トマスの名誉のために先に注釈しておくと、彼は何もマナカ・アキカゼに惚れ込んでいるわけではない。
 ……それはグイドが実際にトマスから聞き及んだことではなかったが、多分本人に尋ねるよりも幾分かほどは正確だ。と思いながらグイドはうんうん頷いて、足元の景観を遮るほどの樽腹をゆさゆさ揺らしてネロに続いた。
 湧泉を離れてからネロが選んだ道に道は無かった。いや、正確には確かに道はそこにある。左右からずどん、ずどんと張り出した大量の網状脈を持つ葉身に覆い隠され樽腹が無くても見えないほどの、ほんの数人が踏み固めたに違いないだけの小路を道と言うのなら。土から大分はみ出した木の根っこに足の裏が触れたので、つまずく前に先にヒメカゼちゃんの手を取った。「……ありがとう」ちょっとびっくりしたようにヒメカゼちゃん。グイドらは森に慣れているからいいけども、こういう道はヒメカゼちゃんにはきっと恐らくひどく辛い。路面は傾斜。泉の場所からずっとここまで降下の一途を辿っている。
 トマスとヤコブスの肩越しにネロの小さな背中を見下ろして、「うーん」とグイドは間延びした声で考える。
 これほどの奥地まで足を運んだ経験はグイドにはないし、そもそもこんなところに道があるなんてことすらも初見であった。けれど既存の地図と照らし合わせて考えることは可能であった。ここから先は湿地帯、要するに閉鎖的な水の溜まり場になっていて、人が歩いて渡ることは不可能とされているはずだった。そこをさらに超えると大木が生い茂る森とも言い難い森になる。異世界にそういうお伽話があったんじゃなかったっけ。体が小さくなっちゃって周囲のものがずっと巨大に見えるっていう……。

「ヒメカゼちゃん、異世界のお話に詳しい?」

 少し驚いたような間があった。

「……そんなに数を読んだ自信はないけれど、まあそうね……有名どころなら」
「体がちっちゃくなるお話知らないかなあ」
「体が……?」
「うん。これぐらい。花の実ぐらいちっちゃくなっちゃうの。それで、周りのものが凄く大きく見えるんだ」
「……『不思議の国のアリス』?」
「あ、そうかも。俺もお話自体は読んだことないんだけどねえ。そういうお話があるって話を前に聞いたことがあるんだあ」
「……そう」

 何か釈然としないような返答が背後から上がったが、それらしい外題が分かったためグイドとしては大満足であった。そう、『不思議のアリス』。異世界では。まるでその中に迷い込んだかのような森が、湖沼の先には広がっている。ことになっている。ことになっているというのは、誰もその先に実際には行ったことがないからだ。ソウイル神の恩恵を高いところに茂った木の葉で覆い隠したその場所は、単純に辿り着けないというだけではなく、信徒が何となく忌避する場所にもなっていた。あそこへ行くのであれば確かに絶好の隠れ家と言えるのかもしれないけども。
 さて、何だっけ?
 あー、そうだ、トマスの話を考えていた丁度最中なのだった。グイドの心中はいつだって二転三転を繰り返す。少しも落ち着いていることがない。トマスはマナカ・アキカゼに惚れ込んでいるわけではない。これが結論。では何故そう言い切れるのか。その根拠は完全にグイド個人の主観的な人間観察に基いているが、こういう感情の交錯においてグイドが見解を見誤ったことはほぼほぼ無かった。だから今回も、きっとそうに違いないと確信している。

「グイド」

 とヒメカゼちゃんが短く言った。「んー?」と間延びしてグイドは答える。

「これまでの道、覚えてる?」
「覚えてるよー。それは多分、ヒメカゼちゃんもだと思うけど」
「……」

 少し口籠るような間があった。
 ヒメカゼちゃんが何か言う前に、先にグイドのほうが口を開いた。

「何かあったら街に戻る?」何かの部分は言わなかった。
「何かって」

 明確な反論を口にしようとしたのだろうが、それは結局言葉には成り得なかった。何か、にぴったり入る言葉を、グイドも具体的には結論付けてはいなかったのだけど。

「多分、それは皆がちゃんと覚えている事柄だから」というのは、彼らの経験と思考の傾向から断定を下した。「その時はおれたち全員、頼ってくれて大丈夫だよー」

 ……その時ヒメカゼちゃんがどういう顔をしていたかグイドは知らない。彼女はグイドの後ろを歩いていて、そしてグイドはずっと彼女に背中を向けてネロの背中をえっちらおっちら追いかけていたところだったからである。
 だからヒメカゼちゃんの様相は知らない。
 でも多分、悪くないものでもなかったんだろうとグイドは思った。思って心が少し弾んだ。
 ――マナカへ抱く感情は、詰まるところそれである。
 つまりこれはトマスの話。
 彼女は、多分どこかで浮き草のようだと言われたことがあるのではないかと夢想する。だってそういう生き方をしているから。そういう不安定なところ。安定しないところ。強いくせに頼りなげなところ。何か一つの言葉だけで全てが丸く収まってしまうような、それはそんな割り切れるような感情では決して無い。これが論証。故に冒頭。

