まず先にパタパタと音を立ててアルブスの薬草師が長老の居間を通過した。一度通りすぎてから思い出したように慌てて駆け戻ってきて、慌ただしく一礼。改めて外へ走り去る。……互いに不安を帯びたマクシミリアヌスとの視線が、一瞬間だけ交錯した。
 しかし次いで出てきた長老のほうは何に慌てた様子もなく、節くれ立ったしわくちゃの両手を丹念に布で拭き取りながら曰く。

「やれやれ、ほっほ、慌ただしい子ですまんね、あまり外の人間を見たことがない子なものだから……いやいや、お嬢さんの容体だったな。うん。なに、心配せんでもいいよ。うちの薬草で何とかなりそうだ。調合の腕はいいから安心して待つといい。昨今の外の医術士の技術を私は知らんが、外の薬草師に見せていたら手遅れになっていたかもしれんね。ちいっとばかし特殊な薬草が必要なもんで……あの子はそれを取りに行ったのだよ。じき戻る」

 まずマクシミリアヌスと再び視線を交錯させて、それからカタリナ、ヤコブスと視軸を転じていき――
 ……最後に一つ、安堵による溜息を盛大に落とした。ヤコブスは(外見的には)それほどでもなかったのだが、自分たちにも責任の一端がある、と考えていたに違いないマクシミリアヌスとカタリナの安堵感は凄かった。マクシミリアヌスはそれまで険しかった眉間のシワをようやくの態で開放させて項垂れながら長く長く息を吐き、カタリナは深く息を吐いたまま背もたれの無い椅子から転げ落ちそうになっている。背もたれが無いことを多分忘れていたんだろう。
 それを見ながらアルブスの長老は、微笑ましげに「ほほ」と小さく笑声を上げた。

「よろしければ帰る際にでも、余分に薬を包んで進ぜよう。その厄介な魔術師とは、どうやらまだ折り合いがついておらんらしい」
「お爺さん、分かるの?」と臆せず聞いたのはカタリナだった。
「分かるとも。私は運命鑑定士でもあるからの……」

 おお、と声を上げたのはマクシミリアヌス。

「丁度良かった、もしおられるのならと運命鑑定士を紹介していただこうと思っておったのだ。まさか長老自らが運命鑑定士をされているとは」
「ほほ……そう珍しいことでもないよ。こういう小さな村ではな。村一番の権力者が長老と祀り上げられる。ここではそれが運命鑑定士だったというだけのこと」

 ……実際、神託を届ける役目を担った運命鑑定士、即ち占い師が村で一番の尊敬を得るのは極自然の流れなのだろう、とさくらは思う。宗教が根強く生活に絡みついているこの国と、特に神の恩恵を重々承ったとされるアルブスの民の間では。

「……チッタペピータで、どうやら何事かあったようだの」

 そう言って長老は棚の上に置いてあった一つの箱を手繰り寄せてから椅子に腰掛け、箱から取り出した細く精細な、煙管にも似たパイプにとっくりと葉を詰め入れる。運命鑑定士は何もかもを神託として受け取っているわけではない。神から降り注いだ特定のこと、それから鑑定士自ら尋ねたその回答、運命鑑定士が知っているのはそれだけだ。神からの天啓、というのをそれでも信じきっているわけではないけれど、他に手がかりも見当たらない上、マクシミリアヌスが尋ねないことには動けないと頑として譲らない。旅の目的を達成させる以上、避けては通れない手順の一つだと諦めて受け入れることにしている。

「お爺様」

 と、ここでネロが幼い口を開いたので長い間彼の声音を聞いていなかったさくらは少なからず驚いた。魔術の話はやっぱり本当だったのだ……言語を操る魔術の話は。
 火をつけかけたところで、長老のほうがゆっくり顔を振り向けた。その時言葉はかけられなかった。
 こほん、とネロが咳をする。

「街の門が閉じられた」

 眉に覆われた老人の細く小さな目が露わになった。
 それほど目を見開いたのだ。

「全部の門だ。ガッダ卿のせいだって皆言ってる」

 ネロに向けたときと同様ゆっくりとこっちを振り返った老人の眼光に真偽を確かめる煌きを見た気がして、さくらは思わず物も言わずに首肯していた。見ればその場の全員が同じ動きを返している。まるで魔術にでもかけられたように。
 吐息。老人が開いた唇から変わった音の言葉を紡ぎ、それでパイプに火がついた。一服。

「……君は、異界人だね?」

 あまり驚きはしなかった。
 長老が最初から異界語を弄していたことを覚えていたし、それにさっき、治療に入る前、さくらが話しかけたすぐ後に彼は「異界のこと」と口にした。だから素直に「はい」と答えた。また一服。マクシミリアヌスがもぞもぞと肩を揺らめかしたが、口は閉ざされたままだった。

