「――『それが僕の望みになるかどうかは、神のみぞ知るというやつだ』」

 付け加えられたそれに瞬いた。卿がにっこりと微笑する。さっき浮かべた笑みとは別の、茶目っ気を含んだ子どもみたいな笑みだった。

「これは彼の心の中の述懐だ。彼はそれだけは言葉としては発しなかった。それまでずっと、心の中を僕に見せつけるように明け透けに、思ったことをそのまま口に出していたのにもかかわらず」

 カップの縁に再び指の腹を這わせてみせて、弧を描いた唇のままに卿は言う。

「異世界人の心は読めないのではないかと疑問に思ったのも今となっては懐かしい――……そして異界人には未来を見通す力があるのでは、と危惧したこともね。どうやらそうでは無いらしかった。それが異界人の持つ異能力で無いのなら、彼はどういう意味であんなことを言ったのか。直感か悪戯か、或いは彼にのみ与えられた異能力であったのか――」

 香茶が一口、彼の唇に吸い込まれるのを真佳は自然と息を潜めて見守ることになっている。一挙手一投足が一目を引く。それは彼の容姿が人一倍優れているからなのか、或いは彼にだけ何らかの魔術が施されているからなのか知らないが。自分がそうなっていることに一拍遅れて気付くとき、真佳はいつも自分に対して苦虫を噛み潰したような顔をする。場繋ぎの意味をも込めてすっかり冷めた香茶を真佳も口に流し込む。卿の言うことは正しい。異世界人には未来を見通す能力なんてものは無い。それを卿が確信したのは、多分真佳かさくらのことを見通していてのことだろう。何せ彼には千里眼というのがあるはずなので。

「覗き見趣味は僕にはないよ」

 ということを苦笑ながらに訂正された。それが真実かどうかは残念ながら真佳のほうでは分からない。というか、もうだって眠りこけている女子高生を合意も無く着替えさせてる時点で何だか色々アウトになってるわけだから。
 卿はそれには微苦笑しただけで明確な応答は返さなかった。

「スサンナ」

 応答の代わりに卿が言う。それまでずっと卿の左隣で適当に香茶を飲みながら頭半分で話を聞いていたに違いないスサンナが、丁度欠伸をした顔のまま「ふあ?」……卿の呼びかけに答えを返した。

「少し席を外してほしい。ここに、君の気に入る何かがあるとは思えないが」

 スサンナは一瞬驚いたのか考え込んだのか、とにかく一拍置いてから、「ああ、別にいいよ」と気負うでもなくそう言った。頭半分の適当っぽい言い方で。

「もともと客として呼んでいたんなら僕は邪魔だろうからね。いつ言われるかと訝しんでいたくらいだもの。適当にぶらついてくる――幸いなことに散歩の場所には困らないものな」

 そう言ってよいしょと腰を持ち上げた。散歩と称してどこかで惰眠を貪っていても不思議ではないと真佳は思う。

「どこかで眠ると言うのなら、埃の堆積していない寝台を選んだほうがいい――と、一応僕は忠告してよう」

 真佳の心情にまるで呼応でもするかのように、ウィトゥス・ガッダは彼女の背中に言葉を投げた。



鬼、はたまた



「随分待たせてしまったね」

 扉が閉まってしばらくしてから卿が言う。それまで二人で座っていた長めのソファに、改めて彼は深く腰を下ろしたらしかった。

「解答の時間だ。異世界人の話は言い終えた。先ほど貴方は、異世界人の話が貴方、マナカをここへ連れてきた動機と直結しているとそう言った。いやはや、正しくそのとおり。五百年前、『ハーメルンの笛吹き男』事件を見事解決に導いた当時唯一の異世界人と同様に、貴方がたの世界の者は時にあっと言わせるほどの奇跡を作る」
「……それは流石に」

 買いかぶり過ぎだ、と、真佳は思う。奇跡だなどと言われるほどのことでは無いし、それに多分、真佳のそれと当時の異世界人が起こしたそれとは決定的に根拠が違う。真佳のそれは本当に単なる第六感であるのに対し、彼の成し得たそれは多分、組み立てられた理論の結果であるはずだから。……まるでさくらとの思考回路の相違であるなと小さく思う。

