……少し考えさせてほしいと断って、卿の前を辞してきた。辞すと言ったってこの館の中で真佳が見慣れた場所なんでほんの少しの場所しかない。結局例の千里を見通す鏡が置かれた物置部屋で、無意味にしゃがみ込み続けることになる。……ここの椅子は埃っぽいから座れないし、どうせならどこか座れる場所を陣取ってしまえばよかった。
 膝頭を囲うように腕を組んでから、「はあ……」湿った吐息を口にした。卿一人の命を奪うか何十万、何百万、……数字は分からないけどとにかく大勢の街の人間を見殺しにするか、それを選べと卿は言う。
 ……馬鹿野郎。と真佳は思う。
 そんなもの、選んでいいはずがない。合理性で人の命を取捨選択するなんて、ひどく横暴で暴力的な考えだ。そもそも一人の人間がそれに答えを出すこと自体。

「でもマナカは、必要であれば合理的ニも行動できる」

 ……鏡の中で鬼莉が言う。今、千里を見通す鏡の前で私はお前を見たいとは思っていない。断じて。だから多分これは通常の、正常な状態でのやり取りだ。鏡に映った真佳を借りて奴が思う存分好き勝手言い募ってくる、という。

「何を迷ってイるのか、よく分からないなァ。ガッダ卿の最後の言葉を聞いたでしょウ? マナカは請負人でありながら人質で、つマり依頼を放棄したら殺すとまで明確に言われチャってるってワケ」

 向こう側から鏡の表面をコツコツたたく音がした。こっちの意識を向けさせたいわけではなくて、ただ単に手慰みとしてコツコツ爪を鳴らしてる。硬質な音が鼓膜を叩く。

「殺しちゃえばイイのに、ウィトゥス・ガッダ。だって、本人もそれを望んでイるのだし」
「……人殺しはしたくない」

 冷笑。
 鼻で笑う音がした。

「イマサラ」

 鏡の中を睨め付けるとその向こう側で鬼莉が嫌らしいにまにま笑いを浮かべてる。チェシャーの猫。英語圏の慣用表現が脳裏をよぎる。

私は誰も殺していない(・・・・・・・・・・)
「でも、私は(・・)その感触を知ってイる」

 ――コールタールの笑い声。
 ……反論出来ない。
 だって間違いなく彼女は私で、私はつまり彼女であるから。
 ――……君は、人を殺したことがあるのだね――スッドマーレで言われたことが脳裏を過ぎった。あの時答えなかったのが、いや、答えられなかった(・・・・・・・・)のが、何よりの解答であると識っている。

「……………………、あの男の言うことをそのまま聞くのか」

 睨み据えながらそう問うた。鬼莉の微笑には一筋のヒビも入らない。分かってる。私ではどうしても鬼莉には勝てない……だから今まで抑え続けた。体の使用権を鬼莉にやることで、真佳の知らぬ間に人を殺されることを恐れていたから……。真佳が表に出ている間の鬼莉の記憶はどうやらあるが、鬼莉が表に出ている間の真佳の記憶は微塵も無い。
 鬼莉が、左の肩だけを器用に竦めた。

「別に、ワタシは何も困らないもノ。究極的に言えば、ウィトゥス・ガッダも街の人間も、どちらも消えてしまってもワタシはイイと思ってル」

 睥睨。
 鬼莉に効いたふうな素振りは無い。

「――でも、でもねぇ……最悪、自分の肉体だけは守らナきゃ? それガ、生きていることの証明だもの?」

 ――他人に生を願われただけで生きるなら、貴方は他人に死を願われれば死ぬのかね?――
 心の中で舌を打つ。嫌な言い方。さっきのガッダ卿のそれと合わせて攻撃しやがった。コールタールがまた笑う。

「別にワタシは、アナタを不愉快にさせようなどとは到底思ってイないけど――」

 もういい。声には出さずに立ち上がるだけで憤怒を表した。これ以上鬼莉と話し合う気は毛頭無い。そもそも話し合いということ自体が無理だったのだ。全くベクトルが違うんだから。

