――目の前の光景に腕を伸ばすと、切りそろえられた人差し指の爪先が鏡の表面を短く弾いた。
 鏡面がどこかの光をほんの一瞬反射したかと思ったら、そこに映っていたのはもう、どこかの部屋の動静ではなく、ゴスロリチックなふりふりの衣装に身を包まされた真佳自身の様相だった。鏡面はどこかの真実を映すのではなく、こちらの真実を映すことを取り決めた。
 ……今、どういう状況になっているかは大体分かった。さくらやマクシミリアヌスが次にどうするつもりでいるのかも。
 ……舞い上がった埃の渦が白い光を反射して、キラキラと輝いていることに気がついた。
 扉が開いている。
 いつから開かれていたのだろう。
 ……しゃがみ込んだ真佳の後ろで、一人の男が屹立しながら同じように鏡面を覗き込んでいるはずなのに、その姿見に男の姿は影も形も見当たらない。
 座り込んだまま、真佳は微笑って、ただ自嘲気味の微笑を浮かべて、ガッダ卿を仰ぎ見た。

「バレたよ。吸血鬼」


ヴァンピーロ、ならば××



「――実際接触したかどうかは分かりません。でも確信しました。長老の話に出てきた、黒の毛茸に紫水晶の双眼――間違いありません、あいつです。俺が見たのは、あのとき見たのは、まず間違いなくあれはウィトゥス・ガッダ卿でした。懸けてもいい!」

 ――言い募るフゴの口跡がようやく頭に入ってきたのは、最初の衝撃的な一言から多分幾らかが経っていたであろうと思われるような頃合いだった。真佳と別れる直前にフゴがガッダ卿を目撃していた……? 反芻しただけで目眩がする。真佳が唐突に残るなどと言い出したのは、あいつに行くところが出来たからだ。あいつ自身がそう言った。本当にもう、全く! だから何だってあの馬鹿野郎は目を離すたんびに危険地帯に、それもど真ん中に腰を据えていやがるのか!!

「――…………」

 何か怒号が口から飛び出しかけた気がするが、出てきたのは結局疲労の色濃い重い溜息だけだった。そもそもここで何か吐き散らかしたところで真佳に届くわけもない。落ち着け、落ち着け、と、震える声音を胃の腑の底へと仕舞い込む。今は激昂している場合じゃない。

「……姫さん……?」

 溜息の意図が汲み取れないのかフゴが短くそう言った。信じてもらえていないようだと察すれば先ほどみたく言葉を重ねることは容易だが、溜息に対して続く言葉をフゴはきっと持ち合わせてはいなかったのだ。

「何でもない」

 とさくらは言う。

「今の話、マクシミリアヌスには内密にね。アイツが聞いたら一も二も無く強引なやり方でチッタペピータに入り込むと思うから」

 別にあの忌々しい壁がどうなろうと一旅人であるこちらには知ったこっちゃないのだけれど。
 もし万が一にもあの壁を突破できないと諦めるより他ない場合は、むしろこの件を切り札にしてマクシミリアヌスに強行突破を敢行してもらおうか。うん、名案。

「……姫さん、怒ってます?」
「怒ってない」

 ……と言いはしたが説得力に欠けていることに気がついたので、更に別のことを口にした。

「怒ってるとしてもそれは真佳に対してで、アンタにじゃないから。大丈夫」

 それまでより少し柔らかめの言葉を気にかけて。それからこうも口にした。「教えてくれてありがとう」。
 ……ともあれ何にしろ、例えアイツが想像よりももっと危険な立ち位置にいたとしたって、今すべき目的のところに変わりはない。壁を越えてチッタペピータに侵入する。後のことをあれこれ考えていても仕方がないのだ。やるべきところに変化は無い。
 ……それでも、ほんの少しだけ息を落として、自分の部屋へと通じるドアに背中を預けながらこう言った。

「ごめん、少し風に当たってくる……危ないところには行かないから」

 フゴは意外にもすぐに了承してくれた。



 長老は意外にもそのときにもまだ居間にいて、さくらが外に出たいと言うのをにこやかな顔で見送った。真相は自分の目と耳とで確認しろと意地の悪いことを宣った老獪な老人の面影はそのとき無かった。
 頑丈な木で出来た玄関扉を右手で開いて戸口をくぐる。街灯の無い真の夜がそこにはあったが、満月に満たない白銀の月と、それに伴う繊月の明かりが、大樹の木の葉を押し分けてこんなところにまで降り注いできて歩くのには事欠かない。
 どこへ行くという当てはなかった。
 そもそも初めて来る村だ。最初辿り着いて長老に発見されてからこっち、ずっと長老の家に座って長老の話を聞いていた。観光する暇など勿論無かった。

(……夜気は変わらない)

 ということにこの時点で気がついた。首都ペシェチエーロと南町スッドマーレ、どこもかしこも夜の息吹だけはおんなじだった。ただここは真なる森の中なので、ほかのところとは温度の度合いが少しく違う。

