一瞬間だけそれが子どもの血に見えた。ハイビスカスティーを思わせる真っ赤な香茶。自分の手元を見てどきりとしたが、喉を通ったその液体の味を思い起こして吐息した。それは安堵に似ていたのかも。香茶に鉄の味は覚えなかった。

「流石に客人には出すまいよ」

 と男が言ってくだんの香茶で唇と喉とを潤した。バレてた……。唇を湿した。この男の辞書には見落としという言葉が無いのか? 或いは見逃すという言葉の項が。

「血液は完全栄養食だと言われているのを知ってるかい?」

 ……唇に付着した香茶の雫を舐め取りながら男が言った。

「水分、塩分、タンパク質を含み、母親の母乳も血液から作られる。餓死寸前なんていう場合には、動物を捕まえて血を啜るというのもいい。今は廃れてもう無いけれど、かつては飲血療法などというのもあった。もしも今君が飲んでいるそれが血だとして、そう忌まずともよかろうよ」

 そう言ってくっくっと喉を鳴らして笑うのだ。忌まずともと言われても自然心臓が竦み上がるのが人間の情というやつだ。家畜の血などとはまたわけが違うのだから……。

「……ガッダ卿は吸血鬼か何かなの」

 尻上がりに発音する余裕もあまりなかったのでとても平板な言葉になった。けれどこれがいわゆる問いかけであることはガッダ卿も気付いたらしい。気付いたというよりは、識っていたと言うべきか。香茶のカップをソーサーの上にカチャリと置いて、長い足を悠然と組んでソファの背もたれにその背を預けた。

「吸血鬼というのは知っている。異界から伝わった吸血鬼物語は、読んでいない人間のほうが少なかろう」

 誤魔化したかなと思った。
 その考えすら当てられた。

「いやいや? まさか。そう慌てずとも、質問には答えるさ。僕の気分の良いときにね。そうだね。ではそれには、かつて同じことを言われたことがあるとだけ、僕は貴方に答えよう」
「……同じことを?」

 吸血鬼か何かなの、と?
 ……誰に?
 ちっ、ちっ、ちっ、と、ガッダ卿が短く嗜めるように舌を鳴らした。

「それは追々、貴方自身が当ててみたほうが良いだろう。ああ、いや、申し訳ない、前半の答えは是認でいいよ。誰に言われたか、それを考えるのが貴方の仕事だ」

 ……どこまで識っているんだろう。
 若干の話しにくさをこの時既に覚えたことを、真佳自身も自覚した。



閉じ込められた中のこと



 ドッ……という音が、ほんの微かに聞こえてきたのはその時である。ここは実に森閑としていて、目覚めてこの方外の音をついぞ聞いたことが無かったためにほんの少し驚いた。そういえばここはまだチッタペピータの只中で、城のような形状をしたこの石造りの館を出れば、決して見忘れたことのない街が今もずっと続いているはずなのだった。隣家までは確かに数メートルか距離はあったように覚えているが、それにしたって音が全く聞こえないというのはどうやらおかしい。
 つまらなそうな顔で、カップに幾らか残っているはずの香茶の表層を見ながら男は言った。

「ふぅン……長く生きてはいるけれど、この街で火柱が上がったのは初めて見たな」
「……火柱……?」

 眉をひそめた。何を言っているのか、最初は意味が分からなかった。

「多分君には視えるまい」

 と男が言った。本当につまらなそうな声だった。
 けれど暫くしてふと思い直したように、

「そうだ、鏡を持ってこよう」
「鏡……?」

 やっぱり意味が分からない。
 けれど卿はどうやらそれで機嫌を直したように、「何でも見れるよ。それなら君も視認できよう」と微かに微笑った。薄い頬の筋肉を僅かに釣り上げるような笑み方で、自然で素朴な微笑みに初めてまともに心が疼いた。これは素の微笑であろうか。だとしたら尚の事男のことが分からなくなる。
 ちょっと待っておいでと言い置いて男が部屋を後にして、それからしばらく待たされた。真佳がここから逃げるという選択肢は考えなかったのか……。あるいはそういう心配をすること自体が不必要だとでも思っているのか。そもそもここにやって来たのは真佳の意思であるのは間違いないので、全ての質問に答えないうちは逃げ出すことは無かろうと、もしかしたら考えているかもしれない。そしてそれは間違ってなどはいなかった。

