ガッダ卿は鏡を見ようとしなかった。まるで外で何が行われようとしているか、最初から分かってでもいるかのように。
 ただガッダ卿は、よくこの鏡のある部屋に来た。
 それは多分、鏡を見るためというよりは、鏡を見るために真佳がそこにいるからだ。
 何となく鏡の表面を撫でてみた。
 さくらの肌に触れることは叶わなかった。

「こじ開けられるかもしれないのに」

 と真佳は言う。

「余裕だね」

 ガッダ卿はこちらに背中を向けた状態で軽く肩を竦めただけで、真佳もそれを不思議な鏡のはめ込まれているミラーエッジの歪んだ姿で視認した。……随分まともに目を合わせていない。あれから。全くだ。

「こじ開けられるものならそれでもいい。その時には既に終わっているから」
「…………」

 余裕だな、と今度は胸中で言い返した。
 そのために必要な真佳の意思を、考えていないわけでもあるまいが。

「さくらなら解ける」
「へえ」

 ……と卿は口にしたが、その「へえ」には感情がこもっていなかった。いや、至極楽しそうな感はある。……でもそれは、多分、心とは切り離されたものである。

「さくらなら解けるし、そしたら私はここにいる意味と理由から開放される」

 卿は何も言わなかったが、それに不満を持っているという態ではなかった。そうしたらまた数百年の時を過ごすだけだとでも言いたげに――。……あるいは、そうならないことを知っているからであるかもしれない。今さくらたちが街の周囲を走り回っていることを知っているように、これからの未来も……過去彼が見つめ続けた何百年という歴史を識っているのと同様に、時間の矢の向かうその先も、既に知っているのかもしれなかった…………。



「   」



 ベッドの縁(へり)に腰掛けてさくらは苦い顔をした。夜遅く。日の入り前のギリギリの時間になってようやくその日ネロと共に帰村して、今こうやって長老の家にお世話になることになっている。真佳救出のために使える時間を一杯に使ったにも関わらず、その日特段の突破口が見当たらなかったということに本格的に焦燥感を覚え始めた……。

(一旦瓦礫を魔術式が通っている説を受け入れる?……万が一という可能性もあるにはある。推理というのは結局は推論にほかならず、私は名探偵というわけでもない……)

 自分の推論が的中している自信は無い。
 試してみるというのも一つの方法だとはさくらも思う。しかし……。

(……瓦礫を掘り起こすという作業には流石に街の助力が要る。ペシェチエーロかスッドマーレか、詳しい場所は別にしても――)

 結局そのために時間がかかるというのなら、“魔術式が瓦礫を通っているのだ”という確固たる証拠が欲しかった。それで外れていた場合本当に卿の思う通りになるぞ……。
 ノックの音がしたのはその時だった。
 ……単に忘れ物を取りに来たカタリナだろうと思っていたから勝手に扉を開けるのを返事もせずに待っていると、意外なことにそこでもう一度同じノックの音がした。少し怪訝そうな音だった。

「……? はい、どうぞ」

 長老……にしては二回目の音が合っていない。ヤコブスならば変わらず同一の音を打ち鳴らしているはずで、フゴやネロなら躊躇いがちのノックの音に。グイドやトマスはそこで声をかけるだろうし、性格に合っているとしたらばこれはマクシミリアヌスか、或いは――。

「……」

 ひょこりと扉の縁(へり)から顔半分だけ覗かせた姿にどきりと心臓を震わしてしまった……。大きな瞳で穴があくほど部屋の中を見回して、

「あの色黒の女はどこにいますか?」

 ……カタリナのことだろうか。

「今多分、お風呂に入っているとは思うけど……」
「ふうん……」

 自分で聞いておいてあまり興味が無さそうに、何故かちょこちょこと入室したと思ったらカタリナのベッドにすとんと腰を落ち着かせてしまった……。
 ネロらが着ているような簡易な衣装を身にまとっていたが、間違いない。金髪碧眼。巻いていた髪は今はセットがなされておらず、未だ幼い肢体の線に収まっている――紛れも無い、ベレンガリア・ディ・ナンニ嬢。貴族の娘に相違ない。
 ……何でここに? というのは、当然の疑問だと思われた。

