「そうだね、会った」

 ……ガッダ卿はこっちがちょっと拍子抜けするくらいあっさり言って、それから微笑った。秋が混じり始めたそよ風みたいな、それは嫌味の無い実に爽やかなものだった。

「子どもたちが流行病に罹患している――とかいう噂が立ったころだったかな。一度彼が訪れた」

 彼――。
 その時、初めて真佳は異世界人の性を知る。マクシミリアヌスも誰も、その人を“異世界人”としてしか、今まで呼んで来なかったから。まるでその人の代名詞ででもあるかの如く。

「僕は少し驚いた。人が来ているのを視ることは可能だったけど、まさか本当に門扉を叩く者が現れるとは思わなかった。ご存知のとおり街の人たちは僕のことをずっと忌避し続けているし、外装もあまりいじっていないから、ほら、おどろおどろしい見た目だろう?」

 そういう自覚はあったのだなと、そのことのほうにむしろ真佳は意識を向けた。一部剥げかけた箇所のある家壁と欠けたところのある煉瓦みたいな屋根瓦。壁には何かの植物の蔦が勢力を振るい屋根の縁に届かんばかりに蔓延って、木枠は腐食し窓から見えるカーテンはお化け屋敷のそれのようにオンボロで…………。
 正直、本当に入っていいものなのかどうか本気で、かなり迷った。これが夜だったら正面から見据えた時点で回れ右をしてしまっていたかもしらん。

「そこまで不気味に見えるものかな……。今後、万一貴方みたいなヒトを招く必要性が生じた場合に備え、少し改築を施すか……」

 何やらぶつぶつと非生産的なことを呟いている。出来得ることならこうして招待とも言えない招待で屋敷に引きずり込んで、あまつさえ人を勝手に裸に剥いて着替えさせるなんてことは今後起こしてほしくないものだ。
 ということを思っていると、卿は少し笑って言った。「僕も、今回を最後にしたいんだけどね……」……何かが含まれていることにはすぐ気付いたが、それが何かということ自体は分からなかった。

「話を元に戻そうか」

 ……笑顔で言われて切り返す機会すら失った。

「ともあれ僕は驚いた。扉を叩き、家主が出てくるのを待っているらしき彼に少し興味が湧いた。街の人間でないことはすぐに分かった。旅人だろうと僕は思った」

 訪れたときの玄関扉は未だ記憶に真新しい。何かの植物が絡まりあったみたいな模様が精緻なタッチで描かれていた門だった。中央に観覧車みたいな家紋染みたシンボルの、重くも軽くもない材質の。

「招き入れることはしなかったけど、望みに合わせて扉は開けた。――少し考えてからね」

 香茶を美味そうに口に含み落とした後で卿は言う。

「単純に面白そうだと思ってしまったものだから。娯楽があまりに無さ過ぎて、きっと飢えていたんだろう。さっきそこの彼女が話したように、誘拐事件を起こしてあっても糾弾されないという自信もあった。躊躇う理由が、僕には何も無かったんだね」

 爽やかに笑う。自分のことを話しているのに、まるでひと事ででもあるかのように口にするんだな、と真佳は思う。真佳もティーカップを傾ける。前に頂いたのと同じ香茶の味がした。手付かずの時が長すぎたためかほんの少しだけ冷めていた。……魔術式の使われていないカップだ、ということに、今ようやっと気が付いた。とは言えおかしなことでもない。この世界には、貧しくて魔術式を入れられない者も、自然の温度を楽しむためにわざと入れない変わり者も多くいる。

「異世界人は扉を引き開けた僕に対して、こんにちはと口にした。……その言葉の意味は理解できたよ。何せここは、御主の不可侵領域であるからね。僕の言葉も彼に伝わったようだった。彼に驚いた素振りは無い……後ろにアルブスの民が控えているのが確認できた」
「アルブスの民……?」

 って、ネロが属するフィールドじゃないか。白髪に緑目の……角と尻尾が生えている。トマスとフゴから真佳はその話を聞いている。何でそんな長命種族が異世界人と……?