「ただいま」

 自然に発せられた日常会話に胃の底がぞわついたのを知覚した。真佳はここにずっといることを容認しているわけではない。
 ガッダ卿はその玉面に汗の筋一つ浮かべることなく、息を荒げることも無いままそよ風のように帰還した。用事はどこか近しい部屋であったのだろうと考える。何かをしに行ったのだと思っていたのだが、卿が何かを持って帰ってきたという素振りは無い。何をしに行っていたのだろうと思っていると、戸口に背を預けたまま卿が片手でどうやら真佳を手招いた。
 ……。ちょっと反応に困っていると、ガッダ卿が短く言った。

「いいから」

 ――それから続けて、

「こちらへおいで。面白いものを見せてやろう」

 不遜な感じに聞こえないこともないが……まあいいか。香茶の入ったカップを行儀よく受け皿に収めておいて、卿の招きに従う形でソファを立った。
 卿に案内されたのは正しく隣の部屋だった。居間の向かいにある濃い茶色の片扉で、両開きのドアが多いこの屋敷の中では異質というか、質素に見える。まるで出来れば隠したい場所であるかのような出で立ちだ。事実どうやらそれは正解で、招かれたそこは埃に覆われた家具の墓場になっていた。
 多分物置と言うのが一番正しい。あまり使わないものとか、要らないもの、使わなくなったものを暫定的に積み上げる。段ボールの中に収められているというのではないので何が収納されているのか一目で知れた。まず目につくのは多分部屋に合わせて作られたのに違いない意匠を凝らした椅子たちで、中板が壊れて更に覗き窓の硝子がひび割れてしまっている棚もある。多分何かが描かれているのだろうキャンパスも積み重ねられていたのだが、縦に立てかけて並べられているため表のイラストは見られなかった。狭い部屋だが、卿が一瞬早く扉を開けておいてくれたおかげか、埃で咳き込むほどに空気が停滞しているわけではない。
 ガッダ卿が手のひらで指し示したのは鏡であった。銀だろうか、波打つような流線型の装飾が施されたミラーエッジで、真佳の身長を優に超越する楕円形の平面鏡。最近使われたことがあったのか、周囲が埃に埋もれた墓場の中でそれだけが未だ生命を保ち続けているらしい――。

「覗いてみなさい」

 卿が言って(それも不遜な色が見えた気がしたが、考えなかったことにした――)真佳は鏡の正面に爪先を向けて対峙した。黒に包まれた真佳の様相を鏡が忠実に返納してきた。ちっ、ちっ、ちっ、と卿が舌を打ち鳴らす。

「見たいものは無いのかい?」

 男が言った。
 見たいもの――例えばさっきの音の発生源? それとさくららとの関係性? 皆は無事にこの街を脱出できたか……とか?
 三つのうちどれが採用されたかは分からない。ただ、現実のその光景が真佳の眼前に現れた。まるで水面に波紋が広がるかのように――硬質であるはずの鏡の表面が波打って(・・・・)、映し出されていた真佳の様相を歪ませた。

「ま……っ」

 声と頬とが引きつった。
 マクシミリアヌスがそこにいた。鏡の中でその巨体を堂々と晒し前を向いて屹立していた。マクシミリアヌスの緑眼に恐らく真佳の姿は無い。視軸もこっちを向いていない。彼が見ているのは鏡の枠外にあるものだった。真佳が認識したと同時に鏡面の光景がシフトした。見覚えの無い男……いや女?だ。フードとマントで顔と体格を隠しているが鏡が映すその僅かな頬の骨格が女らしいと言っている。