「ガッダ卿の話の前に五百年前の話をしよう。長い話になる。お茶のおかわりはまだあるか? ならば良い、昔話を論じよう」

 一度、目を閉じるだけの間があった。
 老人はシワに埋もれた口を開け、呪文のように唱え始める。滔々と。脈々と。

「五百年前、初代の異世界人がまずどこで発見されたのか、詳しいことは私は知らん。ずっと前、祖父から伝え聞いたのはただ、奴の噂を聞きつけたアルブスの民が集まり合って話をし合い、奴を招き入れようというたった一つの結論を導き出したところから始まった。そのとき奴は結構な話の種だったのだよ。こんな隔絶された寂れた村にすら奴の噂が届くほど」
「五百年前からこの村は……?」尋ねたのはマクシミリアヌスで、それは老人によって肯定された。
「もう何千年も、あるいは何万年もかねぇ。一度郷土を追われたと聞いてはいるが、それがいつであったか、答えられる老人はただの一人もいなかった」

 ――老人の眼が遠く彼方を視ていることに気がついていた。
 彼は今幼い耳で、幼い脳で祖父の話を聞いていた一人の少年の姿に立ち返っているのだ。遡行。それは遡行の旅路であった。

「招き入れようと一度決まってしまえば早かった。その日長老はアルブスの民から一人を選び、異界人のいるという東の村まで使いの者を走らせた。術に長けたもので、また小柄で機転も効いた。ここから東の村まで距離はあるが、行けない距離ではなかった。その頃外の世界では丁度転移魔術が完成されようとしていたが、完成を待たずとも自分の足で、或いは馬車を使って旅することは当たり前のようにその頃行われておったのだ。
 一人選ばれた男は名をウーラという。彼が帰ってくるまで、実に二ヶ月半の時間がかかった。その間彼がどれほど過酷な旅を強いられていたか、私は知らない。恐らく父も知らなかっただろう。祖父が彼と会話出来る立場であったかどうかでさえも、私には何一つ知らされてはおらんのだ。
 ウーラが帰ってきたとき、異界人もそこにいた。祖父はその場に居合わせた。肌は外の人間よりも黄色みが若干かかっておって、神の威光を借り受けたようにも見えたという」

老人はそこで一度言葉を切って、さくらに向かって軽く笑った。

「君の肌は外の大勢の人間と同じような色をしておるな」
「……ハーフなので」

 少し驚いたが短く答えた。話の道中にこちらに話を振られるとは思ってなかった。ハーフという言葉がきちんと伝わったかどうか分からなかったが、反射的に答えてしまったのがそれだった。
 老人は長く吐息して、それまで使い続けていた舌先を休めるように沈黙した。一口くらいしか飲んでいなかった香茶の表面をさくらは見下ろす。濃い橙の色をしていた。

「……然様、黄みのかった肌の持ち主など、厳密に言えばそう珍しくはないはずじゃった」

 再び老人が口を開いたとき、その言葉は実に滑らかに丸みを帯びた家の壁の行き渡る。

「祖父がそれまでそういった種族を見たことがなかったのか、異界人であるという先入観がそうさせたのか、或いは本当に異界人の肌に特別なものを見たのかは私は知らぬ。ただ祖父は少なからずそう思い、それが父の代を通じて私の代にまで伝わった。
 神は異界人を祝福している、と、祖父は強く確信した。実際初代の異世界人は、あまりに良心的であったのだ。自分たちの技術の粋を私たちに教えてくれた。魔術に頼り切っていたあの時代、ただ上位の魔術師――そうだの、外の言い方をしよう。第一級魔力保持者の顔色を伺うしかなかった第二級魔力保持者に、希望というものを与えてくれた。……そういう噂だ。祖父はあまり外には出ようとはしなかったため、第一級と第二級の超えられぬ格差というものを実感として知覚したことはないという。ただし第一級を凌ぐほどの戦力は教えなかった。本当に知らなかったのか、或いは第一級魔力保持者が自分のことを快く思っていないということを頭のどこかで察していたからか、確かなことは分からない。……ただ、祖父は後者もあり得ただろうと言っている。あやつは実に底の知れない狸のような男であった……。飄々として、全てを受け入れ、その実腹の中では全てを捨てていてもおかしくはないと思わせた。……祖父がそう感じたのは異界人がやってきてから大分経った後のことで、直感的にそこまで感じたことは無かったそうだが」

 第一級からの迫害は実際あったのだろうか、と感じたが、実際口にして質問することは取りやめた。老人の話を途中で遮りたくなかったというのもあるし、今後問題になるのなら彼のほうから論じるだろうと考えた。

「……異界人がやってきた後のことに戻ろうかの……。ウーラが連れてきた異界人は、すぐに長老の家に案内された。当時の老人の家じゃ。今長老と謳われる私の家は村の中央に存在するが、当時はもっと奥地のほうにひっそりと、佇むように存在していたという。当時のほうが家は大きかったかの。異界人はそこに招かれ、少しの間そこに泊まった。一月ほど共に旅をしていたウーラが案内役に就かされた。そのほうが彼、異界人も気安かろうと思われたし、異界人たっての希望もあった。ウーラの家は幸い長老宅の近くでもあったので、その通り行われることとなる」