「それは僕も分からない」

 いやに素直に卿は認めた。……千里眼は? 卿は人の心の中すら、世界の情勢すら、見通す力を有しているのではなかったか?
 ……それを感じ取ったかのように卿は笑む。

「僕のこれはね、白状すると、有効範囲が限られているんだ。街の中、あるいは街の付近のことは見通せるが、あまりに遠い外のことは見通せない。五百年前実際対峙した時も、彼は一度もアルブスのことを思い描こうとしなかった。思い描いていないことは、幾ら僕でも読み取れない」
「地域限定の千里眼ね……」

 香茶を飲みながらぼそっとした小声でスサンナ・マスカーニが口にした。それまでもそうであったけど、チッタペピータの吸血鬼、究極的な都市伝説である男の話を聞いているのにもかかわらず、彼女の態度には前傾姿勢が見られない。まるでどうでもいいかのよう。だから彼女は館へ上がることが出来たのかもしれないと考えた。

「ともあれ彼はアルブスと共に訪れた」

 カップの飲み口を手で覆うように持ち上げてから、卿はソーサーの上にそいつを戻した。中の香茶が微かに揺れた。

「『ここが都市伝説の温床になっているとお聞きして』……男が言った。聞いたところでは、南の港スッドマーレには教会新聞以外にも、民間新聞染みたものが存在しているそうじゃないか? チッタペピータにも似たようなものは存在するが、掲載されるのは貴族の集まりだとか功績だとか、そういう下らない見栄のようなものばかりで、スッドマーレのように下品で扇情的なものではない。当時のスッドマーレにそれがあったかどうかは知らないが、僕がこの時くだんの男の話しぶりに感じ取ったのは、そんなスッドマーレの新聞記者のようなものだった」

 あまりいい話ではないなと真佳は思う。同郷が失礼を働いていないといいけれど……と、関係ないのに据わりの悪さを覚える話だ。こういうわけの分からないところで同郷意識が芽生えるのだから、人間というのは不思議なものだ……。

「そう嫌な話でもない」

 笑いながら卿が言う。何かが含まされた嫌な笑いとは感じなかったので、それは真実だったんだろう。

「確かに最初は野次馬根性を持った下らない男だと思ったが、一蹴しようとしかけたところで彼が僕に言うのでね……『血を飲むそうじゃないですか、私の故郷には吸血鬼伝説なるものが存在していたりするのだが、貴方はまるでその吸血鬼伝説のモデルになった、バートリ・エルジェーベトその人だ……最も、この国で吸血鬼伝説を知っているのは、今のところ私一人しかいないのだけど』」

 ……バートリ・エルジェーベトは知っている。生娘の生き血を飲めば若返ることが出来ると信じ、悪逆の限りを尽くしたとされる貴婦人だ。彼女は女であったけど、数百年単位の経年を感じられる肖像画とそっくり同じ顔をしているガッダ卿が、生き血を啜り若返りを繰り返しているのだという、バートリと同じような一説を異世界人たる男が思い描いていたとしても真佳は不思議には思わない。

「バートリ・エルジェーベト女史の物語についてはその後、僕も異世界人に聞かされた。彼女の名前がこの国の名前らしい名前では無かったこと、そして彼の言う“吸血鬼”という表現が、どうもその時僕の琴線に触れたらしい。玄関先に突っ立っていたその異世界人と、彼に付き従っていたアルブスの男を家に招いてさんざっぱら話をしたのだ。彼が別の世界からやって来た人間だというのを知ったのは、この時ということになる」
「貴殿は血を飲んだのかい?」

 スサンナがそこで言葉を挟む。
 誰の血を、ということまでは話さなかったが、何のことを言っているのかはその場の全員に伝わった。

「飲まなかった」

 ――卿が笑う。

「何せ成人男性だったものだから。ああ、いや、この国の人間よりは童顔だったのは確かだよ? けれど外見の年齢なんて、鮮血の質には何の効果も及ぼさない。必要なのは実年齢と血の歴史。幾ら異界人で気になるとは言ってはみても、成人の血だけは飲む気はしないな」

 言って香茶の入ったカップの縁に無意味に指の腹をすっと沿わせて見せてから、思いついたように付け足した。「ああ、それに、僕が異世界人の血の味に興味を持ち出したのは、つい最近のことだから――」
 真佳としては全く笑えないし安心も何も出来ないのだけど……。
 いや、セーフだろうか? この国での成人年齢は十五歳、真佳の年齢は十七歳。ギリギリ範疇外と言えないだろうか? セーフでは?

