「本当に肝が冷えた。ネロに嫌われたと思った」 というようなことをカタリナ・モンターニャが言ったとき、さくらは歩きながらぱちくりと両目を瞬きさせた。拳より一回りくらい大きい石に這った緑色の苔に足を取られそうになって慌てて次の一歩を踏み出した。 ネロが言うとおり、ベレンガリアを応急処置するために立ち寄った森は目的地へ至る通過地点のようではあって、ネロと一緒に地理を確認したカタリナらと合流した後はそこから出ることはなく、ただ黙々と森の奥へと皆で歩き続けている。ネロを先頭に、時々列が崩れることはあってもマクシミリアヌスが最後尾を陣取っているのは変わらない。その腕にはまだくったりとしたままのベレンガリアが抱えられており、自然とそのすぐ前をさくらがとることも多くなった。 平行して流れる澄んだ川の流れに一時視線を落としながら、さくらもネロに目をやった。……頑なにしゃべらなくなってしまった、ということに関しては、さくらのほうもずっと疑問には思ってはいた。 「向かっているときから喋らなかったの?」 と聞くと自分から話題を提供したくせにカタリナは一瞬きょとんとして、「あー、いや」合点がいったようにからっと笑って否定した。カタリナの褐色の肌と金の額飾りに水面の流れが投影されて、神秘的な絵になった。 「一言二言は喋ってくれたんだよ。何かほら、言ったろ、金髪赤目の姉ちゃんに猛攻撃を受けてるときとか。あたしはネロが毒だって言ってくれなかったら、相手の属性さえも分かんなかったくらいだからさ」 その赤目の女の話は極簡単にはさくらのほうにも聞かされている。ベレンガリアの件もあり、それどころではなかったので、本当に掻い摘んで簡単に、だけれども。 「そのちょっと前にあたしがネロに酷いことを言ったからさ、それで嫌われたかとも思ってたんだけど……」 前方を向いた。下草を踏んで、四人の男が小柄なアルブスに文句も言わず黙ってついていく様を見た。ネロの身振りによる話では、遅くても夕方、日が沈む直前までには必ず村には辿り着ける算段らしい。相変わらず土色のボロい布切れをこの段になっても脱ごうともせず、髪と肌とを隠すフードは目深に被せられたまま。――まるで太陽までもが密告者であるかのように。 「サクラとも話そうとしないってことは、多分それだけが原因じゃないなあ……。話さないってよりは、話せないって感じだ」 「話せない……?」 でもそれはひどく奇妙なことだ。少し訛りと舌がもたついているような感じはあったけど、ネロは十分上手に異世界語を操っていた記憶がある。難しい言葉は分からないかもしれないが、「奥」とか「夕方」とか、そういう単語まで口にしようとしないのはあまりに可笑しい。 「それは俺も思っていた」 ……珍しくマクシミリアヌスがカタリナとの会話に割り込んできたことに驚いた。ガプサとの会話に、まさか茶々も入れてこようとしないとは。 「あの女の襲撃を受けてから、しきりに喉のところに手をやってえずきそうな顔をしているのに気付いているか?」頬をも覆う顎髭をしごきながら言うマクシミリアヌスに、「喉に何らかの細工を施されたってことかい?」「いや、あの女にそのタイミングはなかったはずだ。そういった魔術をかける暇があれば、俺が確実に女の懐に潜り込んでいたであろう」 ……この二人、いつの間に仲良くなったんだ……? ネロと三人で出かけるまでは、あれほど互いが視野に入らないようにし合っていたはずなのに。ここへきて仲間意識が芽生えたわけでもなかろうが。宗教問題はそれほど単純な物事ではないことを、さくらはよく知っている。 細い顎に人差し指の腹を添え、「うーん」とカタリナが考え込むように空を仰いだ。 「何か悪影響が出るものじゃないといいんだけどねぇ」 マクシミリアヌスがじっとりとした眼をカタリナの頭部に落として曰く。 「……貴様、あの女にあの子を売ろうとしていたくせによくもまあ抜け抜けと……」 「でないとどうしようもなかっただろ。あれと今とは話が別さ」 「変わり身の早い女だな……」 口中でチッとマクシミリアヌスが舌を打った。 ……仲が良い、というのは、少し言い過ぎだった気がする。 「まあともかく……」 というのはさくらが言った。 「今話し合っていても仕方がない。何らかの害のある魔術をかけられたのでないのなら、今出来ることは出来るだけ早いうちにアルブスの村に辿り着けるよう頑張ることね。