 一度、老人が舌を休める間があった。長老の隣に座したネロが香茶を勧めると、彼は美味そうにそれで舌を湿らせた。

「異界人は外の世界に教えたことを全て我々に教えてくれたよ。だがその技術よりも、アルブスの民は彼の生きた世界のほうを知りたがった。今のままで十分不自由はしなかったし、外の世界と繋がる道理もないからじゃ。一度、祖父のいる前で、どうやって来たのと尋ねたアルブスの子どもがいた。異界人は君たちの同族に連れられて、と口にした。少し考えて、子どもは言った。『そうじゃなくて、どうやってよその世界からこっちへ来たの?』……異界人は少し笑って、闇を通ったのさ、と答えたという」

 闇……。
 口の中だけで呟いた。
 あまりに抽象的で、まるではぐらかしたかのような言の葉だ。子どもはそれで満足しなかっただろうとさくらは思い、果たして老人の続けた言葉はそれに適った話であった。老人は頷きながら言葉を繋ぐ。

「無論。無論子どもはそれに納得はしなかった。が、異界人は何度食い下がられようともそれ以外の解を用意したりはしなかった。闇を通ってきた、それで通し続けたという。……それが真実であったか虚偽であったか、確かめる術は今、既に無い」

 ……老人の祖父が感じたという、底の知れない狸のような男だった、というのが真実味を帯びてきた。……と、さくらは思った。それが真実であれ虚偽であれ。

「アルブスの民が異界人から教わったのは、主に言葉のことじゃった」

 と老人は語る。

「アルブスは言語を重要視する。アルブスの言語には力が宿る。ほっほ、そうだの、さっきの、言語で鈴を鳴らしたのだってそういうことじゃ。ネロが外の言語を失ったというのなら、君らの何人かも実際に目にしたのであろう? あれもアルブスの言語の力、ということだ」

 パイプを吸って煙を吐いた。
 ……さくらも目の当たりにはしなかったが、どういうことが起きたのかはカタリナとマクシミリアヌスから大体の事情は聞いている。ネロが聞き取れない言語を発した、見慣れない荘厳で優美な魔術式が展開された、毒の刃を防いでくれた……。
 二人声を揃えて、それは第一級魔力保持者と同等の力であったと断言している。本当だろうか。多分本当なんだろう。となると、アルブスは相当に強力な“力”を持っていることになる。
 老人が歪な前歯をむき出して、にっ、と笑った。

「そうだの。アルブスと呼ばれる我々は、決して無力というわけではない。それこそ君たちと対等に渡り合えるぐらいの力はあるかもしれない。このようなところで隠れて暮らす必要性は無いのかもしれん。……だが我々はそれを望まなかった。アルブスの言語を抱えながら、ここでひっそりと、短くはない寿命を終えることを望んだのだ。五百年前、祖父らも異界人にそう告げた。我々の望みはそれだけだから、出来得るならばここで得た知識は外に漏らさないでおいてくれると有り難いと。……彼は受け入れてくれたよ。そして実際、村から出た異界人は我々の話を一切外には漏らさなかった。平穏に五百年、この同じ場所で暮らせているというのがその証左。彼は約束を守ったのだ」

 紫煙がのったりと垂れ込める屋内で、暫くの間無言が続いた。話し疲れたのかと思ったがどうやらそうではないらしかった。迷っているのだ。話すか否か。
 途中、薬草師の女の子が出ていったときと同様にぱたぱたぱたと駆けてきたと思ったら一同無言の中でぺこりとこちらに頭を下げ、ベレンガリアが借り受けた部屋に入っていった。出来上がった薬を飲ませに来てくれたのだろう。部屋から出てきても尚無言であったこちらに一瞬戸惑いの視線を向けてから、「――」恐らく長老の名を呼んだ。ヴァーヴァ、とさくらには聞こえたが、捻じくれていて定かではない。老人は一度振り返り、彼女は透明の袋に入った丸薬を見せながら、更に二言三言付言した。今回は言葉が長かったためさくらにも一部分しか聞き取れなかった。老人が頷くと、丸薬を近くの棚の上に乗せ、もう一度お辞儀してから帰っていった。ぱたぱたぱたと、これもまた少し慌ただしかった。外の人間がいるということが慣れないのだろうとさくらは思った。
 ……老人が短くない息を吐く。

「そうさの……そうさの。そろそろ語る時かもしれん――君たちは不思議に思ったかもしれん。異界人がどうしてここを、アルブスの村を発つことになったのか。それはあまりに、急速的なことだったのじゃよ――」



そうして語りは深淵へ

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