――卿は微笑ったようだった。それでも“何を知っている”か、誤魔化すつもりは多分無い。これは真佳の想像だけど、スサンナをわざわざ遠ざけたのは、ここで鬼莉の話題を出すためだ。……他人のいるところで真佳の知られたくない部分をさらけ出させるほど、ウィトゥス・ガッダは悪人ではなかったということか。

「まだ悪人である可能性を疑っていたのかい?」

 心を読んで卿が言う。心をも見通す千里眼――これでは真佳やさくらが異世界人であることくらい、当然お見通しではあっただろうと以前の疑問を打ち消した。こうして心と言葉で会話が成立してしまっている以上、真実事実であると信じないわけにはいかなくなった。
 わざわざ心ではなく声に出して、真佳は言った。

「悪人でないという可能性を、キミはまだ出してはいないよ」

 ……卿が少し不服そうな顔をした。「折角巨体人を助けてあげたのに……こちらとしては、既に仲間意識が芽生えていても可笑しくは無いと思うんだけどな?……」黙らっしゃい。割りと鋭く真佳は思う。

「アルブスを献上されたら困るって、自分が言った」
「――ああ、あれか。困るものは困るもの。対応に。僕が生贄に求めたのはこの街出身の子どもであって、アルブスの子どもは幾ら希少でも求めていない。それでこっちが溜飲を下げたと思われちゃあ困るんだ。こちらとしては、アルブスなんて受け取ったって村に帰すしか出来ることはないわけだから」
「……だからマクシミリアヌスを助けたんでしょ?」
「他でもない、貴方が、彼が死ぬのを厭ったからだよ」

 ……むう、と真佳は不承不承に口を閉ざす。確かに……そういう理由でアルブスを献上されるのを面倒がったんなら、マクシミリアヌスは関係無い。万一うまく献上させられたところで、最悪城壁を壊したレベルの所業でもって怒りを表現すればいいわけだから……。
「だろう?」と訳知り顔で卿は言う。

「だからあれは好意だよ。それにあの時、アルブスがこちらの手に落ちようものなら、貴方の大事なサクラちゃんは、今もこの街から逃れられてはいないだろう?」

 ……確かに結果としては助かった。とても。しかし……ネロと共に外に脱出を果たしたことも知ってるか。それを見過ごした理由って一体?

「スサンナが言ってはいなかったっけ? 僕はこの街を恨んでる。でも、この街の人間じゃない人々のことは恨んでいない。どうでもいい」

 恨んでる……
 って、
 何で?
 言葉に出す前に心が先にそれを思った。卿は微笑った。魅力的な玉顔で。

「それは後のこととしよう。話題を元へ戻そうじゃないか? 貴方は本当に、キリのことを考えないのが癖になってしまっているね?」

 ……確かにそうだ。癖になっているのかも。奴の話を考えていたのにいつの間にか思考の枠から飛んでいる。あまり自覚は無かったが。だって考えなきゃいけない事態っていうのが、そもそも今まで無かったんだもの。

「鬼莉の……どこまで知っているんだっけ」
「それを答えようとしていたところだ」

 そうか、と思う。卿が呆れた素振りはどうやら無かった。それを気にしている自分がいるのも気が付いた。脱線させられてばっかりだと思っていたら、今度はいつの間にか自分が脱線させてしまっていたとは……。

「さて、そうだな……実はキリについては僕はほとんど知らない。貴方の中に一個の人格として存在するのは知ってるし、それがどうやら一筋縄ではいかないものであることも識ってるが、彼女の経歴も経緯も、そういったものは何も知らない」
「……でも卿は、私が思う前に、」……言葉が足りない。言い添える。「この街で鬼莉のことを考える前に鬼莉の存在に感付いた。さっきガッダ卿が言ったみたいに、私は特例を除いて鬼莉のことを考えてはいないはずだった」

 そうだよ、と卿が小さく言った。唇の先だけで囁いた、空気に溶け込みかけたそれを危うく真佳は聞き取った。

「貴方がキリのことを考え始めたのは、少なくとも僕が彼女のその名を出してから。つまりそれ以前に僕が貴方の中にキリの存在を見出すことは不可能であるはずだった」
「……でも貴方は、私に鬼莉を見出した」

 頷き。
 その唇に弧が浮かんでいるのを視認する。

「不思議なことは何も無い。ただ単に僕は、その存在をとある人から聞いたのだ」
「――聞いた?」

 自然と眉根を寄せていた。――聞いただって? でもそんなこと、出来得るわけが無いはずなのだ。元の世界ならまだしも、こんな……知り合いなんてほとんどいないこんな地で。

「――貴方と、それからサクラちゃんの二人、かな?」

 そうだよ、という意味で頷いた。ほかに鬼莉のことを知っている人間はいない。いるはずがない。この世界に来てから一度も話していないもの……。さくらの心から読み取った?

