音吐・オーバーラップ



 五百年前と百五十年前に起こった数百人に及ぶに違いない子どもの消失、それがウィトゥス・ガッダの仕業であるということはさっき話したとおりである――と、アルブスの長は改めて同じことを口にした。マクシミリアヌスは外套を羽織ったままではあるものの、今は長老の話を大人しく聞いてくれる気になったらしい。全員が座した状態でそこにいた。

「五百年前の話をしよう。街の様相が変わったことと子どもを見なくなったこと、この二つの情報が入ってきてからの当時の長の決断は早かった。子どもを見なくなった、だからこそ街がおかしくなったのだと、そう結びつけたのだ」

 長老が小さく頷いた。

「私も同じ立場であったら同じことを思うだろうし、同じような結論を下すだろうと思われる。では何が原因か? 病か? 宗教儀式か? あるいはほかの何物かが元凶か?……その当時、我々はウィトゥス・ガッダという存在を知らずにいた。だからして、そう、人為的なものが原因だとは少しも考えていなかったのだ。何せ事は数百単位。いかに腕の立つ魔術師であろうと、一夜のうちにそれだけの子どもをどうにかすることは出来ぬだろうと考えた。
 ――そう」

 息を吸って、彼はその一言を強調させた。
 次の言葉をも強調させんとするために。……と、さくらは思った。

「当時アルブスは、それはある限定された日の日没から日の出までの間に行われたことに違いない、と推断した。たった一日だ。最初は長老を始め誰もが信じられぬ思いであったが、考えれば考えるほど、情報を突き合わせば突き合わせるほどに誰もが否定出来なくなった。確かに前日までは街はいつもどおりだった、と異界人の案内人も任されていたウーラは言った。外に出ていた者は当時多くはなかったが、他の者もそれを否定はしなかった。矛盾する証拠は見つからず、結果としてそれが真実に通じる道だと皆が信じた。全員がだ」

 唾を呑む。
 聞くべきか否か少し迷った。

「……異世界人も?」

 それは他の誰よりもまず“自分が聞かなければならない”と、感ぜられて仕方がなかった。だから聞かざるを得なかった。老人は目の前で黙止した。

「……どうであろうなあ……」

 その時答えた老者の声は決していい加減なものではなかった。あまりに真摯で、あまりに厳格な物言いだった――法廷で裁判長が被告人に、死刑執行を言い渡すが如く。
 老者はゆるゆると首を振る。

「分からん。わしには、わしや前任の長老や、また当時の長老にもきっと恐らく分からなかった。あの者が一体どういう物事を裡に秘めておったのかは……。恐らく誰にも分からんかったろう。当の本人以外には」

 異界人はそれが一夜のうちに起こった物事だと信じていた、あるいは信じていなかった。心の中で整理をしてから老人に先を促した。老人は短く頷いた。咳払い。

「子どもが街からいなくなっている、或いは外に出られないでいるという結論が出た当時、その場の誰もが思い浮かべたのは、無論病であっただろう。当時のチッタペピータは今とほとんど変わらない。少し金銭に余裕のあった者共が、あそこへ住もうておったのだ。それよりずっと昔、彼らの祖先である開拓者があそこを訪れた頃からな。かるが故に、教会と彼らとの関係性も今とほとんど変わりがないと言ってもよい。教会は彼らにとって何の危害にも成り得ない。
 ――しかし、だからといって、彼らがソウイル教とは別の宗教を信仰するのは難しかったに違いない、と当時の長老は言い切った」

 ネロがカップに香茶を注いだことで、老人はそこで枯れた唇をとても慎重に潤した。ネロが円卓の中央に戻したポットをグイドがすかさず拾い上げて、自分のカップになみなみとお代わりをついでいく。
 老人が喉の調子を整えたところで、円柱の一室が再び音に満たされた。

「であるからこそ、人は病という名の原因を思い浮かべたのだ。宗教儀式?と一笑に付して。今も当時もソウイル教に子どもを大量に消費するような記述はない。ただ考えられるとするならば、それはソウイル教とは別個の存在。教会に見つからぬぎりぎりの値にまで膨れ上がった、極小数の宗教団体にほかならない。そんな少しの人数で街の子どもをどうにかできるであろうとは、やはり到底考えられぬものではあったが」

