「うわっ」

 という声が自分から漏れたことに遅れて気付いた。一、二歩後退しただけじゃ全然足りない! もっと下がったほうがいいんだったら事前にそう言えよと口の中だけで舌打ちしながら、顔を庇ってもう二、三歩後ろに引いた。爆発したように膨れ上がった炎と熱風――嫌なことを思い出した。舌打ちしながら慌てて思考を打ち切った。

「マクシミリアヌス!!」

 とカタリナは呼ぶ。

「正気の沙汰じゃない、全く……何だい、あんたはチッタペピータの街壁で、よもやバーベキューでもおっ始めるつもりじゃなかろうね!?」

 目と喉と耳と皮膚とを大いに圧迫していた炎による圧力がたった一瞬の間に掻き消えた。……危うくカタリナはそこに尻もちをつきかけた。怪訝に、というよりは呆気に取られた態でもって、顔を庇っていた腕を躊躇いながら押し下ろす。

「そんなわけがよもやあるわけなかろうが」

 というのが、非常に強い嫌悪感を表した渋面でもって告げられた。こんな状態で遊び呆けていられる神経を持ち合わせているなど思われるだけでも心外だとでも言わんばかりの様相で、それは生真面目な彼の性格からも大いにあり得そうな心模様ではあるのだが……。
 カタリナにしてみればその顔は、そっちがそうやって嫌悪を露わにすると言うのならこっちにだって言いたいことが山ほどあるぞという反発心を思い起こさせるだけの起爆剤にしかなり得なかった。だから別に仲良くなってないって言ってる、というのを念として、今頃南を歩いているに違いない彼女のもとへ力任せに押し付けた。

「全く、とんだ貧乏くじだよ……」

 ぶつくさ言う。
 マクシミリアヌスは全く聞いた素振りもなかった。ムカついた。大男は壁に向かって呟くように、

「……君の言ったものに対する解答だ」
「はあ?」

 マクシミリアヌスが壁を叩いてこっちを向いて、
 ……漸くその意味するところに気がついた。バーベキューどころの話じゃない。壁には一切焦げ目も何も、そこを炎が踊ったという証左において、何らの痕跡を認めることがまるでかなっていなかったのだ。

「……どういうことだい」

 炎が壁を、直接的に灼いていなかったのじゃないかと一瞬思った。カタリナを担ごうとしているだとか。けれど先ほど、カタリナ自身が思ったはずだ。“こんな状態で遊び呆けていられる神経を持ち合わせているなど”、“それは生真面目な彼の性格から”…………。
 あり得ない。
 カタリナを担ぐという目的のためだけに、この大男が今この時間を無駄に費やすはずが無い。

「どうもこうも、見たままだ……」

 苦渋に満ちた声色でもって男は言った――。

「半ば予想はしていたが、残念ながら外れてはくれなかったな。第一級魔術師の魔力でさえも破壊、いや、焦げ跡さえも残せなかった……何らかの方式でもって、どうやら魔力は断絶される。一体どういう術策を用いているのか……」

 またぶつぶつ言い出した。
 言い出したと同時に歩き始めた。カタリナよりも一回りも二回りも大きな右手を壁に当て、外壁を親の敵みたいに睨み上げ。
 ……魔術を飲み込む、あるいは無効にする魔術。
 あり得ない、というわけではない――理論的にはそれは可能なはずではあったし、実際に運用されている例を知らないわけではないのである。しかしそれは、あらかじめ想定された属性と量と質とがあって初めて運用されるべきもので、どれほどの量をどれほどの質でもって投入されるか想定できようはずのないこの場合には、適用されるはずのないものだ。……あるいは、強行にすぎるやり方として、第一級魔力保持者の力があれば第二級の魔力程度なら封じ込めることは容易である可能性はある。その望みも、しかし生まれる以前に泡となって消えてしまったわけだけど……。第二級の魔力を抑えることは可能であろうが第一級の魔力は抑えられない。誰にも。神ソウイルでもない限り。

「魔術で壁を破壊するのも無理、てっぺんまで登り切るのも不可能、出入り口の門は瓦礫をどかせそうにもない……」

 一つ一つ羅列しながら指を折った。マクシミリアヌスのぶつぶつ言うのの真似をして、大男についてその半歩後ろを歩きながら。考え出しても情報を一々整理してみても、帰結する答えは結局のところ昨日と全く変わらない。