「買いかぶりなどであるものか」

 ――どこか強弁に男は言った。

「観測している者が奇跡なのだと断言したら、それは正しく奇跡に成るのだ。ソウイル神は万能の幼子である。それを僕は否定はしない。崇拝もする。だが彼の物語に、聖書の中に、幾つかの“偶然”が“奇跡”とされた例は少なからずあるのではないかとも考える。――これは君を守護する巨体人には、どうか内密にしてくれよ? 信心深すぎる教徒に言うにはあまりに配慮に欠けている」

 ……配慮、というのを考えるのかと、むしろそっちのほうに驚いた。素直に思うと卿は困ったように苦笑した。

「そういう思考を携えているので、奇跡というのは撤回しない。その上で貴方を連れてきた理由を僕はここで述懐するが、貴方はそれで構わないかい? それより先に、聞いておきたいことがあるんじゃないか?」

 ……紫玉の双眸を温良に細めて彼は言う。何れ出来て当たり前になることをまだ不器用にしかこなせない幼子たちを、微笑ましげに見守るように。そこには確かに温度があった。リアルな人肌の温度があった。真佳が聞きたかったこと。勿論卿は知ってるだろう。多分恐らく、だからこそ卿はあの時あの場で名前を出した。

「ウィトゥス・ガッダ卿――」

 改めるように口にした。くらくらするようなデジャヴュの洪水――。

「貴方は私の、何を知ってる?」

 ……今度は卿は唇を閉ざしたりはしなかった。唇に弧を描いて小さく笑った。

「そういう尋ね方になるんだね……。あまり口にしたくはないのかい? 彼女(・・)の名前」
「……」

 別にそういうことではない。そういうことではないが――、
 ――。
 目を伏せた。
 そうだな。今更何を思うことも無い。何せ彼のほうはどうやら全て、既に知ってしまっているらしいから。

「“全て”では無いよ」

 卿は言う。

「貴方の何を知ってるか、という質問に、それでは素直に答えよう。僕は貴方の過去を知らない。未来を知らない。ただ現在(いま)と、貴方の胸中とを知っている。それから少し変わったところでは、そうだね、貴方の知られたくないもう一つの一面も知っている」

 ……分かってた。
 意識は向けてはいないつもりであった。

「意識は向けていなかった。特例を除いて。貴方は驚くくらい強靭に、そして意固地なまでに“それ”に焦点を絞らなかった。見事だったよ。あれほどの邪悪を、貴方は呆気ないほどに配下に置いた。自身の内側に抑えつけ続けた。それは街に入ってからのことではないね? 恐らく悠久の時を貴方は強情に頑迷に彼女を支配下圏に組み敷いた。並大抵の精神力じゃあないはずだ……だって何故なら今も尚(・・・)、“彼女”は貴方の支配下から逃れんがために“貴方”の中で燃えている」

 ――スサンナ相手に真佳がクナイを投げたとき、卿に真佳の心中は果たして視えていたのだろうかと思考した。であれば恐らく決定的だ。あの時確かに“奴”は出た。いや正確には、真佳が奴の存在を思考に入れた。入れてしまった。“もット楽になレバいいのニ”“簡単デショ”――――――。
“奴”の存在と彼女を重ねて割りと本気でその赤い眼差しに斬りかかった。スサンナには申し訳ないことをしたと思う。やらなければ多分彼女は同じようなことをしたであろうと思うので、別段反省はしていないけど。
 それから――
 卿に初めて会った後。
 あの時卿の意識がどこに向いていたかは知らないが、仮に真佳の方角を向いていたとして、そしてその矛先が真佳の心中にあったとしたら、“奴”は確実に彼の視界には収まっていたであろうと思考する。
 卿が特例と言うのはこの二回か、あるいはこの内のどちらか一つ。流石に千里眼持ちは想定してない。仮に意識を向けたとしても、それは真佳一人が立ち向かうべきものであろうと考えた。

「……言い方を変えよう」

 真佳は発す。

「貴方は、鬼莉の何を知っている?」

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