神が創りたもうたと言い伝えられている秒針が最下層を示したとき、老人の鼻先が下方を向いた。
 それから鼻をすする音。立ち上がっていたトマスがどさりという音を立て、糸が切れたように自らの椅子に鎮座した。

「……百五十年前のあれが最初じゃなかった、ってえことですかい」

 その肉声に色はない。街中の子どもが一夜のうちに掻き消えた百五十年前のあの事件、それだけでもあまりに異常な事件であったが、もしも前例があるのなら……それは今後もまた行われる可能性があるということを暗に指す。
 百五十年前……その時の事件の最も有力な容疑者は、今尚存在するとされている。

「……五百年前に百五十年前……しかし何故だ!? 街中の子どもを攫うことで一体何の利益があるのだ、その男に! いや、そもそも、百五十年前のあれは本当に――」マクシミリアヌスの喉仏が上下した。「――お伽話ではなかったのか……?」

 老人が深く吐息した。「――お伽話ではあり得んよ」
 それから伏せていたかんばせをまた僅かに持ち上げて、――どちらかというと自嘲気味の笑みをした。

「百五十年前の同じ事件、私はこれを私自身の目で知覚した。嫌な予感はしておったのだ。聞いていた話と同じ。がらりと変わったチッタペピータの様相に、街の人間のよそよそしい態度、貝のように口を噤む大人たちと、子どもの消失――」

 緑の眼が伏せられて、またあいた。彼がどこを見ているのか、円卓に並んだカップであるか香茶であるか、あるいは自らの持つパイプから湧き上がる桃色を帯びた煙のほうか。さくらのほうでは知覚が出来ない。

「間違いない」

 と彼は言う。

「五百年前に聞いたのと同じだと私は悟ったし、当時の長老へ進言もした。ガッダ卿――ウィトゥス・ガッダに気をつけよと」
「では」
「然様」

 マクシミリアヌスが勢い込んで放ったそれを長老は十を聞く前に請け負った。

「ウィトゥス・ガッダじゃ。間違いない。黒の毛茸に紫水晶の双眼。五百年前の狂騒はウィトゥス・ガッダの仕業であった」

 マクシミリアヌスが立ち上がったついでに倒れた椅子ががつんと鳴った。「どこへ行く」と聞いたのはガプサの長たるヤコブスで、その声はあまりに平静であまりに、――あまりに冷徹だった。椅子の背にかけていたマントをマクシミリアヌスが大柄の体躯に巻きつける。

「マナカがまだ街にいる」
「夜も更けようというこの時刻に、あの森を抜けて街に戻ると?」

 マクシミリアヌスが鬱陶しそうに舌打ちした。月明かりだけであの森を、ひいては場所も曖昧なあの沼に潜んだ狭く細い秘密の橋を、抜け切るというのがあまりに無謀にすぎるというのは、マクシミリアヌスも当然理解はしているんである。

「君たちに強要はしておらん。来てくれんほうがむしろ清々するというもの」
「マクシミリアヌス」

 たまらずさくらが声を発した。マクシミリアヌスのいかめしいほどの顔つきが、途端精悍なものになる。こちらを安心させるようにかゆっくり小さく頷いた。

「問題ない。必ず無事を確認して連れて帰る。なに、出方が分からんので街で右往左往しておるだけだ。危ない目には遭っておらんて……」
「そういうことじゃなくて……」
「まあ、まあ、落ち着かれよ、お若い人」

 さくらとマクシミリアヌスの問答に長老のほうが口を挟む形になった。煙管にも似た細いパイプを一度吸い、桃色の煙を吐き出して。「……やれやれ、全く、若いもんは事を急ぎすぎて敵わん」掠れた声音で付け足した。長老の制止となると流石のマクシミリアヌスも無碍には出来ない。

「申し訳ありません、長」

 屹立したまま最大限の誠意でもって左胸に手をやり頭を下げた。「しかし」、と、頭を下げたまま彼は言う。

「これ以外にも大事な者が街におります。ウィトゥス・ガッダが潔白でないという証言を耳にした今、彼女をこのまま放っておくわけにはいきません。お話の途中で退出する形になるのは大変遺憾でございますが……」
「だから落ち着かれよと言っている」