(…………)

 足掛かりに、と口にした老人が続いて述べた言の葉は、壁にあけられたアルブスの抜け道についてだけでは勿論無かった。

(……吸血鬼)

 とさくらは思う。
 老人は確かにそう言った。ウィトゥス・ガッダは吸血鬼である、と……。しっかりした口振りで。少なくとも五百年前のアルブスが下した決定は、それで間違いないようだ。吸血鬼が実在するなんてこと、リアルな世界に浸されて育ってきたさくらにとってはとても信じがたいことだったけど……それもまた、今更か。
 ……吸血鬼。
 それでも未だに受け入れがたい決定だ。とさくらは思った。

「サクラ?」

 少し拙い発音だった。振り返るとそこにネロがいた。外にいたときのようにマントは身にまとっておらず、顔と角とが惜しげも無く月光のもと晒されている。襟ぐりの幅が体に合っていないのか、暖かそうな緑の衣で織られた衣服が片方の肩からみっともない感じでずり落ちていた。幼気な様相とあいまって、その実十五年の月日を既に過ごしているのだ、というふうには到底見えない……。
 ……ネロの頬が上気しているのに気がついた。

「……走ってきたの?」

 と問いかける。絵の具で塗りたくったような白い肌に差した朱色はひどく目立った。これが夜でなかったならば、きっともっと分かりやすかったに違いない。
 ネロはこくりと頷いた。朱色が薔薇色に変化した。ような気がした。

「……サクラ、どっか行くの?」
「どっか……? いや、夜気に当たりに来ただけ。色々なことがあったから。寝る前に頭を冷やしておこうと考えて……」

 ネロがあからさまにほっとした顔をしたのを見てとった。
 …………。
 その意味が分からないほど鈍感ではないつもり。

「村から出ていくと思ったの?」
「…………」

 無言。
 正確には、ん゛ん゛っ……という言葉が漏れていたのをさくらは聞いた。だから答えた。

「こんな夜からは出ていかない。幾らなんでも……夜の森は危険だものね」

 ……こっちを上目遣いで伺いながら、「……本当に?……」……小動物みたいだな、とさくらは思った。そういうコマーシャルが昔流行っていなかったっけ。
 さくらが答える前にネロが更に言葉を継いだ。

「嫌になってない? だって……」
「……何を?」
「……アルブスの村を」
「何で?」
「お爺様が、意地悪したから」

 ……お爺様、という言葉が指し示すのがあの長老であることに、少し考えてから気がついた。

「別に意地悪じゃない……」

 と、思う。
 ……少なくともさくらにとっては。……咳払い。

「アンタのお爺さんは、私たちにヒントをくれたわけだから」
「でも、意地悪なやり方だった」
 ……首を傾げた。「どこら辺が?」
「…………」

 答えはなかった。
 老人はさくららに昔話を聞かせてくれた。五百年前のこと、異世界人、アルブスの決定に街のこと、ウィトゥス・ガッダの実態……。確かにそれには決定的な解決策は一つとしてなく、確かな真相は己の目と耳とで確認しろという言い方は意地の悪いものにも映ったが。

「……私たちに嘘をつかない、真摯なやり方だと思ったわ」

 ネロが顔を持ち上げたとき、さくらは微笑でそれに対応出来たことと思う。それでなくても老人や薬草師にはベレンガリア・ディ・ナンニ嬢のことでとてもお世話になったのだ。少し意地悪されたくらいでは、村を出ていこうなどとは考えない。

「さあ、もう戻りましょう。心配はされないでしょうけど、あんまり外にいすぎると風邪を引いてしまうから」

 触れたネロの肩は少し冷たくなっていた。……あのまま、ネロが来なかったのなら長老宅の壁を背にして物思いに沈む算段ではあったのだけれど、こうなってしまえば仕方がない。このまま大人しくさくら自身もネロと一緒に長老宅へ――。

「……ん? どうかした?」

 肩に手を添えられるがままの状態で、ネロがこちらを見上げているのに気がついた――月光下でもって煌めく緑眼。ペリドットにも似た双眼を月の光のもと観測するのか否かでは、それはまた違った様相を呈するのだということに何だかこのとき気付いてしまった。美しい、と思ったのだ。なるほど、アルブスという民族が高値で取引されるわけである。

「吸血鬼」

 とネロが短く口にした。その言葉の意味が一拍遅れてさくらの脳を刺激した。

「それって、言葉のとおりの意味合いだ」

 その言葉の意味を尋ねる前に、もう既にネロのほうは長老宅に飛び込んで部屋の中を駆けていた。言葉のとおりの意味合い……? それって一体。
 アルブスの夜は謎深く、さくらがそれから眠りにつくことが出来るまでには、日付変更から更に五時間の時間を要した。

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