……運ばれたコーヒーにブラックのまま口をつけた。舌先に残る酸味。飲みやすい味。……元の世界にあるグァテマラに少し似てると思った。

「異界人が指定した助手の中には、彼の案内役であったウーラもおった。村としてもそのほうがいささか安心ではあったので、こちらもそれは受諾した。老若男女、寄り集めて十一人。それが彼の指した人数じゃ」
「十一人ね……」

 と“大鼻”トマスが口にしたが、その肉声が老人の耳にまで届いているとは思えなかった。

「元から考えていたんですかね? その指定した十一人を? アルブスの長のお話じゃ、あまりにもあっさり指定したように思えたんでお尋ねするんですがね」
「さて、どうか。確かにその場には村中の人間がこぞっておったが、元から考え込んでいたのだなどということは私は信用できかねる」――テーブルの天板を指の先でコツコツやって、「むしろ考えられるとすれば、頭の中で捜査に必要な規格を既に持ち合わせておって、その上でそれに適う者どもを逐次摘出していった、そういうふうに私は思うた」

 トマスが軽く肩を竦めた。頬杖をついたまま片手でカップを持ち上げて、「……」何か考え込むように暫しどこかを睨んでいたようにさくらには思えた。

「さて、それからは大捜査。と言ってもそれは異界人と十一人のアルブスとの間であって、端から見ている者にとっては、ただ幼子が寄ってたかって、可愛らしい驚天動地の催し物を企画しているようにしか見えんかったそうなんだが。
 それから十一日と少しして、彼の物語は幕を閉じる。彼は卿の絡繰りを見事に看破しアルブスの者どもを納得せしめ、そしてアルブスは動かなかった。村に危害が及ばぬことを理解して」
「……ちょっと待った、ちょっと待った」

 椅子を鳴らして立ち上がってまで抗議したのは、それまで大人しくさくらの右隣に座していたカタリナである。本当に静かにしていると思ったら、いつの間にか彼女のカップから黒い液体が消えていた。

「幕は閉じたって、肝心なことを何一つ話しちゃいないじゃないか。問題の原理は? 異世界人が辿り着いた結末は? 解明編は? それで閉じられたらこっちが困る。それじゃああそこへ戻る方法も、ガッダ卿と相対したときの対策も、何も告げられていないことになる」

 ……黒々とした液体を、老人が音を立てて少しすすった。マクシミリアヌスとガプサの面々、それにネロとさくらのそれぞれの想いの込められた視線を一心に受け止めコーヒーと一緒に喉元に流し込んでから、……老人はふふっと小さく笑った。

「無論話して進ぜようとも。だがしかしこれは一つの回答であって、確かめるのは君たち自身の足と、頭と、目を要す。異界人の答えはきっと、君たちにとっては満足のゆくものではない。それは彼の目的と君たちの目的とが違うことに準拠する。だが足掛かりにはなるであろう。暫しの時間を要するぞ。行動開始は明日から。ああ、しかしその前に、忘れていた。まずは外壁の謎について我々の答えを提示しよう。あの壁は――……」

 ……。
 …………。
 ………………。


万斛のエニグマ



「結局は行き詰まりのような気がするよ」

 とベッドのスプリングを軋ませながら、カタリナのほうから口にした。今夜は泊まっていきなさいと、さくらとカタリナに宛てがわれたのがこの部屋だ。居間と同じく円柱形の一室で、ここの壁にも、それから家具にも、余計な塗料は一つも使われていなかった。それぞれのベッドカバーと床に敷き詰められた絨毯だけが唯一それらしい彩色を放っている。
 カタリナの言い分は尤もだ。街に入り込む希望は潰えたまま蘇生はされず、ただウィトゥス・ガッダが事件の真犯人だという解答だけを残されて、袋小路にほっぽり出されたようなもの。街の中に真佳がいるのに入れない。そのジレンマに、マクシミリアヌスも相当苦しんでいるようだった。

「最後はあの外壁にぶち当たる……」

 独りごつようにカタリナが言った。

「結局あの壁を壊すなり何なりしないと、到底中には……」

 ぶつぶつと繰り返す音が聞こえている。
 その通り、とさくらは思った。
 真佳を連れ出すにしろ卿と敵対するにしろ真実を確認するにしろ、あの街をぐるりと囲む巨大な牆壁があってしまっては実際どうにもなりようはずがない。真佳を置いて先に進もうなどと思えるわけも勿論なく、進むことも戻ることもできないまさに八方塞がりといった態。来るときただ見上げていた外壁が、これほどの障害に成り上がるとは……。
 切り札、と、長老が言っていたのを想起する。アルブスの抜け道。それを通ってさくらはここまでやって来た。今使えなくなった切り札は、アルブスの唯一の抵抗であった。ウィトゥス・ガッダは恐ろしい男だ。壁に施された術式の危険性を重く捉えた前々代の長老は、そこに切り札という名の保険をかけた。もし万が一門が閉ざされあの街が外界から完全に隔絶される事態になった際、中に潜んでいたアルブスが安全に外まで抜け出すことが出来るよう。
 ……そう。老人があの後申し述べた話の筋では、あの抜け道は一方通行の片道切符。最初から行き来することなどを考えて仕込まれていた門口では決して無かった。