 けれど事実はそれよりもっと衝撃的な事象であった、
 と、さくらは思う。
 きっと今みたいに誰もが想像し得なかったほどの水準で。

「病であるとなれば我々にとっても一大事」

 と、長老はしゃがれた声で発話した。

「ましてや伝染病であるならば、それは我々一族にとっての危機である。体の弱い子どもがまず第一の犠牲になったのだと考え、当時の薬草師に村の子ども全員の診断を依頼した。一夜で広まる病とは? 疑問を述べる者はおらなんだが、誰もが疑問に思うておったに相違ない。しかし口に出そうとはしなかった。これに関して真偽のほどは全く関係はなかったのだ。くだんの病気が存在していようがしていまいがは問題ではなかった。村の子どもたちの安全のほうがより当時のこの村では優先された。事態の究明はその後でも遅くはなかろうと結論付けた。
 ――しかして病は発見されず、当面の急務は即座に去った」

 パイプを吸って、唇から老人は煙草の煙を吐き捨てる。彼は暫く目の前で波打つ自身の香茶を見つめていたが、ここでは口にしなかった。ただただ美味そうに肺に煙を注ぎ込む。ほほ、と少し老人の笑声で煙が揺れた。

「薬草師は首を傾げておったと聞いている。全ての診察を終えた後。何事かの病がなかろうかと隅から隅まで捜索したにも関わらず、重大な病に繋がる種はついに発見し得なかったというのだから……。無論、そんな病など実際存在しなかったわけであるからして、当然と言えば当然だ。いよいよ村は混迷に落ちる。安堵の後の短い当惑。ふふ、そう、それは長くは続かなかった」

 老人が視軸を上げたとき、何故だか“見られている”と感知した。それにどきりと、或いはぞくりとした原因が、自分ではなく自分の中に流れる異世界人の血にあることを直覚的に理解した。老人はさくらを見ているのではない。さくらを通して、当時の異世界人の様相を“視”ているのだ。

「異世界人が」

 と彼は言う。

「笑ったのだ。音を上げて」

 その時長身痩躯の背中が見えた。広げられる両腕と衣擦れの音、影とシワとが蠢いて、それはまるで現実に存在するかのように――
 バツンと現実に戻された。
 それは結局のところ幻で、そんな背中など実際のところどこにもない。少し下から見上げるような視線。目線の主は子どもだろうか? 多分アルブスの声だ……と、さくらは思った。“アルブスの言語は物質をも変化させる”――それが現実を歪め、幻想を見せた。あれが異世界人……? 老人はそんなようなことには気付いてもいないような風袋で、それまでと同じように音を繰(く)る。

「『まるで向こうのお伽話だ』」

 ――老人の声に被さって、若い男の肉声が張り付いていることに気がついていた。

「『“そうしてハーメルンは子どもが一人もいない町となってしまいました”。ハーメルンの笛吹き男には様々な説が含まれる。殺人事件に巻き込まれた説、流行病等の自然的要因により死亡した説、何らかの巡礼行為であった説に、子どもたちが自らの意思で、彼らの村を開拓するべく示し合わせて失踪した説。ウーラ』――と、異界人はウーラを呼んだ。とても気さくに、友好的に、じゃ」

 ……老人に被さっていた声が、喜色を含んでいるようにさくらには思えた。笑っていたのだろう……。話し始める直前、彼は声を立てて笑ったのだと老人は確かに口にした。

「ウーラはその場に控えておった。いや、そのとき村にいた全員が、薬草師のもとへこぞって詰めかけておったのだ。ウーラ、と言った後、異界人はこう言った。『聞かなきゃならないことがある。君、当時の門番のところへ行って、その日の夜半門を開けたかどうか聞いてきてくれるかな。それと、チッタペピータの医術士にも俄然興味が湧いてきた。それとなく探りを入れてくれ。入院患者は増えたか、使用した薬の量はどうなっているか』――彼は笑みを湛えた顔容でこう言った。『火葬役場の使用状況についても、是非とも調べてくれなきゃいかん』」

