日は落ちた。奈落の底へ。ここ、スカッリアは太陽神ソウイルを国を挙げて信仰している島国だ。他にも太陽神ソウイルを信仰している国があるかもしれないが、真佳は知らない。そういった類の話というのは、今までマクシミリアヌスや、それに首都ペシェチエーロで出会った男たちにも、聞かせてくれとねだったことは皆無であった。今この場所で聞きたいと思う相手もいない。太陽が廻るものだと知らなかったその当時、ソウイル神を祀る彼らに夜は、一体どのように映っていたことだろう。 (…………) 東の空から昇りだした満月に満たない白銀の月を前にして、真佳はこっそり吐息をついた――。ついに帳が下りてしまった。先に行って、と言っておきながら、どうやら自分はそこへ追いつけそうもない。そもそも既に到着しているに違いない彼らにどうやって追いつけば良いと言うのだ? 道中どうにかして着くつもりだったのに……。 (また面倒なことに巻き込まれてなきゃいいけど……) というようなことを考えたが、よくよく思えば自分もであった。怒られるかなあ。怒られるよなあ……。 (………………) ……むしろ、怒ってくれたほうがいいんだろう。ぽつりと思った。 「冷えてしまうよ」 ……と彼が言ったのがどっちの意味か、真佳は一瞬考えあぐねた。窓の近くの椅子にふてくされて座っていた真佳の体躯が? それとも、机に乗った料理のほうが? ……彼が傾けた、グラスに注がれた赤いワインも、それが本当にワインであるか或いは子どもの血であるか、真佳には瞬時に判断を下しにくい。では唇から覗く尖った犬歯は? 本物? 或いは、まがい物? 男は笑った。 掠れた吐息を伴ってふふ、と小さく笑うような行い方で、それで彼の短くはない前髪が艷に振れた。 「毒などで殺すと思っている?」 握った拳のまま頬杖をついて試すような流し目で。……全く何とも思ってないのに、思いたくもないのに、不意に人にどきっとさせるような行動をこいつは起こす。作為的に? 或いは無意識的? 分からない。 「“僕”としては」 と女が言った。 「毒なんかで死ぬよりも、きちんと貴方と手合わせがしたいな。うん、殺し合いがしたい。ちゃんと本気でね。あんなのはちっとも殺し合いとは言わないんだ」 そう言って大口開けて目の前のステーキに食いついた。鉄板に並べられた何かの肉のステーキと、生ハム染みた薄いハムで野菜らしきものを巻いたもの、トマトとチーズ(と、前に食べたとき同じような味がした)、それに籠に盛られたパンと、付け合せが幾つか――。 一体誰が調理したのか、或いはどこから持ち込んだのか、一般人の真佳からしてみれば豪勢な料理が所狭しと。それを何の躊躇いもなく食す女も女だが、振る舞う男も男のほうだ。 そもそも――。 “毒”で殺すのはキミの専売特許じゃないか、と、いつの間にかすっかり居着いた女のほうを見て真佳は思った。金色の髪、赤い目――、……身内以外に赤い目を持った人間を、真佳は此度初めて見た。 「……キミの話が、筒抜けになるんじゃあなかったの」 と真佳は言った。 そういう話であったはずだ。ガッダ卿が、千里を見渡す眼で視たと教えてくれた。卿はワインのグラスを僅かに傾がせ、肩を竦めただけだった。 ……別に知られても構わない、ということだろうか。ああもう全く、この紫の双眼から汲み取れる情報は本当に本当に微小なものだ。 「……ご飯を食べる」 むっつり声で真佳が言うと、「どうぞ。本格的に冷めないうちに召し上がれ」……ガッダ卿が椅子を指し示しながらそう言った。わざわざ自分の隣の椅子を。 |
骨のやうに白い月 |
「異界人が訪れて、かれこれ半月ほど経った頃合いだったか」 と、組み合わせた両手のうち、片方の指でもう片方の甲をとんとんとんとん叩きながら彼は続けた。山羊のように生えた顎髭が、長老が唇を動かすたびに実に緩やかに上下する。 「その日は実に素晴らしい宵の空、星が大変美しかったと伝え聞く。月は無かった。一つたりとて月は無かった。 ――その日ウーラがたまたま外に出ていた。ウーラというのは覚えておるな? この村に、異界人を連れてきてくれたアルブスじゃ。同名の他人などではないよ。ウーラ本人で間違いなかった。そのウーラが、話に聞くと、少し腑に落ちなさそうな顔容で、始終ぼうっと何もない場所を見つめ続けていたというのだ。話しかけても上の空、時には話しかけるだけでは不十分であったので、肩や腕を叩いてみなければならないこともあったらしい。それもこれも全てはウーラが外から帰って来てからだという話になって、長老自ら、一体何があったのかと尋ねることになったんじゃ――何せウーラは異界人の案内係、粗相があっては失礼に値するからのう」 そこで一度舌を休める間があった。ネロが少し心配そうに見つめているのをさくらは察した。アルブスの寿命で何歳で、それが人間でいう何歳に該当するのかということをさくら自身は知らなかったが、それでも長老は高齢だ。ネロの外見で十五年付近というのなら、長老のほうもそれなりにお年を召されているということになる。