「いや……ギリ範疇内と言ったところかな……」

 駄目だったー!!
 当然のように心の中を読まれているのはもう既に受け入れてしまっている真佳であった。とりあえず念の為半歩くらい更に距離をとっておく。「飲まなかったのか……勿体無い」スサンナも余計なことを言わないでほしい。

「まあ、それはともかく」

 卿が、取り持つようにそう言った。

「結局彼とはほぼ一日、翌日の明け方近くになるまでずっと話し込んでいたらしい。アルブスの者が短く、何事かを小さく発し、それに彼は応えるように片手を挙げた。『ああ、そうだね、そろそろ……そうか。僕はお暇しよう。どうにも時間が来たようだ』――その時彼は、既に異界に伝わる吸血鬼伝説を粗方話し終えた後であったらしかった。話すことは全て話した、と彼はその後言ったから。彼の心中にも、何らかの物語が残っていたような様子は無い」
「吸血鬼の話をしに来たのかい? おかしな男もいたもんだ」

 スサンナの指摘に卿は……笑わなかった。“チッタペピータの吸血鬼”は、ただ一時その発言に黙しただけで、せいぜい数十年しか生きられない人間という種族に食傷している長命種然とした余裕の顔はその時鳴りを潜めてしまった。ただそこにあるのは……何と言うか。上手い表現は浮かんで来ないが、漠然とした――、神様に追放されて幾百、幾千もの気が遠くなるほどの時間の流れを文明の外、例えば宇宙に漂いながら一人ぽっちで費やすことを科せられてでもいるかのような、そういう漠然とした、あまりに広大過ぎる無があった……ように思う。

「彼は言ったよ」

 卿が言う。
 漠然な無、は、その時すでに面差しからは消えていた。あれは本当にたった一瞬のことだった。

「『貴方はこれを、誰かから聞かされるべきであろうと思ったよ』……」

 ……それは恐らく崇敬だった。
 卿の声に滲んでいるもの。まるで天からの使者かのように、神の御使いであるかのように。男はそれを唇の先で、大事に大事に口にした。――それこそが彼が五百年間を生き続けた、たった一つの理由なのだと話さんばかりに。

「その後彼はここを去り、二度と戻っては来なかった。街で色々と動いていたようだがね、ふむ……それも一応話しておこうか? 彼は僕を、いや、正確には“彼ら”は僕を、一連の幼子失踪事件の真犯人であると目星をつけていたらしい」
「えっ……?」

 驚いた。てっきり謎は謎のまま、チッタペピータの人間以外にはそれこそ『ハーメルンの笛吹き男』の如くに童話、お伽話としてすり替わって終わっているものだとばかり思ってた。チッタペピータの人間以外にも真相を知る者が存在している……。そして恐らく、長命種のアルブスの中でそれを知る者は多いだろう。
 ――くつくつと、音を立ててガッダは笑った。

「言ったろう。この街のことは全て見通せる。恐らく彼も――異世界人もそれを分かっていただろう。自分やアルブスが嗅ぎまわっていることすら筒抜けであるということは、無論感じ取ってはいたはずだ。というか、感じていたのだけどもね。僕にはそれすら見通せる」
「ふうん……でもそれを公にはしなかったんだ、その彼らという多数の人は」

 ……スサンナが言った。
 そして卿は首肯した。

「そうするだろうということもこちらは分かっていたからね……これは視えたわけではない、ただ推論を重ねていって得たものだ。僕に対抗するのはあまりに危険にすぎるとアルブスはそう判断したし、異世界人も公開することを強く勧めはしなかった。結局真相が分かってもいつもの通り、目を覆い耳を塞いで彼らは日常を繕った。故に僕は弾劾もされずにここにいる」

 いやに芝居がかった仕草でもって左腕を広げて見せて、それで小さく肩を竦めた。いつの間にかつかれていた頬杖は相も変わらずそのままで。

「――その後の異世界人がどうなったのか、僕は知らない。どこか別の町へ行ったのか、あるいは元の世界に帰って行ったか……何にせよ、僕には然程興味をそそられる事象じゃあなかったからね」
「……異世界人は本当に吸血鬼の話をしただけ?」

 密やかな声で真佳は問うた。

「それだけだよ」

 卿が言う。

「彼の知識が膨大過ぎるが故に、それ以外の物事を話す猶予はあんまり存在しなかった。ただ彼は、別れ際に別のことを口にした」
「別のこと……?」

 笑う。
 卿が。
 それこそ渇望していたことであるかのように、朗らかに、爽やかに。

「『最後に一つ予言しよう。君の願いについてだが、それに関してはいずれ必ず成就する。いつか再び訪れる、異世界人の来臨によって』――」



人血クァルテット

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