“それ”を見たとき、首領たるヤコブスとカッラ中佐が同時に息を呑んだのをグイドは察した。グイド自信も例に漏れず一時息を奪われた者の一人で、行き場のない詰まった吐息を口笛として吐き出して、それで改めて視軸を上げた。
 木の葉の隙間はグイドが思っていたよりも無数にあって、神の恩恵、太陽光を遮るまでには至らなかったことをここで思い知ることになる。“アリスの森”は高所から見たら生い茂る木の葉に隠されて地上が見通せない未開の地だが、こうして地に足をつけて見上げるとそんな印象は微塵も無い。むしろ無数に降り注ぐ木漏れ日に神々しさをグイドは抱いた。
 大の大人が何十人集まったところで囲えないであろう巨大な幹を持つ大木に囲まれた、それは小さな村だった。樹幹と比較するとおもちゃのお家みたいな家屋が、ちょん、ちょん、ちょんと間隔をあけて並べられ木漏れ日の恩恵を受けている。家の材料は簡素な木。無駄なコローレ(カラー)に覆われてはいないのでともすれば自然の一部のようにも見受けられる。“アリスの森”に入ってたった数十メートロ(メートル)歩いただけで、こんな村に辿り着けるとはてんで思っていなかった。

「――」

 ヤコブスが何か小さめの声で囁いた。

「なるほど、神の恩恵を受けるに相応しい――種族の――」

 それ以上は聞き取れなかったが、それはグイドに関してだけで、どうやら彼の呟きも全て聞き取れてしまった御仁が他にいた。「ほっほっほ」と御仁は笑う。

「そんな大層なもんでもありゃしません。ちいっとばかし神様に便宜を図ってもらった程度でね。なあんも、地上の人と対して違いはありゃしません」

 震えるようなしゃがれた声だったが、この森の大木のようにしっかりしていた。頭髪は抜け落ちているので分かりづらいが、米噛みの骨が発達して浮き出た角と、臀部上から生えた、毛並みがいいとは言い難い尻尾の二つを見て取れば、御仁をアルブスではないと主張する人はきっといないだろうとグイドは思う。ネロと同じ眉頭だけに眉毛が残った特徴的な眉をしていた。異世界では麻呂眉、と言うのだっけ。それがいっぱいに生えているので、奥に隠された緑の双眼が見えにくい。
 シワに埋もれたその容顔で、老人はにっと笑ってみせた。
 ――その時初めて、大木や家の影からこっそりとこちらを伺う、大量のアルブスの存在に気がついた。

「遠いところをよくぞわざわざおいでなすった。ネロや、よく戻った。お前の物語も聞かせておくれ」

 先頭に立っていたアルブスの少年にもそうやって言葉を投げかけて、枯れ枝のような指先で御仁は全員を手招いた。






 アルブスの家というのに初めて入った。
 村の在り処さえ知らなかったのだから当たり前だけど。
 それは外見と同じく無駄なコローレ(カラー)の無い家で、全てが自然の色をしている。部屋の形はどうやらどれも円形で、四角い部屋というものは少なくともこの長老の家には無いようだ。自然と家具も、それに沿うような形のものが多かった。椅子には背もたれがなく、グイドの樽腹を支えるのには少し小さめで頼りない。それが面白くって、無闇矢鱈とお尻の位置を変えたりした。足の高さが不揃いだったのでその度にカタカタカタカタ音がした。こほん、こほんと、真っ先に御仁と対面したネロが喉を慣らすような咳をする。御仁こと長老は何か木の枝みたいなものを、ふよふよさせていた。こほん、と、一際大きくネロが鳴く。

「大体のアルブスがそうであるように」

 とアルブスの老人はそう言った。

「アルブスは外の言語を勉強しないでも支障ないと思い込んでいるようじゃ。実際それで支障が出てくることは滅多に無い。二百年の生涯で、一度もよその言語を扱わなかった輩は少なくないんじゃな。九割方はそうであると思ってくれても支障無い」

 桃色の蕾がぽんぽんとついたその枝をネロの喉目掛けてふよふよさせて、「ウン」と長老は言葉の中途で薄く特に意味もなさそうに頷いた。枝を置く。「アー」とネロが言葉を発した。「ウン」と長老が頷いた。

「成功したよ。これでまた言葉を話せる。君らの言語を、だが」
「喋れなかったのは魔術のせい……?」

 とヒメカゼちゃんが呟いて、僅かに両目をぱちぱちさせた。
 そういう魔術はグイドも聞いたことがない。
 いやいやいや、と老人が緩く左右に首を振る。

「正確には、魔術が切れておったのだな。君たちの話では、ネロは直前に聞き取れない言語を呟いておったのだろう? それがアルブスの言語。よその例に倣ってアルブス語と表現するのが良いのだろうが、そもそもその言語の存在すら君らが知っているかどうか」