 言葉を差し挟んでから老人は、吐息で髭を震わせた。

「街の門が破壊されたと言うたな」
「……そのように」

 マクシミリアヌスの返答は硬かった。敬意は未だ有していたが。
 老者はここで苦々しげに吐息する。甘みを帯びた煙草の煙と相反する短い吐息だ。

「……外から人が入ることは敵わん、と思うておいたほうがいい。いや、君たちが外に出られたこと、それこそが奇跡と思われよ」
「……どういうことですかい?」

 ……トマスが椅子から立ち上がりかけていたことに、今さくらは気がついた。駆けつけたかったのはマクシミリアヌス一人では無かったということだ。そのことに少し安堵した。ならば今、きっと真佳は無事なはずだと考えた。

「結界がある」

 ……答えたのは老者ではなく、今まで黙りこくっていた小さなネロのほうだった。アルブスの少年は老者の左隣から、反時計回りにその場の全員と順次目を合わせていったようだとさくらは思った。長老、マクシミリアヌス、フゴ、グイド、ヤコブス、さくら、カタリナ、トマス、ネロ……。
 老人が深く紫煙を吐いた。
 口を挟もうとはしなかった。

「チッタペピータは円になっている。それはもうずっと前からで、ボクが生まれるよりもっとずっと前のことだ」

 反射的に老人を見た。老人は少し言いにくそうな小さな声で、「五百年前より以前の話じゃよ……」さくらの考えを告げる間もなく首肯した。

「……ぐるっと巡らされた外壁も街の形が決定してから。それから少しも増えていないし、減っていない。もう何百年も前から変わらないって、聞かされている……」
「それが壊された」

 さくらは言った。
 ネロがそれを頷くことで是認した。

「それが街の完成形だ。門が破壊されることで、漸く一つの円になる。それが……」
「それが結界だと?」

 マクシミリアヌスが発言したが、それを肯定する返事はなかった。要らなかった、というのが正しい。外壁が円になっているという情報だけで、みんなもう薄々感づいていた。魔術式に絶対的な形式は存在しないが、その大体のものは円で囲われることになっている。というのを、今まで見てきた幾つもの魔術式の中からさくらは学んでいたのであった。

「……円だけでは成り立たないはずだ」

 マクシミリアヌスが言った。

「どこかに術式が存在する。壁面か、或いは外壁の上、地面の下」
「外壁の中と外とを使って地面に直接書いてるって風ではなかったね。少なくともあたしは見なかった」
「煉瓦と煉瓦の隙間に描かれている可能性はー?」
「となると随分骨になりますが……」

 カタリナとグイドとフゴの言霊をネロは真摯に聞いていた。真摯に、というのが正しいのか分からない。その表情には変化がないように思われて、その実パーツの一つ一つが微妙にいつもよりも違って見えた。眉根は少し寄っていて、目にはぎらぎらした切望みたいなものが感じ取れる。歯は食いしばっているのだろう、口角がほんの少しだけ落ちていた。紙のような白い肌に玉のような汗が湧く。

「……それで」

 それを口にしたのが自分の左隣のヤコブスであるということに、気がつくまでに多少なりとも時間がかかった。長い足と腕とを組んで、今まで動きもしなかったのに。

「どういうことだ。奇跡とは? 俺たちが出てきたことに何か意味があったというのか?」

 ……少しして、シワの一本にも見える長老の薄い唇が上下にあいて、言葉を造った。

「正規の道を通らなかったからじゃ」

 ……通ったのはもとからあった四つの門ではなく一つの抜け道。道理は分かる。あれは最初から想定されていた道ではなかった。でも、だったら……と、さくらは一つ思うのである。

「もう一度通ることは可能ではないの? 一度通れたのならまた通れるはず。今すぐ行くのは不可能だったとしても……」
「無駄じゃよ」

 これに答えたのも老人だった。首を振り振り、「無駄じゃ……」小さく言う。

「一度通ったらそれで終わり、確実に奴に気付かれた。あやつは自分の魔術式を通った異物の存在に気付かぬような奴ではないよ……。恐らく既に何がしかの方法で封をし切った。あの道は通れまい……。あれが、あれだけがたった一つ残された我々の切り札であったのだ」
「切り札……?」

 問うた設問に答えはなかった。……分からないことだらけだ……。結界だとか魔術式とか、真佳の安否もガッダ卿の正体も。

「……五百年前のこと」

 息を吐くついでみたいにさくらは言った。そこに万感の思いを込めていたことを、周囲に悟られないようにした。

「……話の途中でしたね。続けてください」

 マクシミリアヌス……、と、さくらは思う。
 話を聞こう。でなければ、きっと真佳のところへも届かない。



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