「おや」

 と意外そうにガッダ卿が言葉を発す。

「そう来たか……なるほど……」

 何がそう来たって?……声に出して尋ねたかったが、それよりもまず聞きたいことが多すぎた。鏡の中は静止しない。常に状況が動いてる。女が目深に被ったフードを取っ払った。女が持つ金の御髪と――生唾をそこで呑み込んだ――真佳と同じ赤眼のまなことを日のもとに晒して、それから薄く口をあく。『教会の人間が貴殿を攻撃すると、心の底からお思いか?』……。
 ……夢では無い。

「な……」

 米噛みを押さえた。

「何これは……これは、まさか外の世界が映ってる……?」
 ガッダ卿があっけらかんと微笑んだ。「うん」……子どもみたいに頷いて、それから微笑んで付け足した。「そうだよ」……。

 ……そうだよ、
 じゃない……!
 心の中で振り絞るように突っ込んだ。あまりにもあっさりと肯定してくれたな!? 違う、そうじゃない、真佳が欲しかったのは単なる頷きだけじゃあなくて、もっとこう……! ああ、上手く言葉が繋がらない! そうまであっさり肯定されると、まさかこれはこの世界のどこにでもある普及品なのかと考えてしまいそうになる。そんなわけない、今までそれなりに色んな部屋や家々を目の当たりにしてきたが、こういう鏡はついぞ見たことがなかったはずだ。

「ふふ、そうだね」

 ……やっぱり心を見透かしたように男が言った。

「これはこの世界のどこにでもあるような代物じゃあ無い。この存在は、恐らく教会さえも知らぬだろう。今まで話したことは無かったし、かつて存在していたガッダの家系は、一族の宝を他人に吹聴するような愚か者では無かったはずだ」

 腕を組んだまま卿はくつくつと一人、微笑った。歌うように紡がれた言葉の羅列に一瞬思考が呑まれてしまいそうになる。辛うじて表層に残ったひとひらの単語を真佳は縋るように口にする。

「……一族の宝……」
「そう」

 それを拾い上げたことを称えるように卿は言う。

「貴方には見せよう。どうせ僕には、既に必要の無いものだ」

 そう言って卿は鏡の縁の銀の造形に指を這わせた。ぞんざいと丁寧さの、丁度中間くらいというような、それは扱い方だった。
 もう一度鏡に目をやった。

「……これは」

 マクシミリアヌスが戦っている。困惑の汗が頬を伝った。何をしている? もう既に街を出ているのではなかったのか? 街の人間の刺客か何か? ううん、違う……ガッダ卿の話を聞くのと同時に、どうやら薄っすらながら鏡の中の会話も聴覚の端っこに触れていた。彼女はただ単純に戦うことを望んでる。……何でよりによってマクシミリアヌスと?

「これは館の外のこと」

 ガッダ卿が口にした。

「そうだね……貴方の思考癖から推測すると、どうやら考えたのはあの音の発生源。それと、音と彼らとの関係性といったところか……」

 つくづく千里眼だなと考える。
 或いはこれは、デュパンやホームズの受け売りか?

「ここに在るのは丁度音の発生源、その正体で間違いないよ。僕はそれより先に、視たからね。彼、マクシミリアヌス・カッラ中佐が火柱を立ち上らせるのを」
「……鏡を使わずに?」
「言っただろう? これは僕には、既に必要の無い代物だ」

 鏡の縁を指の腹でとんとんとんとたたきながら彼は言う。鏡の中でマクシミリアヌスが、大剣でもって自身の軌道を強制的にねじ曲げた。

「……マクシミリアヌスが、この人に襲われた、あるいは襲われそうになったことで炎の魔術を発生させた……?」

 ガッダ卿が頷いた。「そう」後になって言葉を発した。
 ……襲われるか何かしてそれに応戦したのだったら納得がいく。足をとめたのも仕方がない。
 ……さくらは? さくらは、街の人たちに捕まってはいないだろうか……? そう思ったその瞬間、鏡の中の世界が変わる。

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