「あー、そうだ、ちょうど良かった。ヒメカゼちゃん」
「……何?」

 うろんな声がグイドの肩越しに飛んできた。ヒメカゼちゃんにちょうど声をかけられたからそれに便乗するわけで、そこで疑念を差し挟まれる理由がグイドのほうには分からない。そもそも気にしたことは無いけれど。

「ヒメカゼちゃんは、マナカちゃんが好き?」

 ……面食らったような沈黙があった。

「……何を、藪から棒に……」

 口籠った。
 今回もグイドは後ろを見てはいなかった。見る必要は、あまり無いと感じられた。

「あは。じゃあ良かったー。大当たりだー」

 それとおんなじ。
 言葉というのは実に愉快で不可思議だ。

「……私、まだ何も答えてないけど」

 グイドの後ろでヒメカゼちゃんがぼそっと小さく口にした。



アリチェ・ネル・パエーゼ・デッレ・メラビーギエ



「おおー」

 と声を発したのはグイドである。
 一歩また足を進めて、

「……おおー」

 靴の本底半分くらいまでが沼に浸かったことが新鮮で、陸地に足をつけるのが自然慎重になった。沼の表面に底をつける。そのまま踏みしめて硬い地面に足をつく。こんな場所はグイドの経験上でも初めてで、何かの興味深い見世物のようにも感じられる。沼の上を渡り歩く男という表現は、まさしく見世物小屋にそのまま掲げられてもおかしくはない題目だった。
 グイドが疑問に思っていた“沼”という障害は、しかしアルブスの少年、ネロが踏み入った瞬間それは障害ではなくなった。人跡未踏であったはずの沼はそこにはなかった。実際には、多分もう何百年、ひょっとしたら何千年も前からそこは、アルブスの民が家路を辿る帰路として、或いはその逆の意味合いで辿り慣れた道だったんだ。
 前のほうでヤコブスがぼそぼそと呟いているのを、グイドは耳をそばだててから聞き取った。

「大地がせり上がっているのか……こんな自然現象が存在するとは……まさしく神の……」

 まさしく神の恩恵だ。
 グイドは心の中でヤコブスの言葉を引き継いだ。そして神がアルブスにこの場を提供したのだとしたら、アルブスはやはり神に愛されているので間違いはない。もともと人より長命を与えられた、他よりも特殊な種ではあるのだもの。
 ネロの背中を忠実に辿って歩いてみるに、この道は沼の中、ほんの数メートロ(メートル)の幅だけが天然の路面のようにせり出しているような箇所だった。ネロの歩き方から路面は少しうねってはいるが基本的には一本道。試しに道を外れていると判断され得る場所につま先のところで触れてみると、飾り皮のところがすっぽり沼に覆われた。道を知らない人間が偶然ここを見つけたとしても、一歩外れただけで結果こうなるわけだから、この広大な湖沼を渡り切るのは難しそうだなあとグイドは思う。
 ヤコブスがちらりと振り返ってこちらを見た。
 覚えたかという意味にとれたので、グイドは小さく頷いておいた。記憶力は、人よりほんの少しばかり得意とするところであるので。
 ネロが果てしないと思われていた湖岸の端にようやくつま先を触れたとき、木々で覆われて狭まった空の様相が赤みを帯び出していたことにグイドはようやく気がついた。長かった一日ももうそろそろ終わりを迎えようとしている……。トマス、ヤコブスの順で彼に続いて下草を踏み、それでグイドも名残惜しいながら渋々下草を配下に収めた。神の恩恵たる路面と湖岸とは少しの段差があって、ヒメカゼちゃんに手を貸して引っ張りあげていたのはおれらの首領だ。

「もう日が暮れる」

 とヤコブスが言う。

「道が見えなくなるぞ。もうすぐそこであることに間違いはないんだな?」

 質問の矛先はネロにあった。喋らない、或いは喋れないネロは頼りなげに小さく小首を傾げた後、ふと空へ目をやって、伸ばした腕で今後の太陽の軌跡を予言するようになぞって見せた。地平線に沈む太陽。ネロはそれ以上は何も示さず、『不思議の国のアリス』の森に拙い足を踏み入れる。

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