「魔術式そのものを破壊する、結局そこに落ち着くんだよねぇ……」
「…………」

 マクシミリアヌスから答えは無かった。ぶつぶつ呟いていたのがその時掻き消えていたわけだから、聞いてはいたんだろうと思う。

「南にいるヤコブスやサクラは今どれぐらい進んだところだろうかね。仕掛けの一端でも見つけてくれりゃあ万々歳なわけだけど」
「……それはこちらも同じこと」

 というのをぼそりと言われた。唇を尖らせてちぇっと小さく舌を打つ。それはその通りではあるんだが、多分そういうのに気付くとしたらヤコブスやサクラなんかの類いであって、マクシミリアヌスやカタリナは何の役にも立たないのではと思った故だ。愚直に突っ込むしか脳の無い奴は愚直に突っ込むしかないのだとカタリナのほうは心得ている。
 ……そういえばこいつは、つい十八年前に終結した例の戦争の功労者であるのだったか……。隣国に赴き最前線で戦ったことがほとんどだったが、自国にて、他国からの侵略を防いだ経験もありと言われている。猛炎の魔術で幾つもの人を、街を、村を焼き殺した…………。
 中佐、ということは、指揮をしたこともあるんだろう。なるほど、それじゃあカタリナほど頭脳方面が無能であるということではないかもしれない。有能でない上官は戦場で後ろから撃ち殺される、それも戦争というものだ。

「中佐殿は見つけたのかい、これまでに。何らかの仕掛けの一端というやつをさ」
「…………」

 沈黙。
 聞いたのは自分だが、だろうねえと思った。何せ抽象的すぎるんだよ。仕掛けってつまり何さ。魔術式の一端だって、壁からは一ミッリーメトロ(ミリメートル)もはみ出してやいないんだ。
 溜息を吐いた。

「せめて何か、手がかり的なものは無いもんかね……。闇雲に探したところで消耗するだけで、何の成果も得られやしない」
「その手がかりを得る目的もあるのだ、これには」

 というのはむっつりした響きを持って告げられた。以外に真面目な奴のこと、うだうだ文句を言い立て始めたカタリナに我慢ならなくなってきたという態であろう。実にざまあみろと言いたい。

「……」

 上方、少し後方を仰ぎ見てから、次の一瞬で視軸を外した。西門からこうして北へ向かっているということは、つまりまず真っ先に視界に映るのはウィトゥス・ガッダ卿の屋敷、尖塔であるわけで――。
 それは街壁よりもずっと高い。
 これを見て、サクラや、あるいはマクシミリアヌスが何をどう思ったか、カタリナは知る由もない。高い尖塔――。マナカがどこに幽閉されているか、あの尖塔か、それとも卿のそれ以外の屋敷であるか、そこのところは依然定かではないけれど、街壁を超えて聳えるあの尖塔に例え入れられていたとして、あそこから飛び降りるのは大変無理があると推定する。壁と密接に触れ合っていたならばあるいは途中街壁を伝って何とか外に飛び出ることは可能であったかもしれないが、見たところ割りと距離がある。幾らマナカであろうと、怪物であろうと、あの場を何とかするのは絶対的に不可能だ。
 沌(くら)く、不景気な色味の壁の煉瓦と、それに赤味を加えたような円錐型の無道の屋根。見ているだけで不穏当な心地にさせる不気味な塔――。卿が一体どのような理由であれを屋敷に付け加えたか、カタリナには想像すらも出来かねる。そこだけじめじめした湿気が漂っているかのような……。…………。

「北の門が見えてきた」

 ……というマクシミリアヌスの肉声に、不本意ながら我に返った。見ると確かにそのとおり、西や東で見たのと同じような扉両端の柱の一部が、ようやっと視認できる位置にある。チッタペピータ北門……。こちらを見たのは、カタリナもこれが初めてのことになる。
 徐々に露わになりゆくそれを、カタリナも興味を覚えて観測した。街壁と同じ色合いの柱。本来なら扉上部にあったはずの煉瓦が崩折れて、中央ががくんと下がったような放物線を描写している。西で見たのと同じように、門口のところが瓦礫で隙無く埋まっていた。これを掘り起こすのは至難の業だ。
 マクシミリアヌスが地面のところに屈み込み、地表に滴った霊液を人差し指のところでなぞった。乾いていたのか指に付着はしなかった。

「……血だ」
「…………」

 西のところにもあった、ということをカタリナは口にはしなかった。チッタペピータは大きな街だ。行商人を始め通行人は、それぞれの門に一定数はいただろう。ましてやあの時は夜ではなくて昼だった。
 門が近いと血のにおいがあまりに濃い。風に流れない鉄のにおいがずっと鼻腔をくすぐって、こんなところに長時間留まっていては鼻の奥底にこびりつきそうなほどである。ここに長居したいとは、カタリナはあまり思わなかった。

「で、何かほかに調べたいことがあるのかい? どっちにしろ、早くしてくれるとありがたいんだけどね……」
「何か急ぐ理由があるのか?」
「理由っていうか……、…………」

 ……こいつに本音をぶちまけたところで理解出来るはずが無いのか、ということに気がついた。
 戦争経験者――教会治安部所属――……血のにおいなど、鼻が曲がるほど嗅いだだろう。嗅覚が麻痺していたとして、何らおかしなところは無い。