「……長老は?」

 というようにさくらにしては珍しく、とても迂遠な言い方でさくらは聞いた。何でここにいるんだ?などと言おうものなら、まるでここから追い出したがってるみたいに聞こえそうなので。貴族の少女の扱い方を、どうやら自分は測りかねている。
 ベレンガリアは、何で自分に聞くんだとでも言いたげな顔で眉を顰めて、思い出すようにほんの一瞬視軸を逸らした。

「……書斎ではないですか。彼は日中いつもそこにありました。時々、そこへ村の人間が出入りしていたように思います。私はずっとあの室内に閉じこもっていたから、詳しくは知らないです」

 ……その安寧の地を脱去して、わざわざここへ潜り込んだということか。
 さっきの応酬で彼女にさくらと話す意思が無いのは理解した。つまり彼女がここに居座る理由は、彼女が先ほど発した“色黒の女”と面会するために違いない。厄介なことになった……。カタリナが浴室に旅立ったのはつい先ほどの話である。つまり彼女が戻ってくるまでには恐らく結構な時間を要す。

「……カタリナ、暫く時間がかかると思うわよ」

 少し迷ったが結局言った。無駄に時間を過ごすことになるというのは、彼女にとっても望まぬことと思えたので。しかし彼女の返答は、

「問題は無いです。やることもありませんので、ここで暫く待たさせていただきます」

 ……存在を無視して思考を巡らせても良いだろうか。さくらにとって過ぎ去る一分一秒は、今は何にも増して慎重に扱いたいものなのだ。
 二度目のノックが鳴り響いたのはこの時だった。いや、或いは、ベレンガリアの二度目のノックを数に入れて良いのなら、これは三度目になるかもしれない。「誰?」今度は真っ先に口に出して誰何した。ドア越しのくぐもった男の声がそれに応えた。

「トマスです、姫さん。開けても問題ありやせんか……?」

 一瞬ちらりとベレンガリアに視線を送ったが、結局彼女に問うことは一切せずに「どうぞ」と答えた。部屋の借り主に尋ねられたところで、戸惑うだけだと思われたので。

「失礼しやす……うおっ……!?」

 いい反応だと完全に人事でさくらは思った。片手でノブを掴んだ状態のまま視線だけを真っ直ぐベレンガリアのほうを指し、完全に及び腰で頬を微妙に引きつらせている。

「……えーっと、先客がいやしたか……?」
「私の客じゃあないから大丈夫。それより何? 場所が悪ければ出てもいいけど」
「いえ、ここで大丈夫です……お嬢さんさえよければ」

 というのを明らかにベレンガリアに向けて言ったが、当のベレンガリアはと言うと「……? 部屋の主ではない私が許可不許可を決めるのは、お門違いというものでは無いですか」。
「……まあ、そりゃあそうでしょうが……」人より大きめの鼻を指の先で掻きながら、トマスも不承不承是認した。自分の言いたいことがイマイチ伝わっていないような気がする……という顔で一度首を捻ったが、結局トマスは何事も無かったかのように話を続けた。

「明日の予定について、一応確認しておきたいと思って訪ねさせてもらったんですが」

 とトマスは言った。

「帰りはみんな疲れ切って、それどころじゃあありやせんでしたからね。オレは連絡役です。姫さんからの要望を、オレが首領に伝えます」
「…………」

 組んだ足の上に頬杖をついて、さくらは一先ず無言を返した。
 返す言葉が無かった、と言ってもいい。希望、と言っても……。
 妙案は思い浮かばない。今日と同じ路線で行くしかない。けれど実際にそれをそのまま口にするのは憚られた。本当に今日と同じで大丈夫なのか? もっと他に出来ることはあり得ないか? 時間が無い、時間が無いのだ…………。
 押し黙ってしまったさくらの返事を、しかしトマスは急かすことなく待ち続けてくれた。或いはそれは祈りであったのかもしれないが。さくらも逆の立場であれば、きっと祈っていると思うので。

