『ヤコブス』

 という声が聞こえた。鏡の中から。荒い吐息を押さえながらの切羽詰まったさくらの声音。

『カタリナはどこまで戦える?』

 一瞬ヤコブスが怪訝そうに片方の眉を吊り上げた。けれどそれは本当に一瞬の間のことで、すぐに得心したように後頭部を掻きながら口をあく。

『貴様と二人で謝肉祭に行って来させる程度には』

 その言葉の真意が真佳にはよく分からなかったが、さくらはそれですぐに了承したらしい。『シンプルで分かりやすい言葉だわ』とさくらは評す。何だか不思議な感覚だ。真佳が知らないはずの、“自分が側にいないときのさくら”を、こうして客観的に視るというのは。
 チッタペピータの西門、だと思う。アルブスの村がその方面にあることだけは聞いていた。とすると西門から離れた分かりづらい隙間なんかに、隠し扉が隠されていると考えるのが自然だろう。マクシミリアヌスが当初集まるべき場所はここであったはずだった。さくらとヤコブスとトマスとフゴと、それからグイド……。どうやらマクシミリアヌスたち以外は皆ここにいるらしい。ネロもあちら側かということを、真佳はここで理解して心の中で舌を打つ。

「目まぐるしいね」

 とても楽しそうに卿が言う。鏡無しの千里眼持ちなら確実に卿の頭の中のが目まぐるしい。口に出して突っ込むことはやめたけど。

『交戦中だと思うのか』

 鏡の中でヤコブス・アルベルティがさくらに聞いた。皆の視線はずっと空中を浮いている。多分そこが、マクシミリアヌスが火柱を生成させた場所なのだ。城壁が背景のように後ろに映り込んでいるわけだから、方向からするとそれは恐らく南側。『多分ね』、と小さくさくらが言った。

『助っ人に入るー?』

 というのはグイドが言った。あまり事態を重く捉えていないような口振りで、眉間も特にしかめていない。手で庇を作って遠くを見晴るかすような仕草をしながら、そういう絡繰り人形であるかのように、爪先立ちで大きめのお腹と体躯を持ち上げる。本気で助っ人に入る気があるのかどうか疑わしいが、多分そういう話に決定すれば卒なくこなしてくれることだろう……と、思う。
 ……さくらがたおやかな指先でちろりと顎門に触れてから、若干考え込むように銀の視線を流してみせた。

『……十分欲しい』

 さくらは言う。

『今、あまり大勢で行動して注目されれば計画そのものが潰される。街の人間は今は大人しくしているけれど、これからもそうだという保証は無いし全員が大人しいというわけでもない。ネロのことを考えると、計画を先延ばしにするのは極力避けたい』

 ヤコブスが小さく頷いた。彼がアルブスに対してどういう感情を抱いているかは別として、そこに関してさくらに異議を唱えるつもりは無いようだ。

『だから、十分欲しい。十分経ってもしマクシミリアヌスが帰って来なければ、その時は命の危険があると見なして助勢する。マクシミリアヌスもカタリナも、自分が成すべきことは分かっているはず。極力戦闘は長引かせようとしないでしょう……。カタリナが戦えると言うのなら、多分それくらいがボーダーライン。もし、それ以上かかるとなると…………』

 相手があまりに悪すぎる時
 ――ということだ。真佳としてもそれに関して異論は無い。何せ真佳は動けないのだから、真佳がいない場合の戦術をさくらに立ててもらうよりほか仕方がない。
『カタリナのことはすぐにでも助けに行きたいかもしれないけれど』とさくらが言った。それに対して、ヤコブスのほうは『いや、』と言う。

『あれのことは多少放っておいても問題ない。異存は無い。それが妥当だ。十分――』

 ヤコブスが薄く双眸を細めて天を向いたのを、鏡越しの視線のおかげで辛うじてながら理解した。十分。彼が向いているのは街の南の方向で、そここそマクシミリアヌスが火柱を発生させた現場であることはもはや疑う余地は無い。
 目を細めると、少し頼りなげな少年のようになるのだな、と、真佳は今、ここで初めて気付かされることになる。

『――待とう』

 確固とした声で彼は謂う。



機知策略の殺し方



 ふむ……というのをガッダ卿が口にした。口にしたというか、呻いたというのが適当だけれど。

「して、相談だけれど、マナカ、貴方はあの巨体人が死に苦しむと悲しいかい?」
「は……?」

 何を言ってるんだこの人は、というのが最初。マクシミリアヌスが死に苦しむ? 聞くまでも無いだろう。悲しいし、悔しいし、しんどい。
 それをまた読み取ったみたいに男は小さく頷いた。

