「……君に、是非とも頼んでおきたいことがある……」

 ――扉越しに、長老の低い声がした。
 バッテレ(ノック)のために上げていた手を反射的にとめていた。

「…………」

 恐らくベレンガリアが何事かを口にしたと思われたが、声が遠すぎて聞き取れない。おざなりに返事をしていたのかもしれなかった。また老人の声がする――。最初のほうは聞き取れない。

「………………、だからして、是非とも…………。知られてはあまりに都合が悪い……」

 ――扉に耳を押し付けた。起き抜けよりも大分しっかりとした顔をしてきたサクラが、ターヴォラ(テーブル)で朝餉に口をつけながら怪訝そうな顔をした。あいているほうの手を掲げて何事か言おうとするのを黙らせる。
 次の言葉はもっとだいぶん明確だった。ベレンガリアの声。冷たい声音で。

「……それは、お願いでしょうか。あるいはそれとも命令でしょうか」

 正確すぎるあまりに教科書じみて拙く聞こえた、例の異界語ではそれは無かった。長老もネロも、その場にいるアルブス側がスカッリア語を好んで使っていたからだ……。と、カタリナは思った。食事後一旦部屋に帰っていたらしいヤコブスが、カタリナの脇を通りながら一瞬間だけ片方の眉を跳ね上げた。そのまま素通りしたけれど。再び長老。

「“お願い”で終わってくれればと、私は願うばかりでしょうな」

 ――ベレンガリアが何かを言ったがそれは多分長老たちにも聞こえない、本当に小さな囁きだったことだろう。鋭い声音から察するに恐らく罵声。

「――承知しました」

 とベレンガリアが口にした。

「この場所に関して、私は他言は致しません。ディ・ナンニの名に誓いますわ。貴族は自らの名を裏切ることは決してしません」

 ――長老の声音から感じていた緊張の色が和らいだ、と、カタリナは察した。ぺらりとした感謝の言葉。ネロもそれに続いて謝礼を述べた。交渉が成立して、話は終わった。……ほんの少し間をあけてから、カタリナも再び左手を振り上げる。バッテレ(ノック)を三回。答えが返ってくると同時に扉を開けた。

「お待ちどう様! 朝食持ってきたよ、ベレンガリア。まだ居間にはあるからさ、もしも足りないようならまた言ってくれればあたしが持ってくるよ。ああ、ジャムとオリーブオイルどっちがいい?」

 ……後ろのほう、パーネ(パン)を齧りながらじっとりした目でこっちを見ているサクラの視線を、首の裏側でずっと感じ取っていた。


“女は女である”



「何だ?」

 というのをまず聞いてきたのはヤコブスだった。何だ、というのが一瞬何か分からなくて過去の出来事からそれらしいことを暫く物色する羽目に陥った。
 一旦アルブスの村を後にして、沼地にかかった秘密の通路を通り抜けたところであった。今回は案内役のネロはついていない。グイドの記憶力で十分であるとヤコブスのほうが断った。ここから暫く登っていけば、見覚えのある泉水のにおいを嗅げるはず。一旦そこでまた休憩ということになるんだろう。サクラは弱音は吐かないけれど、慣れない山路の疲れは尋常じゃあない。

「……ああ、もしかして、今朝のことかい」

 ヤコブスは何も言わなかった。無言は肯定。ヤコブスと付き合い始めてから真っ先に学んだ彼の習性の一つである。

「ちょっとね……ベレンガリアとアルブスとの会話を、盗み聞きさせてもらっていたのさ」
「それは知っている」

 とすげなく切り捨てたのはサクラであった。

「その内容。何を聞いたの? 彼らは何を話していた?」

 ……ヤコブスと比べると、サクラはひどくディリット(ストレート)的で聞き取りに際する無駄が無い。ヤコブスが何を知りたいのか、考えながら話さなければならないいつもと違って、聞かれたことだけにテンポよく答えてしまいそうになる。それはカタリナの扱い慣れた被尋問方法とは少し違ってやりづらかった――。

「……多分、恐らくだけど」

 アンダトゥーラ(ペース)を取り戻すためにカタリナはそこで一息置いた。

「この村のことを、口外するなっていう話し合いだ」
「話し合いだと?」

 ……まさか“話し合い”であるわけがないとでも言わんばかりの口振りだった。まあヤコブスの言うとおり、もう一息で“話し合い”の域を越えていたであろうことは疑いようのない事実だが……。カタリナはこっそり頷いた。