 少なくともグイドは知らない。今までの生涯で培ってきた記憶という名の堆積土に欠落はないと自負しているグイドすら、アルブス語なる言葉の存在を知らなかった。

「国に根付いた言語と、異界語を話せる魔術をかけておったその喉に、無理やりにアルブス語を通してしまった故、かけていた魔術が切れたのじゃ。どの道時間切れも迫っておったのだろう。世界中、どの魔術であろうとも、永久に続く魔術というのは存在したりはせんものだ」

 と言って、老人は顎先にちろりと生えた真っ白い髭を指先でしごいた。
 ……この世界にはグラッデという花がある。異世界にある桃というのとよく似た花だ。厳しい冬の間を蕾で通し、春先に二日間だけ花開く。辛抱強く儚い花で、信仰のあり方とはこのグラッデの花のようにあるべきだとたびたび比喩によく使われる。
 ひゅう、と、腿の間に挟んだ両手で椅子の縁を掴み取りながらグイドは小さく口笛を吹いた。
 長老が使っていたあの枝は、そのグラッデの蕾の枝によく似ていた。ただし今は春先ではなくて春の中旬。開花の後、異界で言うところの胡桃のような果実を鳥に運ばれて然るべき時節であるはずだった。……不思議な枝だ。
 それからもう一つ。
 言語を自在に操る魔術という存在を、グイドはやっぱり耳にした試しが無い。視線を交わし合わせた結果、少なくともガプサの間でその存在を知っている人間はただの一人もいなかった。

「長老殿」

 カッラ中佐が焦れた様相でこのやりとりに割り入った。その両腕にぐったりともたれかかる少女の体躯を抱きながら。

「押し入った上、挨拶もそこそこにこんなことをお頼み申すのは心苦しいのだが、もしも出来れば」
「医術士だろう」

 カッラ中佐の言葉を紡ぐ舌先が一時止まった。
 ぱくぱくと無意味に唇を開閉させて、

「……知っておったのですか」
「なに、私も医術っちゅうものに、興味を覚えないでも無かったんでな。大体の容体は見てれば分かる。医術士はおらんが腕のいい薬草師を呼び寄せよう。奥にベッドがあるから、そこに寝かせておやりなさい」

 カッラ中佐がその通りに行って、長老がぶつぶつとグイドには聞き取れない言語を唇の隙間から滑り出させた。言語に質量でもあるようにその言霊は空を飛び、窓に垂れ下がった大量の鈴の一つに確かにぶつかった。リン、という澄んだ音――。

「……凄いね。どうやったの?」
「ほほ、アルブスの言語は物質をも変化させる。それだけのことよの」

 何だかはぐらされたような気がしたが、アルブスの言語というものすらそれまで知らなかったグイドにそれ以上の追求が出来るはずもなく、ふうん、凄いんだなという一応の納得でその場は収めることにした。カタリナとカッラ中佐が告げたネロの能力というのを、多少なりともここで思い出していた。これが魔術と言うのなら、彼らの魔術には魔力を通す媒介となる魔術式を必要とはしないらしい。それは珍しいこと、という言葉では足りないほどにあまりに異常だ。たとえ第一級魔力保持者であったとしても、媒体になる魔術式が必要不可欠であることは変わらない。多くの第一級は、既に体のどこかに彫り込んであるらしいと聞く。

「長老殿」

 カッラ中佐がそう言った。その巨体には窮屈にすぎる戸口を身を屈めてくぐりながら。その巨体の向こう側には、ここより少し狭い丸い壁の部屋が光を落とした状態で在ることをグイドの位置からも確認できる。

「準備が整った。よろしくお願い申し上げる」

 背後に目を配らせて、長老に向かって一例した。
 同じく第一級魔力保有者であるカッラ中佐もまた、体のどこだかに魔術式の刻印があったりするのだろうか。そういえば、二重になった服の裏側の布地の側に、魔術式を縫わせている第一級も多くは無いがいるようだ。治安部隊員という、毎回同じような服装に身を包むことを義務付けられている職務の人間ならではの謀計とも言えるだろう。
「ほほ」と老人がまた笑った。

「私が薬を調合するのではないがな。まあ、そこで待っておられい。薬草師が来る暫しの間、私も容体を見ておこう」
「あっ……」

 と声を上げたのは、一人礼儀正しく椅子に腰掛けていたヒメカゼちゃんのほうである。幾重もの視線の放射を引き受けて僅か面くらいながら、「ナイフ……」と言いかけたことを「ああ、そうだった!」と姐さんのほうが引き受けた。