「どうやらこの戦い、彼には少々分が悪い。守りながら戦うということの難解さは、当然貴方も身に染みて理解しているだろう?」
「……マクシミリアヌスが何か危険なの」

 鏡の前で意識をシフト。鏡面の世界を自由に変えるためのコツが、この時分かるようになってきていた。――目を見開いた。ガッダ卿は一体何を視たのかと、疑問に目を凝らす必要すら無い――。
 マクシミリアヌスが誰か女の子を抱いていた。マクシミリアヌスの眷属を欲しがっていた金髪の彼女。彼女は顔色を蒼白にしていてくったりしたまま動かない。その上腕に刃が刺さっているのを見てとった。知ってる。紫に光る黒の短剣、針のように細いそれはフードを被った襲撃者たる女のものだ。

「……何があったの?」

 呆然としないではいられなかった。守るべき人間が増えている。貴族の彼女はどうしたって自らの意思では動けない。マクシミリアヌス側とカタリナ側、同時に剣の雨が降り注がれて双方後ろへ距離を取る。どちらかがどちらかにサポートするような暇すら無い。両腕を使えないマクシミリアヌスは、この戦いでは明らかなまでに不利である――……。

「女の子が飛び出したんだ」

 男が言った。

「ベレンガリア・ディ・ナンニ、だったかな――? あまり好きではない氏(うじ)だ。交戦中に飛び込んで、彼女の――貴方の感覚を採用するなら襲撃者の――刃を受けた」
「あの剣……」
「おや、理解したのかい? 流石君は、戦慣れしているだけはある。そういう相手ともかち合ったことがあるのかな……ご明察、あれは毒の刃だね」

 カタリナが銃を抜いていた。
 どこか遠くで人のごちゃごちゃした話し声――。
 卿が思わずといった具合に眉をしかめた。

「まずいな、流石に想定外だ。今それを私に献上されても困るのだけど――」

 わっ、と人がどよめく声が鏡の中で沸き起こる。意識が勝手にそっちの方向にシフトして、鏡面の世界がぐるんと真佳の意識に従った。人が一杯いる。男の人が何人も。いい服を着てはいるがどうも貴族という風ではなく、貴族の家柄でも未だに後継者の自覚を持たないドラ息子の類いだろうかと夢想する。その中心を、

「わ――」

 疾風のように何かが視界の中心を(・・・・・・)突き抜けて、驚きのあまり思わず両の瞼を閉じた。実際真佳の眼前を何かが横切ったわけでは勿論無い。慌てて双眸を開いて意識を向けた。『あ、待て――』フードの女の肉声が真佳の鼓膜を打ち鳴らしてから遠ざかる。
 マクシミリアヌスの背中が見えた――今はもうすっかり慣れてしまった、ワイシャツに黒の綿パンというとてもラフな格好で、その隣には同じような格好をしているカタリナと、それから襤褸の布切れをすっぽり被ったネロ少年の姿があった。どうやら路地を駆けている。狭い路地にマクシミリアヌスの体躯は客観的に見ても窮屈そうに思われた。

「……――」

 ガッダの横顔を盗み見る。“今それを私に献上されても困るのだけど――”うっかり漏らした一言を真佳は聞き漏らしてはいなかった。カタリナが銃口を持ち上げる。発砲。血飛沫が飛んだような音が微かにしたが血は見えない。出血量は多くはなかろう。恐らく彼女は今、路地の上を跳びながらマクシミリアヌスらを追っている。銃口の位置からも恐らくそれは間違いない。ちぇっと卿が舌を打った音がした。

「マナカ、貴方はあの巨体人が死に苦しむと悲しいと心で思った。ならばそれを僕が回避してあげよう」
「……」

 真佳は敢えてここでは答えを避けることにした。好きにやらせておく。幸いなことに、それは真佳が望んでいるのとおんなじことだ。
 卿は片方の肩だけを器用に竦めて見せてから、意外に素直に目を閉じた。左手の中指の腹で何か虚空に描くように指を踊らせ、鏡面上にとても静やかに手を這わす。
 ――――――……、
 耳鳴りのような高音に一瞬耳と脳とが貫かれ、思わず両手で耳を覆った。音声の波紋が視認できるかのようだった。男が述べた言葉の羅列はどれも質量を伴っているかのように硬質に、まるで実態を持っているかのように鳴り渡る。

