アルブスお手製パーネ(パン)に木苺のマルメッラータ(ジャム)を塗りたくっているところへ、茫然とした態のサクラが戸口の向こうから現れていたことに気がついた。ベレンガリアお嬢さんが眠っている部屋の、すぐ脇を通る廊下のほう。カタリナたちは、全員この廊下と繋がっている向こうの部屋どもを借り受けることと相成った。一夜限りの宿となるかそれともそれ以上になるのかは、残念ながらこれからのカタリナたちの働きによって変化する。
 一応身なりを整えてはいるようなのだが、全く疲れが取れていないのは一目で分かってカタリナはありゃまあと心中で呟きながらパーネ(パン)を一欠頬張った。サクラが椅子を引いて隣に座った。昨日の夜から、この円卓におけるカタリナの左隣はサクラの席になっている。

「ひどい顔してる。大丈夫?」

 というのを小声でわざわざ聞いたのは、今居間にいるのが全員男であったから。長老とネロとマクシミリアヌスはどこぞへ消えて見当たらないが、それ以外のガプサの面々は全員円卓に出揃っている。

「……一時間しか寝られなかった」

 顔の片側を右手で押さえながらサクラが言った。だろうと思った。昨日、遅くまでレット(ベッド)で寝返りを打つ音がした。
 出会ってから今まで、彼女と寝室を共にした数はそれほど多いわけではない。それでもその数回だけで十分すぎるほど理解した。彼女はとても整った生活習慣を身に着けている人だって。だから今日、カタリナが起きる段になっても起き出してこない彼女を見て、これはただ事じゃないぞと理解した。
 二口目のパーネ(パン)を頬張りながら、何でもない口調で次の言葉を口にした。

「今日、チッタペピータまで歩くと思うけどあの距離大丈夫? 歩けるかい?」
「……行ける」

 ……解答に少し時間がかかったが、彼女の答えは明瞭だった。だと思った、とカタリナは口にしないで思考する。それでもサクラが行かないなんてこと、絶対にあり得ないだろうなと思慮をした。

「いいけど、今日はちゃんと寝なよー? ご飯もちゃんと食べる……あ、このジャム美味しいよ。お手製。アルブスの」

 マルメッラータ(ジャム)の瓶を渡してやったら、むうという呻きとも返答とも取れないような返しをされた。寝惚けているのかもしれない。それはそれで新鮮でいいけどねえとカタリナなどは思うのだが。
 アルブスの朝食はとても簡素で簡潔だった。ターヴォラ(テーブル)の中央には焼き立ての丸いパーネ(パン)が大量に。それぞれの席にはお皿と一削り分くらいのブッロ(バター)と小さな瓶に収まったヨーグルトとが配されていて、カタリナが起き出したときには、長老とマクシミリアヌスとがそれぞれの位置でゆったりもそもそとそれぞれの朝食をむさぼっていた。ネロはその時も見当たらなかったが、使用済になった皿が置かれていたのは確認している。
 アルブスが皆そうなのか、或いは今日この現場だけが特別なのか、本当のところはアルブスでないカタリナには分からない。
 取り出したパンを割ってとりあえずジャムを塗りたくり出したサクラのその手を遮るように、木々がぶつかるような派手な物音が鼓膜を打った。
隣の部屋の、ベレンガリアが眠っている部屋のほうからだ。
 それからどんどんどんという足音がかしましく部屋中に響き渡り、閉じられていた扉が、開いた。

「ディ・ナンニ嬢が目を覚ました!!」

 ――瞬間、カタリナはさくらと目を見合わせて、二人同時に、マクシミリアヌスの立ちはだかる扉向かって猪突を果たした。


チッタペピータのプロドット



「ベレンガリア! ああ、良かった、怪我はないかい? どこか痛いところは? 毒なんかの後遺症が残ったりしなければいいんだけれど!」

 ――ということをレット(ベッド)脇から身を乗り出さん勢いで畳み掛けると、当たり前だがベレンガリアは心底驚いた顔をして、冴えるようなブル・コバルト(コバルトブルー)の双眼をぱちぱちと何度も瞬かせた。会ったことは確かにあるがカタリナだってこれほど親密であった覚えはない。事態を急ぎすぎたかも。

「ここはアルブスの村だ」

 ということをマクシミリアヌスが短く説いた。「アルブスですって……?」おっかなびっくりという態でベレンガリア。マクシミリアヌスのことはやっぱりというか当然というか、ちゃんと覚えているらしい。そういう人間が一人いればきっと彼女も心強いことだろう。そう考えるとほんの少しだけほっとした。
 結果的に言えば、マクシミリアヌスの呼びかけに走ってきたのはカタリナとサクラだけだった。ベレンガリアの置かれたレット(ベッド)のほかには本棚と、あとは少しの棚と、その上に置かれた小物くらいしか家具がない。これまで案内されたどの部屋よりも手狭でこぢんまりとしていたが、そのどこよりも人が暮らしている息吹を感じる。きっとここが長老の本来の部屋なのだろうとカタリナは思った。
 ベッド脇の椅子に陣取ってカタリナ、その横にサクラが立って、マクシミリアヌスはその隣。老人とネロはカタリナらよりも後方で、まるでカタリナら三人の肢体に半分体を隠しているようだとふと思う。開け放たれたままの戸口の向こうを、一瞬フゴが中の内情を探るように過ぎ去った。ヤコブスに報告をする気だな……。
 どこからか持ってきた椅子に大きな体躯を詰め込みながら、マクシミリアヌスがとても慎重な感じで頷いた。