「もし必要になればこれ。彼女を傷つけた剣だよ。もし参考になるんならと思って持ってきた。あっ、第一級魔術師によるものだから、柄のほうも毒だよ。タオルに包んだまま持っていったほうがいいかも」

 背嚢の中をガサゴソやってから中身をちろりと確認し、ターヴォラ(テーブル)を挟んだ遠くのほうから、天板に膝をかける勢いでアッシュガマーノ(タオル)に包まれたコルテッロ(ナイフ)を老人の両手に押し付けた。長老が少しびっくりしていることを気にした様子も無いあたり、さすが姉御だなあとグイドなぞは思うのだ。実際それに眉を顰めたのはカッラ中佐だけだったので。ヒメカゼちゃんはただただ呆れ果ててはいたけれど。

「貴様、アルブスの長老という御仁に向かって……っ」
「ん? 何か可笑しなことしたかい、あたし」
「可笑しなことどうこうという問題ではない、そもそも貴様は――っ!!」

 怒号に通じるだろうと思われたカッラ中佐の発言を遮ったのは、長老の呵呵とした笑声だった。中佐としても一旦は収めるしかなかった怒号を喉元に強く押し込めて、彼は戸惑いを含んだ顔容で長老のシワに埋もれたかんばせをそっと窺い見ることになる。「ふふふ、」と一旦笑いを抑えてから、長老はシワと同化した口唇を緩く開いた。

「よい、よい。そうさな、最近はどこもよく教育が徹底してるが故に、子どものような無遠慮さを突き付けられることがほとほと無かったもんで――外と交流するというのも良いものだ。久しぶりに楽しい思いをした。ふふ。出来ればその応対を、せめて帰る間際まで持ち続けてほしいものだの」
「いや、しかし……」
「老いぼれの頼みと思うて。そもそもアルブスの民ではない貴殿らに、私を敬うべき道理など無いはずであろう?」
「そんなことは……」

 とカッラ中佐は最後のギリギリのところまでどうやら応戦したらしかったが、結局口をもぐもぐさせて、一体何を飲み込んだのか、渋々の了承を発するまでには決心がついたようだった。それでも十分不本意そうな顔つきであったが。その間おれらの姐さんはきょとんとした顔で香茶を飲み飲み、中佐と老人の取り決めを傍観していた。実際、おれらが敬うべき相手は首領以外に存在しないことはグイドも同じだ。

「――……」

 この部屋に案内されたときに通った戸口の影から飛ばされた、おどおどした言葉の震えがその場の会話を断ち切った。言葉の意味は分からなかったが、聞かずにはいられない類のものを脳の中枢が読み取ったのは間違いない。

「ああ、おお、そうか。皆さん、薬草師がおいでなすった。この村一番の薬草師じゃて、あのお嬢さんもすぐに良くなるであろう。後で言語の術策をかけてやるから、ちょいとお待ち、ヴァルテ」――ヴァルテ、と長老は言ったように思えたが、恐らくアルブス語であったために音が捻れていたところが多く、本当にそう発言したかと聞かれるとグイドとしても少し怪しい。アルブス語を無理くりスカッリア語の音に直せばそうなるだろうという程度の認識だった。「――診断から調合までちいとばかし時間はかかると思うが、気にせんで寛いでくれるかの。私も隣で診させていただく。暫し席を外すことと相成るが」
「いえ」

 と言ったのはヒメカゼちゃん。

「お気遣いなく。押しかけて早速のお願い申し訳ありません。よろしくお願いします」

 座ったまま、丁寧に丁寧に頭を下げた。「ふふ」と老人はやっぱりまた破顔した。

「外のこと、異界のこと、ネロのこと……まあ、長い話になるであろう。それまで重々舌を湿らせておいてもらえれば幸甚じゃ。おかわりはたんとある。ゆめゆめ遠慮などなさらぬようにの」

 そうして好々爺たる微笑を浮かべ、お嬢さんの横たわる部屋へと消えてしまった。おどおどした声の薬草師は一旦グイドらに思い切ったように一礼してから、ゴンナ(スカート)の裾を翻して長老の曲がった背中を追いかける。
 ……一秒の間の後、姐さんが中央に置かれたテイエーラ(ティーポット)に手を出した。カッラ中佐がズガベッロ(スツール)に静かに黙って腰掛ける。空になった自分のタッツァ(カップ)を、グイドは前に差し出した。

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