ネロが心配するのなら、喋り続けることすら望ましいことではないのだろう。 ――老人が一つ吐息した――。 それでも長老はとめなかったし、さくらもネロも話を中断させようとはしなかった。 「長老が――当時の長老が――聞いてみたところ、ウーラは当初驚いた様子で、惑い、なかなか口を開こうとはしなかった。長老に話すほどのことではないと躊躇したのだろうな。祖父もそう言っていた。ほっほ、長老というのは話を聞くのに実に無力な存在よの……。 やっと口を開いたとき、彼は真っ先に『私の勘違いかもしれませんが』と口にしたそうじゃ。『私の勘違いかもしれませんが、気になることがありまして』」 そこで老人はパイプに唇を触れさせてじりじりするくらいゆっくりと煙草を吸った。部屋にはパイプの甘ったるい匂いが漂って、窓の空いていない室内にこれでもかというくらいに充満している。ヤコブスの吸う、チョコレートの匂いを伴うあれとは違う、粘着性を帯びた芳香。 「ウーラが語るに、こういうことじゃ。チッタペピータへ赴いた際、街の雰囲気が少し違っていることに気がついた。どこがどう違っているかは判然としないが、街の人間が抱く不安や畏れが湿気のようにじっとりと足元に張り付いて、仕方なかったのだという。ウーラはよく外に出る。チッタペピータへも、そのついでに必要な物資を買い出しに出てくれることはよくあった。であるからこそ、当時の長老はそれを度外視しなかった」 「街に出たのかい? 全員で?」 カタリナが問うた。長老は首を振りながら「いいや」と言った。 「アルブスが外に出る場合どのような格好をするか、君らは既に知ってるね。顔形が判別つかんほど深く深く頭巾をかぶり、外套に見を包んで外に出る。そのような若者が集団で街を訪れるわけにはいかんかった。何といっても目立ちすぎる。いやいや、そんなことはしやしない。長老は度外視はしなかったが、かといって話を聞いてすぐさま人をチッタペピータまで送り込みはしなかったのだ」 困惑を吸収するような間が空いた。老人が何を待っているのか知らないが、話しかけられることにそれほどの嫌悪を感じてなどはいないらしい。少し迷って口を開いた。 「……間を空けた?」 老人はふふっと小さく笑った。 「そうさな、間を空けたとも言える。正しくは、ウーラに引き続き、買い出しのついでにでも何か変わったことはなかったか調べてほしいというのが長老からの願いであった。その他、チッタペピータに用のある者にも、気にかかることがあればすぐに知らせてほしいと願い出た。皆抽象的で突発的な指示ではあったが、忠実に賢明にこなしてくれたとのことだ」 「随分チッタペピータの動静に重きを置かれたのですな」 マクシミリアヌスが口をあき、老人は小さく頷いた。――隣の部屋から聞こえていた荒い吐息が、いつの間にか静かな寝息になっていたことにこの時気付いた。ベレンガリア・ディ・ナンニ嬢はどうやら一命を取り留めたらしい……。薬草師と、それから長老に改めてお礼をしなくては。 「然様」 と短く老人は言う。 「我々とは関わりのない街だからと無碍にはできまい。何せ知覚はされておらなんだでも隣街、隣の街に害が広まればいずれこちらにも害及ぶ。無視はできんよ……生き延びるためにはな。生き延びるためには、常に周囲に気を配っておらんといかん」 マクシミリアヌスがカタリナを見、カタリナも軽く肩を竦めた。アルブスの現状はガプサの以前のそれと似ている。首都ペシェチエーロの近場に腰を据えていたガプサには、アルブスの今回の言い分が骨身に沁みて分かるだろう。 「そこで幾つかの話は集まった。これは街全体に及ぶほどの事態であり、楽観視しているものは一人もいないこと。どうやらこれは内々で済ませたい話であって、率先してよそ者に話をしようとする者はここでは現れ得なかったこと」 一本一本指折り数えて老者は言って、最後の一つを言う前に少しの沈黙を付け足した。 「……最後に」 円卓を囲むその場全員を眉に埋もれた緑の眼で見渡して。 「――子どもの姿を見たと話すアルブスが、ただの一人も出なかったこと」 「それって」 トマスが素早く椅子をがたつかせ立ち上がったためトマスばかりが目立ったが、彼以外の人間だって驚きの度合いはトマスと遜色なかろうはずだった。息を呑み、瞠目し、頬の筋肉を突っ張らせ、外眼筋さえやられたみたいにある一点のみを凝視した。反応は種々様々であったはずだが抱いた感慨は変わらない。さくらにとってその一点は未だ記憶に真新しい。 ――“街中の子どもが一夜のうちに失踪するって話でさ”――いつだったかのトマスの肉声が頭の中を刺激する――”結局見つからなかったって話ですが”。 ……一瞬のうちにその場を制した沈黙の意味を、アルブスの民の長老は実に巧みに汲みとった。「そう」と受け応えた長老のその一声は、あまりに力強いものであったとさくらは取る。 「ご存知のとおり。百五十年前にチッタペピータで起こったものと全く同じ騒動が、五百年前にもあったんじゃ」 |