「…………」

 何でもない、というのも、自分で言うのは癪だった。
 カタリナが喋らないでいるのを一体どうして解釈したのか、マクシミリアヌスは今度は積もった瓦礫に視軸を投じて当たり前のようにこう言った。

「どの箇所も疎かにするわけにはいかん。むしろ念入りに調べ上げねば……。それこそが何よりの時間短縮の術だろう」

 サクラがカタリナをマクシミリアヌスのほうにやったのは、実際時間を短縮させるためである。その通り。異論は無い。間違えは無い。間違いは無いからこそとんでもなく癪に障る…………、やめよう。これ以上は子どもの喧嘩だ。

「登ってみようと試みるのかい」

 手のひらでひさしを形作りながらカタリナは尋ねた。門のところは確かに落ちた瓦礫の影響でほかより高さは無いけれど、だからといって足場も無しで登れるようなものでもない。この壁、恐らく造ったときから足場となり得るものを一切合切排斥している。何のために? こうして封鎖したときに、外から入って来られる者がなくなるように。

「いや……試さずとも分かる。それは無理だな」
「どうして」

 というのに、念入りに調べなくていいのかよという言葉を練り込めた。自分で言っておきながらそこを怠惰しようとするなど言語道断。こちらに恥をかかせたのだからいっそ徹底的にやるべきだ、というのは、流石に口にはしないのだけど。
 マクシミリアヌスは答える代わりに指さした。門口に積まれた瓦礫のほうをだ。指の動きからして、それは瓦礫と瓦礫の輪郭線をなぞっているのだと察せられる。

「西の積まれ方と同一だ」
「……」

 一瞬何を言っているのか理解が遅れた。
「……同一?」頭のヴィーテ(ネジ)は大丈夫かという意味で呟いた。しかしマクシミリアヌスはどうやらすこぶる真面目な顔で、

「ああ」一度唾を飲み、「覚えたのは一区画だけではあるが、それでも限定したどこかの一部分だけというわけでは無い。そちらに記憶力のいいのがいるだろう。後で確認を行っても構わんが、瓦礫と瓦礫の描く模様が同一だ」
「……覚えたって?」

 冗談だろうと考えた。
 何を聞いていたんだという顔で返された。

「そう言ったが」
「……」

 敢えて返事はしないでおいた……。
 瓦礫の描く模様を覚える? よくそんなことを思いつく。頭を使って動く人間は、やっぱり思考に割く脳の容量が規格外に過ぎるしブッ飛び過ぎる。だから愚直に突っ込むしか脳の無い奴は以下略。
 マクシミリアヌスが吐息した。

「何とか覚えきったままここまで来られて助かった。俺は天性の才は持っておらんのだ。南と東とはそっちの肌の黒い男に任す。東までは保つか分からん」

 ……あからさまに気力を消費した声音で言った。
 肌の黒い男って、グイドのことか。一応カタリナだって同じ色の肌をしているのだけど。あと黒ってよりは褐色だこれは。
 ……何となく、意外だった。

「あたしらに普通に頼るんだね」

 ……嫌味のつもりで言ったわけではなかったが、もしかしたら嫌味に聞こえたかもしれないと一瞬間だけはらはらした。そのすぐ後に、いや、何でこいつの心情を心配しなきゃあならないんだと思い直した。

「意外か」

 とマクシミリアヌスは口にした。不機嫌な口調ではとりあえず無かった。意外だよ、というのを今度は実際口にした。

「意地になって自分で完結させると思ったし、実際一昨日に会ったときは」……一昨日? あれはそんなに最近の話だったか。もう随分一緒にいると思っていたが。「……自分で完結させてもおかしくない対応だった」

 ……マクシミリアヌスは、とても渋い顔をした。

「……マナカの安否がかかっているというのにつまらん意地など張れるか」

 というのをぽつりと言った。あまり聞き取ってほしくなかったのか早口だった。そんなもんか……。割りと過保護なんだな。マナカにカバネ(……思い出すだにおぞましい)の囮をさせていたあたり、ある程度同等の立場なのだと思っていたが。

「……昼食が遅れたな」

 とマクシミリアヌスが口にした。確かに……。道中食べると言っておきながらマクシミリアヌスはここまで何も口にはしなかったし、何となくカタリナも食事をとるタイミングを失してしまった。記憶を保持したままの状態で出来るだけ早くここに着きたかったのだろうと今なら分かる。

「今度こそ食いながら歩く。歩きながら食べられないなら、君はここで食べればよかろう」
「生憎、それほど育ちはよくないんでね……」

 片方だけで肩を竦めた。


マクシミリアヌス・カッラに関する幾つかの動向

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