『あ゛?』

 ――驚いたことに、それに最初に反応らしい反応を返したのは鏡面に映った女であった。金髪に赤目の、マクシミリアヌスらを突如襲いにかかった女。
 卿が薄く唇を開く――囁くように、唇の先で甘く睦言を吐くように。

「スサンナ、スサンナ・マスカーニ――」

 それが彼女の名であることを悟るためには一拍要った。唇の先だけで男は続ける。

「僕だよ、ウィトゥス・ガッダだよ。声で判別は出来るかい? 貴方の耳は、然程悪くは無かったはずだが」

 舌打ち――とても硬質な音が鏡を突いた。

『何の用だ。今貴殿は僕のやることに関係しては無いはずだ』

 知り合い――“そう来たか……なるほど……”――さっきガッダ卿が呟いていた一言が遅れて脳裏に蘇る。女が押さえた声音で家壁を蹴って宙を飛ぶ。その眼差しは真っ直ぐ逸らさずただ一点、マクシミリアヌスだけを追っている――襲撃者と怪奇譚の噂の男、一体どういう関係が?
 相変わらず質量を持った肉声で、湖面を波打たせるように男は笑う。

「随分ぞんざいに言うんだね? 僕は些か寂しいよ。だがまあ、こちらもあまり時間が無い。どうかな、ここは一つ、何も言わずに僕の側に寝返ってくれるつもりはなかろうか。今お客人が来ていてね――」
『何で僕が』

 小さく言った。

「とても大事なお客人なのだけど――」
『だから、だからって何で僕が――! 今忙しいんだ、そういう戯言は後にしておいてくれるかな――』

 平らな屋根の上で片足をだんと打ち鳴らし、女が怒鳴った。マクシミリアヌスとカタリナが鏡の端で一瞬視線を交わせた。『あっ、こら!――』一時の停止を二人が見逃すはずがなく、結果としてスピードを上げて一目散に逃げ出した。追うのも忘れてしまっているのか知らないが、女は暫く未練がましくマクシミリアヌスらの背中を見送って、チッと聞えよがしに舌を打つ。

『ああ、もう――』

 女は多分今鏡で自分の姿を見られているとは思っていない。耳にかけていないほうの髪を苛立たしげに掻き上げて、言を紡いだ。

『あんたのせいで逃がしちゃったんスけど』

 不満しか感じていない声音でもって。
 卿はそれにくつくつと喉を鳴らして返事をした後、実際に鏡の前で愉快そうに更に口角を吊り上げた。まるでシーソーみたいだと真佳は思う。片方が不機嫌になれば片方は愉悦を感じているという。

「貴方のことだ、どうせすぐ追いつくことはできるだろう? それしきのネズミ、貴方が取り落とすとは到底思われないからね」
『……』

 女は何も口にしない。鏡に映されているとは思っていないかもしれないが、ウィトゥス・ガッダ卿がいつものように(・・・・・・・)、(知り合いであれば彼の千里眼を知っていないとは思われない――)自分を覗いているであろうことは思考に入れてはいるかもしれない。だからと言って無意味にきょろきょろと辺りを見渡し出すということもしなかった。
 卿が鏡の表面を幾つかたたいた。鏡面に波紋が広がった。

「スサンナ、スサンナ・マスカーニ。もっといいものを教えてあげる」

 女の赤目が細くなる。真佳のそれより赤味は若干薄いのだけど、珍しすぎるその赤い目の存在は真佳を今でもどきりとさせた。

「ここに赤目の女がいる」
「……は?」

 予想外過ぎて反応が遅れた。こいつはなにゆえこのタイミングでいきなり自分を紹介しだした?

「僕の大事な客人だ。彼女は相当腕が立つ。もしかしたら貴方より。貴方を軽く凌駕する実力の持ち主であるかもしれない」
「ちょ、待って、何を言い出そうとしている……!」

 女が何か口にしたらしいが真佳の耳には入らなかった。聞いている余裕があまりに無かった。自分は決して戦闘好きなわけではない! 出来れば極力そういうことにはぶち当たらないまま平穏無事に済ませたいんだ! それをこの男は、この流れでは――!!!

「彼女は貴方の相手をすると言っている」
「――!!!」

 女が笑った。
 鏡の中で陰惨に悦楽に執拗に。非対称に細められた赤色の双眸があまりに倒錯的なものだったから、訪れた目眩に思わず後ろへたたらを踏んだ。くらくらしてきた。吐き気がする。

「彼らは危機を脱したようだ」

 一息ついた男の顔面にストレートを叩き込みたい気持ちで一杯だった。

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