「事実それで収まった。ベレンガリアはアルブス側の要求を呑み、街に戻る権利を有した」
「イマイチ話が見えて来んのだが」

 話を差し挟んできたのはマクシミリアヌス・カッラ中佐である――そういえばあの時、マクシミリアヌスはとっとと自分の部屋に戻って出かける準備に入っていたためあの空間にはいなかった。カタリナの後ろでマクシミリアヌスが微妙に眉を跳ね上げる。

「街に戻る権利、というのは、些か物騒に過ぎるな」

 事実そのとおりだ、というのはヤコブスの言葉だが、マクシミリアヌスには聞こえないぎりぎりの声量だったためにそよ風の揺らす葉擦れの音に紛れて消えた。

「仕方ないさ。そういう話だったんだからね」

 というのを自分でもあっさり口にしたものだと考えた。マクシミリアヌスの抱く、でももしかしも受け付けない。それは形を変えようのない真実であるのだから当然だ。カタリナは事実だけしか述べていない。
 ネロによって信頼されてここまで連れて来られたカタリナらは良いとして(実際今でもネロが自分を信頼してくれているかどうかは別として)、何も知らないまま連れて来られたベレンガリアは、彼らにとっては危険性を孕みまくった存在なのだろうと思う。当然だ。ネロに対してチッタペピータの人間が一体何をしようとしたか、思い起こしていただきたい。それから自分が発案したような提案を。アルブスというのは長命種でありまた希少種で、銀の毛髪と朝靄のような銀の尾っぽは美しく、瞳はまるで何かの宝玉を眼窩にはめ込まれているかのよう。そう。アルブスという種族は人間にとって、あまりに高値で取引される“商品”だった。少なくとも彼らアルブスはそう考えているに違いない。長年生きているから知っている。信頼できる人間がいるのと同じように、いや、それ以上に、危険性しか孕まないヒトがいるということを。
 ベレンガリアを警戒するのは至極真っ当な見識で、彼らの当然の権利であった。それが半ば脅しになってしまうのも、後者のヒト族になり得るという自覚を持ったカタリナが多分一番よく分かる。
 ……マクシミリアヌスが一度、何か言いたそうな無言を発して、結局最後に吐息した。

「……ディ・ナンニ嬢は要求を呑んだのだな?」

 言葉に頼る前にまず真っ先に頷いた。……後方にいるマクシミリアヌスには当然見えただろうけれど、改めてカタリナは声帯を震わすことにする。

「そうだよ。自分の名に誓ってそう言った。多分誰にも漏らさないだろうよ。あの子、頭がいいね。さすが貴族の出だとっ」――地表に突き出た根っこを乗り越えるために力が入った――「感心した」

 尤もそれは、ベレンガリアが意識を取り戻して早々のベッド際でのやり取りでも思っていたことだったのだけど。貴族の子って、大体皆あの年であんな交渉術を身につけているもんなんかねぇ……。或いはベレンガリアが特別なのか? そういった重圧に晒されて育った知見がないので分からない。

「ひとまず連れて帰れるか……」

 とマクシミリアヌスが口にした。
 戻ったときにご家族に挨拶にでも行ってしまいそうな声色だ。異世界人を彼らの眼に晒さぬよう、早々に撤退するんだぞということを、いつかの時点で言い含める必要があるかもしれない。

水場に辿り着いたときにはまだ正午を回ってはいなかった。
 針は垂直を指している。ここから休み休みで歩いたとしても、余裕で昼前には目的地に着く算段だ。調査時間はあればあるだけいいというのが、ここにいる全員の見解だった。まずはここで予め水を補給する。一々魔術で生み出していてもよいのだが、歩きながら飲むのであれば手元にあったほうが軽便だ。補給を済ませてしまってから椀にした両手で一度喉を潤した。冷たい水。少し硬い。