「……今日は特に収穫は得られなかったのね」

 ぽつっとした声でベレンガリアが口にして、それがさくらの視線を手繰り寄せた。心細げな音を発していたくせに、寂しそうな顔はしていなかった。むしろ跳ねっ返りの強い性格を伺わせるような顔をしている。これくらいで負けてたまるか、という……。…………。

「これを聞くためにカタリナを待っていたのね」

 と口に出して尋ねると、ベレンガリアは繕うこともなくただただシンプルに頷いた。

「どうやらあの人は、私に敵意を持っていないようでしたので」

 ……敵意と好意とをその年で瞬時に判別しなければならないほどの、どんな人生を強いられてきたんだろうとはふと思ったが、口にするのはやめにした。続いて彼女は、魔術は使えないのか、第一級魔力保持者でも駄目なのかという質問をさくらとトマスに浴びせかけ、マクシミリアヌスが試したようだが通らなかったらしいという答えを聞いて二の句に窮したらしかった。第一級魔力保持者というのは、どうやら彼女にとってのヒーローだ。
 トマスが微妙に辟易したように肩を竦め、吐息した。

「何とかしてやりたいんですがね……門のところに押し潰された連中も。中佐の魔術が使えないんじゃあ火葬だって出来やしない。せめて神の元に送り返してやれりゃあと思ってはいたんですが……」
「押し潰された?」

 トマスが零したある一つの言葉をベレンガリアは耳聡く拾い上げてから、一瞬高く声のトーンを張り上げた。トマスが、多分反射的に片手で自分の口を覆って、すぐにしまったみたいな顔をした。さくらやカタリナになら大丈夫でも、そういったグロテスクな情報を貴族のお嬢さんに聞かせるべきではなかった――というのを本当に考えているかどうかは知らないが。

「人死にが出たのですね……」

 険しい顔で彼女が言った。恐れているようにもさくらには見えたし、心痛しているようにも受け取れた。
「……あんたに話すつもりはなかったんですが」口元を手で覆ったままトマスが言った。「もう聞いてしまいました」というのがベレンガリアの返答だった。

「もし貴族の人間がいたとしたら……」

 と彼女が言う。

「そこに爵位の高い人間たいたとしたら、恐らく彼らももう、黙ってやられたままではいないでしょう……」

 ……。
 ………………。
 ――心臓が静かに鳴っていた。そうに違いないという思いがあった。あの時覚えた違和感の正体を掴んだ気がした。あの時っていうのはつまり、最初にあの場に立ち竦んだ時からだ。
 ――喉が、
 カラカラに乾いている――……。

「トマス……」

 というのは無理矢理出した。
 声が震えたという自覚はあった。

「今から出る」
「……どこにです?」
「チッタペピータ」

 短く告げたら予想出来ていたに違いないくせにトマスは一時絶句した。声として聞きたくなかったとでもいったような様相だった。

「馬鹿言わねぇでくだせぇ……」

 その声は何だか悲惨であった。譲らないことを知っているが故に悲惨であった。トマスが生唾を呑んだ音。

「首領にどう伝えりゃあいいのか……」
「私が告げる」

 揺らがない声音で言い切った。トマスはやっぱり絶句したように言葉を切っただけだった。

■ □ ■


「――斯くして謎は謎のまま、事態はひとたび終わりを告げる。あるいは僕が有名なジャッリスタ(ミステリ作家)であったなら、ここで差し挟むべきは口上ではなく挑戦状となるべきだ。けれど僕がジャッリスタではあり得ないのと同様に、君も一読者ではあり得ない。挑戦状は成り立たない。だからここで、読者ではない君個人という存在に、別の挑戦を投げかけよう。

 もうすぐ時間になるわけだけど、それでもマナカ、君はこのまま、囚われの姫を続ける気かい?」

 ……。
 ……、――。
 譏笑。

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