一旦話を初めに戻そう。
 一番初め、真佳がこの屋敷に連れて来られたころのところから。外から触れられることをずっと拒絶し続けていたその場所を、いとも容易く逆撫でされたことで足を向けてしまったその場から。

「最近の薬草学はあまり知らない。昔のもので事足りるものは、それで補うようにしていたもので。何せ習う理由も必然性も無いからね」

 と、いうのが、男が真佳に薬を盛ったと認めた後の陳述だ。最近の薬であれば人を眠らせていいというわけではない。というか、そもそもの根本的な許容し難い事物がある。

「……この服は一体」

 胸元のところをつまんで見せた。しゃらしゃらした絹地の黒のゴシックロリータである。フリルがふんだんにあしらわれていて袖のところがラッパ型に膨らんでいるのが否が応でも目に留まる。起きたとき身にまとっていたのがこれであり、それからここが重要なのだが、真佳にはこんな服を自ら着用した記憶も、持参していた覚えも無い。寝ている間に着替えさせられたのだ。勝手に。男の手によって。うら若き乙女がこのような事象を看過していいはずがない! 自分の斜め前方を飄々と歩く黒衣の男を半眼で睨み据えながら、真佳は奴の背中を追った。ついて来いとも来るなとも言われていなかったため、成り行きのままに男の背中をこうして追いかけ屋敷を徘徊し続けている。
 男が一度こっちを向いた。白い面(おもて)に闇を束ねた黒髪が無造作すぎるほど自然に触れて、まるで玉座に収まっているかのような紫水晶の双眸が真佳の体躯を視界に入れた。心臓が萎縮したように一瞬跳ねた。

「ああ、暇だったから着せたんだ」
「……暇だったとは」
「あまりに起き上がらないものだから」

 そう言ってまた進行方向へ視軸を戻した。
 ……あまりに起き上がらないものだったからって! 眠らせたのはそっちだろ! 突っ込みたかったが突っ込みどころが多すぎることで喉のところで言葉の大渋滞が巻き起こり、結局何も言葉に成せないまま追従役の続投を任じられる羽目になる。まあどうせ突っ込んだとして話を聞いてもらえるとも思えないけど。

「途中で飽きたんだ」

 男が言った。

「タイツの履かせ方が分からなかったから、後で自分で履いてくれるととても助かる」

 ――そしてまた綺麗な、綺麗だからこそ心には響かない例の微笑を見せて視線を戻した。……道理で中途半端な出来だと思った。膝丈のスカートから生えているのは装飾の無いただの二本の素足であった。暇だったからとか飽きたからとか、自分はもしかしたらこの男にドールとしか思われてないんじゃなかろうか。

「どこに向かってるんですか」

 まともに相手をするのも面倒くさくなったので正確な敬語でつっけんどんにそれだけ告げた。さっきから通っているのはどうやらただの廊下のようで、左側に随分広い間隔でドアがあり、右側には一つ一つがとても大きな窓がある。建造物が石造りなためどこか寒々とした冷たい印象のある場所だった。天井から垂れ下がった吊り下げ型の電球がぽつりぽつりと光を落とし、より陰惨な雰囲気を作り上げるべく苦心してでもいるようだとすら考えた。
 いつの間にか男の手にはランタンが、手提げ式の瀟洒な飾りの携帯灯が握られているのを視認した。もしかしたら最初から持ち歩いていたのかも。或いは、どこかに吊り下げておいたのを今漸く取り出したのか。過去と現在とがどうにも一つの糸に収まらない。

「なに、ゆっくり話が出来る場所さ。折角の客人を座らせないまま立ち話というのも、色の無い話だろう?」

 別に男と華美な話し合いをしたい希望は真佳には毛頭無いのだが。まあいい、どの道すぐに帰られるとは思ってなかった。フゴに先に行ってと頼んでいたとき、さくらの後を追って外壁の外に飛び出す自分は全く想像しなかった。現実味が無いと思ったからだ。これは予言と言うより、勘に近い。
 ランタンをかざしながら男は続けた。まだ昼間であるにもかかわらず、ここは不思議と陰気臭くて薄暗い。

「何せ使ってない部屋が多すぎる――」

 と男の背中は言葉を発した。

「こうも広い屋敷だろう? 僕一人で維持し続けるのは難儀でね。特定の一区画しか使っていない。厨房の側に合わせたもので、入り口から歩かなければならないというのが欠点と言えば欠点か。普段はあまり気にならないが」
「ガッダ卿」

 初めて男の名を呼んだ。その背中が少し驚いたように小さく跳ねた――ように見えたが、吊り電球の悪質な嫌がらせで無かったとは言い切れない。

「ウィトゥス・ガッダ卿――」

 唇を湿した。

「貴方は私の何を知ってる?」

 ……。
 少し空白を置いただけでガッダ卿は応えなかった。ただ同じように自らも唇を湿らせて、答えにならない返答をその横顔から吐き出してきただけだった。

「立ち話というのも、随分色の無い話だろう?――」



サー・ガッダ、ウィトゥス・ガッダ



 廊下には埃が積もっていたが、招かれた一室はそうではなかった。完璧にとは行かないまでも汚らしくない程度には綺麗に整理されている。本当に男の一人暮らしであると言うなら十分過ぎるぐらいであった。自分一人では、とガッダ卿はそう言った。使用人も、あるいは嫁もいないのか。そういえばそういう話は全く街では見かけなかった。それはやっぱり、ガッダ卿に纏わる街の噂に関係しているのだろうか。

