「……ここだと普通に言葉が通じる」

 というのを玄関ホール中央まで歩み寄ってきたガッダ卿に伝えると、「ん? ああ」と本当に片手間というふうに言って瞬いた。

「何だったっけな、貴方の――」ちらりと卿が不貞腐れたように地べたに座るスサンナのほうを盗み見た。「――異世界のほうの聖典か何かで、多くの人間が集まって一つの塔を建設したという話。神に近づきすぎた罰として、人は別の言語を持った」
「……バベルの塔のこと?」

 と真佳は言った。よくそんなものまで読んでるもんだ。五百年前にやってきた異世界人は、一体どれほどの文献をこの地に残して往ったんだろう。

「そう、確かそういったような名だったか。ここはさしずめ、罰を受ける直前のバベルの塔だ。ここに神のご意思は無い。神の領域は穢された。故に乱された言葉というのは存在しない」

 ……――“なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように”……。『創世記』十一章の六節から七節の部分が瞬間的に頭の中で閃いた。

「魔術式か何か?」
「そういうことだね」

 とても適当だなと真佳は思う……。

「異界語で話しててもスカッリア語として聞こえるんだ」
「そう。だから貴方は、好きな言語を話せばいい。五百年前、彼がそうしていたように」

 ……ガッダ卿の言ってるそれが一体誰のことなのか、理解できたはずだったのに瞬間的に乱れた思考が真佳の理解を一瞬間だけ遅くした。



神の絶対不可侵領域



「異界人と……会ったことがあるんだね」

 一番最初に通された居間のソファに座しながら、真佳は慎重に言葉を紡ぐ。玄関ホールにいる意味ももう無くなってしまっていたので、結果的に帰ってくることになったのだ。玄関に敷き詰められている大理石のあの床は、現在絶賛裸足のままでいる真佳にとっては若干過ごしにくい感がある。居間には部分的ながらカーペットが敷かれているので動きやすい。服は最悪後回しでもいいとして、やっぱり靴だけは早めに返してもらわなくっちゃあ。

「五百年前の彼のこと?」

 と男は聞いた。淹れてもらっていた香茶は今やすっかり冷えている。縦長のティーポットを円状にぐるぐると回しながら卿が少し考えるように目を伏せた。

「……」

 話しかけても良いのか若干迷う。

「五百年の人のこと……」結局言った。「……キミ一体、本当に生まれてから何千年?」
 卿が笑いながら言う。「一桁増えた」

“それって何百年前の話?”――
 卿の屋敷で彼に初めて会ったとき、真佳自身が口にしたことを想起した。

「新しいお茶を淹れてこよう。これじゃあ客人への対応にそぐわないからね。問いはその後にすればいい――スサンナ、何故ここにいるのか知らないけれど、貴方も香茶は必要かい?」
「……」

 ソファの隅っこで靴を履いたまま行儀悪く膝を抱えていたスサンナ・マスカーニが不満気な顔で素っ気なく。

「お構い無く。卿が消えたら僕はこの子と、改めて殺し合いを再開するよ」
「家を汚すなといつも言っているだろう。決着がつく前に外にほっぽり出されたくなかったら、大人しくそこで座って待っていることをお勧めしよう」

 ダウナー的なトーンで言いながら卿はポットを持って厨へ消えた。「堅物……」漸く足を地面に下ろして肘置きに頬杖をつきながら、毒づくように彼女は言った。左腕には卿が処置した白の包帯。その件については真佳は未だに謝っていないしこれからも謝る予定は存在してない。
 ……上目遣いで盗み見る。こうして改めて見てみると、彼女の瞳は真佳の見慣れたそれよりも彩度が高くて明るめで、どう足掻いても“あいつ”の双眼と同じものとは到底思えやしないのだった。きっとあまりに見慣れない色だったから脳が錯覚を起こしてしまったのだと得心させる。それで随分気持ちが楽になったようだった……。

「卿とスサンナ……ちゃん」

 ……げ、という顔を露骨にされた。

「スサンナでいいよ。可愛らしい敬称つけられるくらいなら呼び捨てのほうが断然いい」

 一体どういう言葉に変換されているのだろう……。

「……卿とスサンナは付き合い長い……の?」
「んー……? 別に」

 ……恐る恐る尋ねてみたらば今度は答えが返ってきたので若干ながらほっとした。特に意味もなさそうに手の甲を上向けたり指を折ったりして自身の爪を見つめ続けていたようだったが、見つめていてもあまり変化が訪れないことに気づいたらしく投げやり気味に両手を膝の上に放り出し、スサンナは背もたれに勢いよく背を預けソファのスプリングを軋ませる。

「客人なんだって?」

 一瞬考えて、ガッダ卿が鏡の前でそんなようなことを言っていたことを想起した。大事な客人だとか何とか……。とてもそうとは思えないような扱いだけど。

「ということに……多分なっている」

 だから曖昧な返事になった。
 スサンナは一瞬怪訝げに片眉を跳ね上げさせたが、すぐにどうでもよくなったように表情をニュートラルに押し戻す。最初、鏡の中でマクシミリアヌスらに接していた際の“貴殿”とかいう気取った感じの物言いが嘘のようだと真佳は思う……。

「じゃ、そっちもそんなに長くなさそうだ」
「ついさっき会ったばっかだから……」

 本当に一日も経っていない。思えば初対面のままこうして屋敷に拉致されているわけだと考えて、何でのこのこついてきたんだろうみたいな心地を漸く覚えた。「ふーん」というのがスサンナの側から飛んでくる。

「不死仲間というのを、僕はちょっと期待した」

 ……不死。と心の中で呟いた。厨に繋がるあいた戸口に視線を送る。あの向こうで卿が聞き耳を立てていないわけがないだろうことを考えた。恐らくこれは、スサンナとの共通認識だ。

「……私が?」
「そう。貴方と卿が。館に馴染みすぎた服装で来るんだもの。最初はこっちを舐めているのかと思ったほどだ」
「……これは卿に無理矢理着せ替えられただけだよ……」

 せめて短パンだけでも履かせてもらえやしないだろうかと割りと本気で考えた。だから短パンと靴だけは。せめて。
 スサンナはこれには興味が無いらしく話題はすぐに元の場所へと戻された。

「通常不死は惨い格好になるわけだけど、一人ああして例外がある以上その仲間がいても僕は別段驚かない」
「……えっと、そもそも卿は本当に不死で合ってるの?」

 ……何を言ってるんだこいつはという顔された。

「当然、それがこの街に住んでる人間の共通認識じゃあ無いのかい? あー、貴方は街の外から来たのか。そりゃそうか。卿が街の人間を、客人として館に入れるはずが無いものね」
「……客人として館に……」
「卿はこの街を恨んでいる」

 この街を恨んで……?
 続いて問いかけようとしたその真佳の唇を、戸口をたたくコツコツという音がとめさせた。

「面白い話をしているが、あまり人の噂を当人の聞こえる場所で言うものではないね」

 盆を片手に乗せたガッダ卿が立っていた。もっと前から話は聞こえていたくせに、どの口がと真佳は思う。

「何の香茶?」
「さあね。血じゃないことは確かだよ」

 スサンナとガッダ卿との会話のやり取りに鼓膜の表層をたたかれて、湯気の立った香茶が前に配された。

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