ベレンガリアの件も含めて」 横抱きにしたベレンガリアを見下ろして、マクシミリアヌスが硬い声で「……そうだな」、というようなことを口にした。カタリナもそれに異論する様子は見られなかった。双方ともに、どうやらベレンガリアをこのような状態にまで追い込んでしまった非は自分にもあるのだと考えているらしかった。双方ともに、責任感が強いから。 ……舗装されていない路面は歩き慣れてないけれど。 頑張る、というのには無論自分も含まれていて、自分がわざわざ口に出して言ったからには勿論自分も頑張らないといけないのだ。 ……苔で湿った岩を踏む。 |
川面/声/アルブス |
ベレンガリアの容体を見るという名目で、ここで一旦休憩を挟もうという話になった。 水と木々の濃いにおいを肺に収めて、ふと、そういえばここに来てから随分と自然と親しくなったとさくらは思う。今元いた世界に帰ったところで、あの排気ガスの充満した世界に果たして適応することが出来るかどうか。と言っても人間は少なくともさくらが思う以上には頑丈で、一瞬違和感を覚えたとしてもそれもすぐに忘れていってしまうんだろう。まるでこの世界になど初めから来てもいなかったように。……それはそれで寂しいことだが。 川の流れに逆らうことで辿り着いたのがここだった。自然の湧水が溜まって出来たところであると聞かされた。都会に住んでいたさくらには見慣れないレベルの、そこそこの大きさを持った多分泉だ。両手で椀を作ってすくい上げてみると、混じり気のない全き透明の色が伺える。 ここで水を汲んでいく、ということだった。 「何より水は旅の中ではあまりに貴重であるからな。補充できるときに出来得る限り済ませておきたい」 と言って泉の水を一度舐め、それからマクシミリアヌスは水筒の一つに泉の水を補填していく。旅立ちの用意というのも満足に出来ていなかった中での出立であったので、ここでの水分補給は渡りに船だったということか。さくらのほうもここまでの旅で水筒の水を半分以上喉に流してしまっていたので、マクシミリアヌスと同じ要領で補填を済ますことにした。 とはいえ、アルブスの村に着くころまでにはいつかは水は補充できるだろうと皆が思っていたのも事実だろうとさくらは思う。村や街というものは、基本的に水に近い場所に極自然的に発生し得るものだから。 「ネロ」 自分の分と予備の分の水筒を潤わした後、偶然ネロと行き合ったので彼の名前を呼びかけた。 「……」 聞こえはしたはずではあるが、やっぱり無言で過ぎ去られた。 ……カタリナがしようとしたことはカタリナ自身の口から簡単になら教えられていたし、彼女の定めにもさくら自身、遅くなったとはいえ気付くことは出来たのだけど、やっぱり違う。それらを全て考慮してみても、ネロの行動に整合性がないと感じた。何かがおかしい。さくらは何かを見逃している。何だ? それは何だ……? 「姫さん」 右斜め下から急激に声をかけられて息を呑んだことで我に返った。 視線を振り向けた先でトマスが少しびっくりしたような顔をした。 「……そんなに驚かれるとは思っていやしなかったんですが……」 言ってバツが悪そうに首裏を掻く。 「何か考え事でもしてたんですかい?」 ちょいと聞かれてさくらのほうが言葉に迷った。考え事……と言われれば考え事だけれど……。 「……別に」 結局当り障りのない答えで誤魔化した。 「何でもない。そっちは?」 代わりに話題をトマスに振ると、然程大きくもない双眼を一時ぱちぱちさせて、多分無意識に左右を見渡してから。 「……いや、何も」 結局さくらと同じようなことを口にした。首裏に手をやってあらぬ方角に視線を投げつつ。 ……ただ、トマスの言いたいことはさくらにも分かっていたけれど。 「どうせすぐ追いついてくるわよ」 とさくらは言った。 「いつもそうだし。約束を破ったことなんて一度もないんだから、あれで」 まあ、ちょっとは遅れるかもしれないけれど。 でも、帰ってくるのは絶対に帰ってくる奴だから。 ……トマスが短く吐息した。 「マナカさんは強いですもんね……」 「……」 ……そうね、とさくらは口にする。 そこのところが心労の大部分でもあるのだけれど。……トマスの心労も、一定程度は長引きそうだと考える。 |