っているもの全て、欲しているもの全て、感情も過去も記憶にしても、全てが本当に死の願望の上に成り立っているに過ぎないものであるのだろうか。

「それほど長い付き合いというわけでもない」

 …………卿がわざわざ拾ってきたのが真佳の思考の前半部分のみであったことに驚いた。

「せいぜい数年と記憶しているが、どうだろう。僕の記憶は適っているかな」
「……僕は貴殿の頭の中身をよく知らない。皆が皆千里眼持ちではないということを、いい加減勉強したらどうなんだい」
「試してみただけさ。異界には、阿吽の呼吸という特殊な異文化もあると聞く」

 ……卿のそれは阿吽の呼吸というよりテレパシーだと言うべきだけど。というのを突っ込まなかったのは、別にスサンナに異界人であることを悟られないためとかいう打算や警戒があったわけでは勿論ない。
 卿がにこやかに笑ったところを、真佳は真横から視界の端っこで視認した。

「幼馴染か何かのように見えるらしい。実際、残っているのは貴方だけであるからね。他よりかは長い付き合いになるわけだけど」
「驚いたね。てっきりまた新たにちょっかい出して、何人かは残しているのかと思ったが」

 ――スサンナが一瞬こっちに視軸を寄越していたのに気が付いた。その感情はニュートラルなように真佳からは思われて、何らかの突出した感情を引き上げることは叶わなかった。
 卿が小さく付言した――「信頼出来る者にしか頼みやしないさ」。

「……はっきり覚えていないのだけど、せいぜい数年前のような気がするよ。十年は経っていないだろう。何せ僕はその頃北のほうをふらふらしていたはずだから、卿と出会えるはずがない」
「北……」

 首都、ペシェチエーロで出会った小柄な少年を否応なしに想起した。彼も北から来たと言っていた――。

「まあ、ほとんど自民族を避けるみたいな格好さ。暫くうろちょろしていたが、結局あそこの文化と気温が性に合わなくて南西のここまで下ってきた。そしたら卿に接触された」

 卿の唇を横目で捉えた。まるでナンパでもされたみたいな言い方だった。

「心外だな」

 と卿は言う。少しく唇は尖らせていたかもしれないが、形は微笑のままだった。

「僕は勧誘に行っただけ。だろう? 優秀な殺し屋がいると言うなら、声をかけない道理もあるまい」
 苦々しくスサンナ。「まあ実際、殺しの依頼ではあったわけだ……殺しで食ってる人間にとっては仕事の話に相違ない」
「ということだ。それからも別に毎日顔を合わせているわけでもない。現に今回も数ヶ月か、あるいは数年ぶりというくらい前のことだから……」
「数年前ではなく、せいぜい半年だ。貴殿は本当に時間に関してはだらしがない」
「……そうだね。では半年ぶり。久方ぶりだ、我が同士」

 ……スサンナが思いっきり不満で嫌そうな顔をした……。
 にこやかな顔のまま「ウン」と卿がとりなした。

「そういうことであるわけだから、幼馴染や昔馴染ほどの付き合いでは毛頭ない。違算、というやつだ。全くね」

 ……実際本当に幼馴染並みの年月付き合っていたならば、真佳がこの場に呼ばれることも無かったんじゃないか、ということを考える。というか別に本当に幼馴染だとか考えていたわけではない。キミは不老不死者のはずだろう。

「ははは。正しくね」

 ――スサンナが吐息したように頬杖突いた。
 今さっきの卿の返答が、どちらの心を汲み取ったものであるか真佳のほうでは弁別つかない。

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