「いいや。サクラちゃんも徹底している。あの子も多分、貴方ほどではなかろうが、キリのことは考えぬように慮ってはいるんだろう……」

 卿は少しだけ微笑してから片肩だけを器用に竦めた。苦笑交じりのちょっと困ったような様子に見えなくも無かったが、真佳の気のせいであるかもしれない。

「あれは些か反則に過ぎる」

 反則……?
 真佳は眉をしかめて小首を傾げる。

「いや……申し訳ないね、僕が“あれ”のことを口にするのは、実は許されてはいないんだ。とある人から聞いたと、ともあれ貴方は呑み込んでくれ。貴方を紹介してもらえる運を注がれた以上、何にしろ不忠は働けない」

 首を振って、彼は少し目を伏せた。白い皮膚に遮られた紫色の水晶が一体何を思っているのか真佳の側からは読み取れない。敬愛か? 憐憫か? それとも――(敬愛、という言に、自分で考えておきながらどきりとした。かつてそれで自殺を謀った人が首都にいた。それは信仰とも名を変える)。
 ……一度目を閉じて思考を強制的に切り替えた。

「その人が、鬼莉のことを話したの。キミに」

 そう……と卿は口にして呟いた気がしたが、これもほぼ空気に溶けた囁きだ。

「貴方には第二の人格があると聞かされた。それは僕の願いを叶えるに足る人物であることに相違なく、これを逃せば次の機会はいつ来たるか、と」
「……それが動機? 私をここに連れてきた? ……卿の願いを叶えさせるため……? ……鬼莉に」

 ……我ながら最後の一文はじっとりと湿っていたと考えた。鬼莉に。願いを叶えさせる。ろくなものであるはずがない。奴に人のために願いを叶えるような女神じゃない。同じ神であったとしても、奴の場合は……死神だ。
 裡に住まう別の人格に思いを馳せる。あいつを表に出してはいけないんだと過去の自分は自覚した。奴は真佳の内側に抑え込んでおくべきもので、人に知られてはいけない暗部。悟らせるわけにはいかなかった。どうあっても、誰であっても。
 ……だからここへ来たのだ。鬼莉の名を、彼が唇に乗せたから。
 卿が――微笑った。

「叶えさせていただくよ。そういう運びになったのだから」

 彼の声音も、湿っているように思われた。



エデンの毒蛇



 ……まるで殺害計画を立てているみたいだ、と真佳は思う。自嘲的に。考えてみれば鬼莉を欲する男がそれを望まないわけはない。逃げ場は……そういえばもうこの街にはそんなものは存在しないことになっている。

「そうだよ」

 囁くように卿は言う。それがまるで愛の囁きであるかのように錯覚させる声色で。

「だから塞がせてもらった。この街から出られる者は存在しない。……一部、貴方のお仲間を除いては……かな。それも既に使えない通路になっている」

 使えない通路になっている、の部分がよく分からなかったが、特に突っ込んでは尋ねなかった。そんなことより別なことを考え続けなければならなくなった。鬼莉に願いを叶えさせるということは一体何を意味しているか。

「この街の全てが“人質”だ」

 片腕を広げて示唆されたそれに嫌に心臓が高鳴った。脅されている?……脅されている。遅まきながら真佳は気付く。違う。街の人間を閉じ込めたのは、この街の全てを殺害させるためじゃない。この街の人間を――卿が恨んでいるチッタペピータの住人をただの“人質”に貶めて、真佳の退路を断つためだ。憎悪の対象を人質にするなど正直正気の沙汰ではない。

「貴方がここを出ると定めた瞬間、或いは、大勢の厄介な人間が外からここに入った瞬間、僕はここに然るべき処罰の魔術をかける。街が陥没するほどの大掛かりな殺人魔術。だがしかし、この街には貴方が特別に思う者はいないだろう。だから貴方は見捨てて行くことも許可される。貴方が手にかけるわけじゃない。自分は被害者であると息巻いて、一人逃げ帰るのでも構わない。貴方一人だけなら、恐らく、生き長らえるだろうと予測する」

 甘言を吐いて…………――、
 それは甘言に見えて、その実甘言ではあり得ない。甘く囁いておきながら、真佳にはそれが出来ないことをウィトゥス・ガッダは知っている。それは毒だ。そこに含まれているのは毒だった。卿の言葉をよすがと縋り彼の懇請を拒絶したが最後、それは永遠に心を蝕む呪いと変わる。“私は悪くない。私は被害者なんだから”。――“そうだよ、貴方はよくやった”――心の内で卿は言う――“悪いのは僕だ。僕が街の人間を殺して見せた。貴方はただ逃げただけ……殺害を拒否して見せただけ……そこに何の責められるべき因果が出来る? そう、貴方は何も悪くない……悪いのは僕。貴方は何も悪くない”…………。
 甘い慰めは時に人を牢屋に閉ざす。受け入れたが最後、断ち切ることも出来ないままやがて罪悪感に蹂躙されて死ぬだろう。それは精神的な死であって決して肉体的な死ではないが、状態としてはきっとどちらも変わらない。
 事実真佳に彼らを助けるだけの理由は無い。真佳はヒーローではあり得ない。自分の手が届く範囲だけ、何としてでも守らなければという意識はあるが、それは万人を指しはしない。だというのに……ちくしょう、この男……!
 謀られた、と自覚した。
 男の玉顔が微笑に歪み、その時初めて秋風真佳はそれが彼の本性であると理解した。恐らく最初からずっと、こいつはそれだけを見つめて真佳に接触し続けた。仲間意識、などと……! 最初から望んでなんて無かったくせに。

「心外だなあ。僕は真実、貴方を仲間であると思っているよ?」

 ――指先の感覚が無くなっていることに気が付いた。――寒気がする。

「僕の願いを叶えてくれる――僕を殺してくれる(・・・・・・・・)、唯一無二の仲間として」

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