「君はどこまで覚えている? 街を出たことは覚えているか?」
「街……」

 青い瞳が伏せられて、太陽の黄金にも似た金の睫毛がその双眸にとても重そうにのしかかる。それがとても女の子らしかったので何だか心臓がどきりとした。いや、桃色様の意味ではなく。女の子らしい女の子というのを、カタリナはその人生上まともに見たことが無かったのだ。ははあ、これが深窓の令嬢というやつか……。

「……森……木の中を通ったのは少し……あととても臭いところ」

 沼地だ、とカタリナは思った。帰るとき通りたくないって駄々こねられたらどうしようかねえ……。
 今後のことを考えて遠い目をしているカタリナを、というか正確にはカタリナらを、ベレンガリアお嬢さんが何だかたっぷり不審を込めて見つめているのに気がついた。

「……何が目的ですの?」

 少し太目の金の眉宇をこれでもかというほど眉間の中央に近寄らせ、尋ねるよりも前にそれ。

「身代金目的、じゃないですね。あなた方それほど貧相ではなさそうですもの。ということは、口封じ……? 眷属を見られたが故の……? まさかそれほどまでして神に仕える方を選ばれるというんですの……!?」

 信じられない、と言うように顔を真っ青に染め上げて。……想像力豊かな子だなあ。
 呆れたようにサクラが言った。

「……女の魔術に巻き込まれたところをマクシミリアヌスとカタリナに助けられたの、覚えてない?」
「女……?」

 こっくりと一度慎重に慎重に首を傾げて、

「あ!!」

 広げた両手で口を押さえて、思い出したように一音上げた。

「そういえば何かいたのは覚えているような気がします。あんまり覚えてはいないのですけど」

 そこまでマクシミリアヌスしか目に入っていなかったんだな……。まるで恋する女の子みたいな有様だが、彼女が欲しいのは正確にはマクシミリアヌスなどではなくてマクシミリアヌスの持っている眷属だ。

「その女と交戦中のところを君は巻き込まれ、女の攻撃を受け毒を食らった」

 マクシミリアヌスが口にする。

「ここへは治療のために来た。街で治療を受けさせることは我々の都合上出来得ることでは到底なく、我々の都合で治療が遅れた。こちらの都合で君を危険な目に遭わせたこと、大変申し訳なく思っている」

 ……その点についてカタリナは何も口にはしなかった。マクシミリアヌスの言う、その通りだと思ったからだ。

「――。……」

 ベレンガリアは何か言いかけた様子を見せてから口を閉ざし、ただ黙って、両目を瞑り頭を下げる岩みたいなごつごつした顔の男を熟視していた。何かを考えているのは明らかだったが、それを暫く口にはしなかった。頭を下げるタイミングを完全に逸してしまった……と、カタリナは思った。少なくともこれはマクシミリアヌスだけの責任ではない。
 ベレンガリアが少し考えるようにそっぽを向いて、マクシミリアヌスの額に目を戻しながら口にした。

「ここはどこだと話しましたか?」
「……。アルブスの村だ」

 変わらぬ体勢でマクシミリアヌス。
 ベレンガリアはレット(ベッド)のテスティエーラ(ヘッドボード)にかけた枕に思い切って背中を預けながら、「そ」と言った。「そ」とだけ。

「それで、いつ私はお家に帰れるのですか。何日経ちましたか?」
「……、……。一日経った。君が毒を受けたのは昨日のことだ。今、事情があってチッタペピータの外壁を越えることが叶わないため、一同全力をかけてあの壁を越える手段を模索している」
「その間、私はここで待機をしていればいいのですか」
「…………、ここへいたほうが安全だとは考えるが、君がまだここを警戒しているのならチッタペピータの付近まで君を伴わせるよう掛け合おう」
「結構です。外へ出るのは疲れます。私はここに存します」
「…………」

 マクシミリアヌスがようやくのことで顔を上げた。

「君は怒ってもいい立場にあるんだぞ?」
「怒っても仕方のないことだと私は思います。貴族は自身の言動に責任を持つものだと聞かされて育ってきました。そのように思います。髪を整えられないのと、あの状況下で祖父と父母とが私を心配しているであろうことだけが気がかりです……」

 ベレンガリアが青い双眸がこっちを向いた。

「出来得る限り早期のチッタペピータ外壁越境を望みます。私が望むのはそれで全部です」

 ……。
 …………驚いた。
 これまでカタリナが見てきたベレンガリアは、マクシミリアヌスの眷属だけを欲しがるような自己中心的な性格で、何でも大金を詰めば解決すると思っているに違いない甘やかされたお嬢様の面だけだ。だから、もしも自分たちのせいで君を危険に巻き込みました、こんなところにまで連れてきましたと口にしようものならば、きっと、ではその代わりにマクシミリアヌスの眷属を置いて行ってちょうだいなと要求するに違いないと思っていた。彼女が目覚めるに当たってそれだけがカタリナの懸念であったし、恐らくマクシミリアヌスもそれを覚悟していたのではないかと思う。
 それが、よもやこんな、大人顔負けの対応をここで見せてくれるとは。……成る程、これが貴族というものか。枕を背もたれに未だ堂々と腰掛けているベレンガリア嬢を、改めてつくづくと注視した。
 ――後ろでネロと老人が、ちらと目線を交わし合っているのに気がついた。

「で?」

 と呆けているマクシミリアヌスとカタリナの中間で言葉を差し挟んだのはサクラであった。

「朝ごはんは? 食べれる?」

 対等に話しかけていくサクラのことをベレンガリアは若干怪訝そうに仰ぎ見て、
 つんとそっぽを向きながら当然の権利みたいな面(おもて)で腕組んだ。

「いただきましょう。私の口には、きっと合わないでしょうけど」

 ――余計な一言さえ差し控えれば真っ当な人間に見られるだろうに、とは、カタリナの心中だけの言葉であるが。

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