 一つ一つ潰している……。異界人は可能性を、一つ一つ潰して考えようとしている。門を誰かが通っていないのなら子どもたちは中にいる。医術士が動いた様子があるなら病だし、大量に火葬された形跡があればそれは死だ。自然的要因か、あるいは殺人事件での。……彼は本格的に事件を解決しようとしていた。安全圏を見極めようとして結果遠回りしただけの村の人間とは裏腹に。
 パイプの煙を一吹きする音。

「皆、それはそれは忠実に異界人の指示に従った。ウーラ一人だけでは時間がかかろうと、手分けして調べて回ることになったのだ。結果として門はどっこも開けられてはおらなんだし、医術士も火葬を任されている当時の教会の人間も、忙殺されてはいなかった。薬草師についてもそのように。当日前後に行き来していた商人についても調べたが、薬が大量に購入された形跡なんぞはついに見つかることが無かったという」

 ……どこかで異世界人の発言を期待している自分に気がついている。そのような限定されつつある状況で、彼は一体どのような策に乗り出したのか。
 老人は一度煙草を吸った。

「異界人は結論付けた。『なら問題ない。子どもたちは健康なまま、今でも街の中にいる』。……誰もがそのとき困惑したよ。しかし実際彼らがいなくなったことは間違えようのない事実なのだと。人をやって、何日にもわたり調べ尽くした。この決定が覆されることはない」
「では……」

 マクシミリアヌスが躊躇いがちに口にした。

「異世界人が間違っていた……?」
「…………」

 沈黙の時間は煙草の煙に満たされた。老人が吹きかけた吐息の軌跡を見下ろして、少しくガタついた前歯の覗く老人の口元を注視する。

「どちらも間違っていなかった」

 ――長老が口にしたとき、真っ先にさくらの中に閃いたのはたった一つの表題だった。

「『ハーメルンの笛吹き男』……」

 ……老人が笑った。
 さくらの言ったことに対して。

「そう、そうさのう。五百年前、当時の異界人もそれと同じことを口にした。彼の口からそれを聞かされるのは二度目になる。一度目は先に述べただろう?……二度目のそれは確かに会話としての一言(いちごん)で、その場に居合わせた彼ら彼女らを一層の困惑に突き落とすに十分な一言であったという」

 ふふっと老人が重ねて微笑ってカップに残った香茶を二口すすった。ネロの視軸がずっと老人の横顔から動かされていないのにこの時さくらは初めて気付いた。「……異界人は、やはり思考が似るのかもしらんな……」とは、彼が香茶を飲み下した直後に付け加えられた呟きだ。

「異界人は口にしたよ」

 カップをソーサーに丁重に戻しながら長老。

「『病気ではない、死んでもいない、少なくとも公の場ではね』と指折り数えて男は言った。『――そして更には門が開けられた気配もない。なら状況は簡単だ。彼らは街の中にいる』」口唇を湿らす時間が要った。「『生死は特定できないぜ? 先ほど私は、子どもたちのことを“健康なまま”と確かに口にしたけれど、それはそのまま、病気には罹っていない、という意味だ。生命が停止している云々は健康否かには当てはまらない』。誰が口にしたか分からんが、異界人にこう言われてアルブスの民の誰かが言った。死んでいても生きていても、数百人の子どもが誰にも感知されず未だあの街にいるなんて、と。そう、彼は、子どもたちは外に連れ出されたのだという一説を後援している一人であったか。収容場所と収容方法、それがその一派の論じる大きな一つの論旨であった」

 沈黙。
 誰かがカップに入った香茶をすすった。老人が一つ吐息した。

「さて、では、問うてみるとしようかの……建物の配置は今と大して変わらない。もうずっと前からあれはあのまま、数百年維持され続けておるという」

 陶器を扱う音がした。

「――どこへ?」

 老人が言う。

「子どもたちはあの街のどこへ消えたか、果たして君たちに分かるかね……?」

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