「あの術式を取り壊す」

 ……と言ったカタリナが、天井に伸ばした自身の腕の爪先だけを見ていることをさくらは自ら視認した。

「物理的に壁を壊せないなら、それしか方法は無いよ、サクラ」

 寝転んだままのカタリナの金の双眸が流れるようにこっちを向いた。……声は全然違うのに、それに真佳を想起した。
 吐息する。

「術式を破壊するのが手っ取り早い。それは認める」

 自身がベッドに腰掛けて出来たシーツのシワを見下ろしながら、考えていたのは実際恐らくカタリナと寸分違わぬことだった。術式を破壊する。……でもどうやって? 問題は、とさくらは言った。

「壁面、壁の上、地面の下、煉瓦と煉瓦その隙間……あの紛議の際に出てきた可能性を挙げ連ねるだけでもそれが相当現実的でないのは目に見える。実行するとなるとなおさら……あの煉瓦の数、一体何年かかることやら」
「でもやるしかない。だろ?」
「……」

 そう言われると言い返せないのも確かなのだが。
 やるしかない。本当にそう。卿が術を解くのをただ待っているわけには絶対にいかない。もし卿が、自らの意思で実際に術式を解いたとき、そこに真佳の安全があるかどうか、どこの誰にも保証はできない。
 ……控えめなノックが響いたことで目を上げた。

「姫さん……」

 躊躇いがちな男の声音。口籠って、

「……起きてます?……」

 ……ほんの一瞬だけ考えて、すぐに心当たりに思い至った。話しておかなければならないことがありますと、フゴに言われていたのだっけ……靴を足にはめ込みながら、あの時、とても深刻そうな顔をしていたのを思い出していた。彼の中では、どうしても、明日に持ち越すことが出来ない案件であったに相違ない。
 扉を開ける前にカタリナに声をかけられた。
 下世話な心が透けて見えるような意地の悪いにやにや笑いを浮かべながら、

「遅くなる? あたし先に寝てようか」
「バカ」

 短く言って部屋を出た。
 外に出るとフゴが申し訳なさげに頭を掻きながら、夜分遅くに申し訳ありませんと頭を下げた。……頭にタオルを巻いてないフゴというのを初めて見た。短く刈った黒髪がほのかに濡れて見えるのは、その先刻まで風呂場を借りていたからだろうか。
 ……後ろ手でぱたりと扉を閉じた。

「全然。というか、ごめんなさいね。話が終わった後こっちから行ければよかったんだけど」
「いえ、そんなことは」ここでまた少し口籠って、「……考えることが、いっぱいでしたから」

 ……少し、微笑った。
 それでいっぱいいっぱいになっていたのはさくらだけではなかったのだ……当たり前だけど。

「それで、言わなきゃいけないことって……?」

 話を向けるとフゴが口を物言いたげに曲げながら、顔の筋肉を慎重なまでに引き締めた。……空気に芯が通った感覚。

「――ガッダ卿を見ました」

「――」呼気が止まった、というよりは、喉のところを後ろから鷲掴みにされたみたいな感じがあった。

「……どこで?」

 口端が引きつった。まさかここで?……連続誘拐魔として、あるいはチッタペピータの長きに渡る征服者として今、まさに今名が上がったウィトゥス・ガッダがここにいるというのは、あまりに穏やかでなさすぎる。
 どこで、ということの真意がフゴに伝わっていなかったというのはすぐに分かった。人の心の真意まで見通すだけの余裕がないのだ。ただ一刻も早く、己の見たことを言わなければ。そういう類の必死さが彼の表情からは読み取れる。

「ここで来る前です……チッタペピータを抜け出す前。抜け出そうと決心する前でした」
「抜け出そうと決心する……」

 ……となるともう随分前になる。いや、客観的には然程時間は経ってはいないはずなんだ。ただ色んなことがありすぎた。この一日という時は……。
 あれはいつだっけ。確か門戸が破壊された後。外に出ていたフゴが一人、ヤコブスの部屋に帰ってきた……それで具体的な段取りを決めたんだ。フゴが小さく頷いた。

「その前に……その前にです」

 もどかしそうに口中にたまった津液を飲み下すだけの間を置いて、

「マナカさんと別れる直前、俺はガッダ卿をこの目で見ました」

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