「魔術式……壁自体に結界……発動前は通行可能の……」

 少し離れたところでさっきからぶつぶつ言っては首を捻るマクシミリアヌスを横目で捉えて、カタリナは一つ顔を顰めて肩を竦めた。

「あれ、何とかならないもんかね……」

 というのは丁度吸筒を持って補給に来たサクラに投げたことだけど。
 サクラはちらっとマクシミリアヌスのほうを一瞥してから、「さあね」と言って吸筒の口を湖の水面に浸し出す。「五百年をも越える魔術式?……」あぐらをかいた足で苛立たしげに貧乏揺すりをやりながら、結局堂々巡りとなる言の葉を彼は飽きずに繰り返し続けた。それは休憩している今もそうであったし、道中無音になったときにもそう。
「…………」こんがらがってきたのか途中で呟きを中断させては大男はたてがみみたいな毛髪を乱暴に引っ掻き回した。「魔術式……壁自体に……」また始まった。

「意外ね」

 吸筒に蓋をしながらサクラが言った。

「それほど煩わしさを感じるのなら遠く離れると思ってた。湖は狭くないのだし」
「……いやさ」

 そりゃ確かにそうなんだけど……。視線を明後日の方向に思わず逃がした。現にヤコブスは物凄く鬱陶しそうな顔をしながら呟きの聞こえようがない離れた地点に腰を据え、トマスやグイド、フゴらなんかも(気にしているかどうかは別として)ヤコブスの側に陣取った。まあこれは教会側とガプサ側、いつものことと言えばいつものことなわけだけど……。
「……」サクラが少しにやっと笑ったのにむっとした。別に気分を害したとかじゃあ決してなくて、ただ弱いところを的確に言い当てられたから。

「本当に意外だわ」

 とサクラが言う。

「アンタたちいつ仲良くなったの」
 ……一瞬反応が遅れたという自覚があった。「別に仲良くなってない」
「なってるわよ。少なくとも端から見てる限りでは……」

 というのに特にからかいの感情もなさそうだったのが癪に障ったというか腑に落ちない。こんな年下の子に見透かされる言われはない……のだが、口にすることは叶わなかった。冷たい湖面に指先を触れさせながらサクラが言った。

「仲がいいのか悪いのか、最初ははっきりしなかったけど……今回の件で確信した。だから言ってるの。アンタたちいつ仲良くなったの」

 さっきのそれと一字一句も違わぬ質問口調に怖気が走った。――仲良くなってない、とは、この時ばかりは告げられなかった。
 ……マナカがサクラを、時々必要以上に怖がっているように見えるその理由をカタリナも今理解した。ディリット(ストレート)な質問。無駄がなく、うっかり質問されたそのままのテンポで答えてしまいそうになるところ。人の心を見透かしたような断定口調と、それから……
 ああ、思い出した。
 チッタペピータに辿り着くまでの出来事――。トマスがガッダ卿の噂について口にするその前の、サクラのマナカに対してのブルッフ(ブラフ)発言。

「……あんたさ、相当コワいってよく言われるだろ」

 きょとんとした顔を向けられた。何だかそれではぐらかされたような気がするが、Quieta non movere(クゥィエータ・ノーン・モウェーレ)。藪をつついて蛇を出すことはやめておこう……。
 ふうん……という気にかかる呻き声がサクラのほうから上がったが、カタリナは敢えて何も口にはしなかった。

「まあいいわ。どの時点で転機があったのかぐらいなら、聞かなくても大体分かるものだしね」
「……」

 仲良くない、という突っ込みは、まあもうそれならそれでいいとして……、

「サクラさ、それを暴いて、一体どうしようって言うんだい? あたしの交友関係もあの大男の交友関係も、知ったって何の足しにもなりやしないよ」
「そうでもないわ」

 ……あまりにあっさり否定されたことに続く言葉を失った。あんまり野次馬的な言動はどうだかねえと続けるつもりだったのに。

「……あたしとマクシミリアヌスの交友関係に一体何の利用価値があるって?」

 跳ねるように小さな笑声を立ててから、彼女は立ち上がりざま自分の吸筒を持ち上げた。ぶつぶつぶつと呟き続ける、教会の説教者みたいなマクシミリアヌスの低声を後ろに置いて。

「いずれ分かるわ。いずれね……」

 底の知れない嫌らしい微笑を湛えながらサクラが言った。
 彼女のその言葉が意味するところを、そう遠くない未来に嫌でも思い知らされる羽目になる。

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