「あまり楽しくない話を考えているね」

 と卿に言われて心の底からびくついた。顔に出していたつもりは無いが……。盆に乗せて運んできたティーセットをぞんざいと丁重の中間くらいの真面目さでもって配置して、卿はまず真佳のカップに紅色の茶を注ぎ込む。茶葉が毛羽立つ香り高い馨香が瞬時に鼻腔を刺激した。真紅のソファに濃い茶のテーブル、台所に通じる戸口の脇には小さなチェスト。クリーム色の壁面とテーブルと同じ色合いの腰板に囲まれた一室の、それが家具と言える家具だった。他にも家具らしき家具はあるのだが、どれも使われた形跡が全く無いか、あるいはどこかしらがたついていて使い物になりそうも無い。修繕は多分しなかったんだろう。“飽きた”から。香茶で唇を潤した。あとは壁にかかった、家具とは言えない幾つかの風景画……。

「人の心を読める系の都市伝説?」

 一通り観察を終えたところで、やっとさっきのガッダ卿への反応として真佳は言った。卿は少し驚いたように目を瞠って、カップを持ち上げた姿勢で一旦停止していたが、それもすぐに微笑に変わった。さっきの話がまだ続いていることを驚かせただけで、多分それ以上の意味は引き出せてはいないだろう。香茶をすする。ハイビスカスティーに近しい味がするということに感づいた。

「都市伝説というのは面白い例え方をする。あまりこの国では聞いたことのない言葉だね。と言っても僕は、ここ最近外には出ていないわけだから、最近浮上してきた言葉と言うのなら聞かないとしても仕方がないけど」

 何百年くらい? というのを聞こうとしてからやめにした。同じタイミングの攻めを何度やっても結果は同じだ。卿がカップを皿に置く。

「――勿論言葉の意味は知ってるよ。物の本でいつか読んだことがある。異界の方面の言葉だろう? 近代に広がった口承の一種。僕がそれだと思うのかい」

 初めて答えを求める問いかけ方をされたと思った。ゆっくり話が出来る場所で話をする、というのは、あながち真佳を煙に巻くための方便であったのではなさそうだ。

「絵画のことを聞いた」

 単刀直入に真佳は言う。

「絵から抜け出す男の話――」

 卿は表情を一つも変えない。

「それが貴方だというのを聞いた」

 ……笑った。男が――……少し。細められた眼瞼の隙間から紫色の貴い光が零れ落ち、真珠のような肌が気安げに綻んだのを脳が視た。……綺麗な男というのはとても心臓に悪いものなのだなというのを必要以上に香茶をすすりながら真佳は思う。

「或いは、子どもを生け贄に求める悪鬼であると?」

 卿自らが口にした言に、ティーカップを口にしたまま閉口することと相成った。ネロ――アルブスの少年だけじゃない、色んな子どもが求められてここへ行き、そして来た者は戻らなかったと聞いている。

「……子どもを生け贄にっていうのは、本当に……?」

 ティーカップを両手で抱えながら真佳は聞いた。程よい温もりがずっと真佳の両手を温めていた。恐らく魔術式の描かれたカップのせいだ。
 一笑した――卿が。
 唇に描かれる弧、それだけで一瞬どきりと心の臓が波打った。

「それを初めに聞くんだね」
「…………そういう……話の流れだったので」

 また笑った。今度は実に軽率に。

「いいだろう、貴方の質問には全て答えるという約束だ。問われたのならば僕は語ろう」

 ソファの肘置きに頬杖をついて卿は言う。その視軸はこちらには無い。斜め下、ローテーブルの縁をかすめて古びた敷物に落とされているようだった。何かに似ていると思ったら、それは巨大な老木だった。何百年何千年の時を刻んだ一本の老樹の年輪を垣間見せられているかのような、あるいはその古木で製出された一冊の分厚い年代記をそっと開かされているかのような。
 この時点で既に真佳は確信していた。外見こそ二十代あたりに見えなくもない男だが、彼がそれより一桁か二桁かは年上であるということは間違いないと言ってもいい。
 ――不老不死か、あるいは不老はいるのかどうかと尋ねたな――いつぞやのヤコブスの声がする。あの時彼はさくらに向かってそう言って、そしてその答えとして指し示されたのが博物館にでも置かれてそうな巨大な恐竜然とした完璧な骨の塊だった……。

「本当だよ」

 と彼が言ったその解答を一瞬取り零しかけたことを真佳は認める。唇の先だけで小さく笑って、そこに対して彼は言葉を継いだ。

「聞いておいて、あまり話を聞いていなかったのかい?」
「……考え事をしていた。申し訳ない」
「おや、結構素直に謝罪するのか。そういう性格とは思ってなかった」
「侮られている気がする」
「賞賛だよ。素直なね」

 どうだか……。
 心の中で口にして、卿がカップに唇をつけたのに釣られるように真佳も香茶を味わった。

「事実だ――」

 もう一度卿が言い含めるように音を吐く。

「街の子を生け贄として求めた。それは認める」
「食べたの?」

 と真佳は聞いた。そういう話は聞いてはいないが、二度と戻らなかったと聞いている。一番あり得なさそうなことをまず問うた。殺したか、食べたか――いずれにしても、命が奪われたのは確かだろう。或いは、「ハーメルンの笛吹き男」俗説の一つ、「何らかの巡礼行為か軍事行動の一環として街を去った」説を提唱するか?

「血を貰った」

 ……と男は言った。
「は?」と真佳も思わず言った。言われた意味がすぐには入って来なかった。

「血だよ。血液――生き血。血潮」

 香茶を喉に流し込み、少し表現を変えながら男はやっぱり同じようなことを口にした。

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