「ここから出タって、ワタシはアナタの傍らから決して離れはしないのに?」

 五月蝿い。ここから出て、また無理矢理にでも抑え込んでおけばいい話。いつもみたいに。この三年間、そういうことにはもう随分と慣れてきた。

「別にそれでもいいケれど……ただワタシは、マナカの答えは待たないわ。そういう義理もなイものね」

 扉を開けた。
 背後から飛び付く声を振り払うように一息で。

「――覚えておイてね。
 ワタシはマナカの肯定なしに、イつでも人を殺せるよ――」

 ……扉が閉まる音を最後に聞いた。



摧破の柘榴



 鬼莉の存在に気が付いたのは、真佳がまだ中学二年生だったころのこと。有り体に言えばその時真佳は“いじめ”られていて、多分理由は色々あるのだろうが一番大きい原因が、この深緋色をした人とは違う双眼だった。普段遠巻きの冷笑かこれ見よがしのひそひそ話しか送ってこないクラスメイトが、唐突に真佳に対して遠慮がちになった丁度その日。昔、鬼莉によって害されたという女によって、急速に真佳の意識が鬼莉の存在を視認した。奴は妄想の産物でも何でもない、実際に真佳の中に巣食う悪魔であるのに間違いなくて、その時クラスメイトが真佳に対して怯えにも似た心境を抱いていたのも、その前日に鬼莉によって害された男がいたからだった。二重人格…………という言葉に収束するものであるのかどうかも、真佳には未だによくは分からない。
 扉が開いた。――真佳の進行方向にあるすぐ目の前の片扉で、真佳はそれにらしくもなくびくりと心を震わせた。……眠気眼のスサンナが扉の影から出てきたとき、心の底からほっとした。息を吐いて強張っていた力を徐々にゆっくり抜ききって、それでも表情筋は強張ったままだったろうと自覚した。

「……驚いた。話はもう終わったのかい? 随分短かったんだね。ずっと眠ってただけだったけど」
「……」

 ……何か言おうとしてみたものの、気の利いたことが何も心に引っかからないことに気が付いた。そもそもの話力だってそんなに無いのに一体何を期待したんだ。
 スサンナは片眉を上げてそれで疑問を表したが、何か言ってくることはしなかった。どうでもよさそうに扉を閉めて、真佳の進行方向に爪先を向けて歩き出す。

「話が終わったんなら僕ももう居間に戻っていいんだろう。埃を被ってない休憩できる場所なんて、あそこ以外には台所と鏡を置いた物置と、あとは卿の私室しか無いわけだから戻れるんなら僕は戻る」
「……私室……?」

 スサンナが出てきた扉を仰ぎ見た。廊下の片側に整然と並ぶ扉のうちのたった一つにしか見えないそれは、この館の当主の私室には到底見えない。当主の息子とかの部屋ならまだしも……。

「私室だよ。卿の」

 真佳の心を読み取ったように彼女が言った。彼女の場合、まさか本当に読み取ったわけではあるまいが。

「当主の部屋は別にあるけど、あそこは駄目だな。手入れが全くされていない。僕は一度しか見たことないけど、蜘蛛の巣の温床になっていたって不思議じゃないね」
「……卿はそこには棲まないんだ」

 正しく“棲む”というのがしっくりくる。吸血鬼。五百年前の異世界人じゃあないけれど、確かに彼の一挙手一投足にはそういう印象が付随する。そういえば上下ともに漆黒のスーツだし、それにマントでも付け足せばまさしく吸血鬼伝説の生き写しなんじゃああるまいか。卿はそれを面白がっていたようだったから、敢えて漆黒で揃えたのかも。

「彼が当主になる前からの部屋だから」

 スサンナが言った。

「当主になる気が、そもそもないんじゃないかと思慮するね」

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