「すまん! 遅くなった!!」 駆けながらの大声で滑り込んできたマクシミリアヌスと、それからその後方で息を切らせてついてきていたカタリナに、その場の全員の言葉と空気が固まった。……ちくちくちくと米噛みが痛む。何だか一人、多くないかい? 「貴様――」 怒り心頭といった体で怒号を発しかけたヤコブスを「待ってヤコブス」彼の胸部に手を当てカタリナが制した。まだ息が上がっている。その片腕には、何故だか表情を硬直させた状態のネロが抱きかかえられている。……一体何があったんだ? とさくらは思った。並々ならぬ事態に陥っていただろうことは、先刻の火柱から見ても明らかだろうが。 よくよく見れば、マクシミリアヌスが抱きかかえている女の子は、つい数時間前にマクシミリアヌスの眷属を欲しがっていたお嬢さんだ……。 「話は道中歩いてする。今はとりあえず、このお嬢さんと一緒に行くことを許してほしい」 いつになく切羽詰まったカタリナの要望に、異を唱えられる者はこの場に誰もいなかった。 |
そして、遡行 |
とりあえずの応急手当として、患部を洗浄し傷口の上部を手持ちのタオルで軽く縛った。マクシミリアヌスとカタリナの話から毒による攻撃を受けたことは明白だったが、それがどういった類の毒か特定できないのが痛いところだ。患部は確かに腫れてはいるが、それが毒の種類を十分なくらいにまで狭めてくれるわけでもない。これらの指示を出したのはヤコブスで、応急処置の主要な部分も全てヤコブスが手がけてみせた。医術士に見せるのが一番いいんだと苦々しげに呟いていたのをさくらは聞き逃さなかった。 城壁の一部が取り外せるようになっていることをネロはさくららに示してくれた。始終何故か発話することを拒んではいたものの、実際に一つずつ煉瓦を取り外したネロの挙動と身振り手振りによってその意図は皆に伝わった。城壁を抜けて煉瓦を戻すのもそこそこに、ようやく彼女を安全に横たえ得る場所として選ばれたのがここ。チッタペピータの北西に広がる森だった。ネロの身振りによればアルブスの村まで至る道中でもあるらしいので、そうそう時間は食わないだろう。措置に少しの時間はかかったが。 「全く、厄介事を持ち込んでくれた……」 まくっていたワイシャツの袖を元へ戻して心底忌々しげに、疲れたようにガプサの首領は呟いた。今、毒を受けた彼女は穏やかではないにしてもゆっくりした呼吸を繰り返している。即死の可能性もあるとのことだったが、どうやらそれは杞憂で済んだらしかった。彼女に刺さっていたナイフはタオルで巻いて抜き取って、医術士に見せることも考慮して全体をくるんだまま鞄の中に収めている。アルブスの村にもきっと医術士はいるだろう……。横たわる彼女の右腕には、ヤコブスの手による包帯が巻かれている。 心持ちぐったりした様相で倒木に腰を下ろしたヤコブスを見て、さくらは口角を持ち上げて小さく笑った。 ヤコブスにジト目で睨まれた。 「……何を笑っている」 「別に。見殺しにしないんだと思って」 「それほど非情に見えるのか?」答えたのは煙草を咥えるひどく不鮮明な声。 「そりゃ」とさくらは即答した。「私とネロをわざわざ分けて計画を実行させた張本人だものね」 一瞬の沈黙。悪戯っぽく振り返ると、案の定ヤコブスは咥えた煙草に指を添えた状態で、明らかに心身を硬直させていたのであった。それを見届けて満足したので、改めて彼女に視軸を戻すことにする。ベレンガリア・ディ・ナンニさん。まさかこんなことになるなんて微塵も思っていなかった。十分経ったら腕の上部を縛ったタオルを一分間緩めるようにと言われている。恐らくヤコブスがそのために残っているのだろうが、この辺の地理に詳しくないさくらに出来ることはほとんどないので代わりにその役を申し出た。 後ろで衣擦れの音がした。 「いつ気付いた?」 「最初から。……と言いたいところだけど、火柱が上がった後、アンタたちと合流してマクシミリアヌスを待っているとき。もっと早く気付くべきだったなと猛省しているとこ」 「早く気付かれていてはこちらが困る。マナカが来ないことで君に動揺が走ったのを利用した。それでも気付かれていたのなら、ガプサの長の名が廃る」 甘い香りが鼻腔をついた。チョコレート様の香りのそれをいつも好んで吸うせいで、何も吸っていなくても彼の横に立つと甘い香りに包まれた。ガプサ、という呼び名を初めて耳にしたときにも知覚していた匂いである。 「ガプサって、どういう意味?」 ベレンガリアさんの浅い呼吸を聞きながら問いかけた。アルブスの村まで三十分はかからないだろうということを聞いているからこその、実に悠長な質問だった。後ろでヤコブスが怪訝そうに片眉を持ち上げたのを、目の当たりにしたかのようにくっきりと想像することは実に容易い。 「……唐突に可笑しなことを口にするな」 「ふと思い立ったから……。どういう意味?」 ――ふと思い立ったから、というのは多分嘘。無意識の底に沈めた本当の理由は何となくだが解ってはいた。何か口にしていないと思考が別のほうを向いてしまう。別のほうって、つまりチッタペピータに居残った異世界人の片割れに。 肺から強く、紫煙を吐き出す音がした。 「――ハラカラ」 ――短く告げられたその言に、相応しい漢字を当てはめるのにほんの少しだけ時間を要した。あまりに異国的な言葉のように聞こえてしまったものだから。ハラカラ、同胞――。紛うかた無く日本語だ。ヤコブスが紫煙を深く深く吐き出した。 「昔の言葉だ、ガプサというのは。昔、まだこの国以外に世界があることを知らなかった時代、船に乗ってやってきた異国人から伝わってきた言葉らしい。本来の意味を知っている人間は今では少ない」 「……でも、アンタは知っている」 ふっと、そこで初めてヤコブスは小さく笑った。いつもの片頬を歪めるような皮肉っぽい笑い方ではなかった。大切な何かを大事に開いて見せたような、短いが密で柔らかな笑い方――。そこに照れ隠しの苦笑いが入っていることに気がついた。 「先代に教え込まれた」 ……先代、という言葉を、つい最近にもヤコブスの口から零されたことをさくらは忘れていなかった。ヤコブスが今も大事そうに腰に下げている短剣の。……あれを見ながら使えるのかと聞いたとき、ヤコブスは“先代に習った”と言っていた。 ……ベレンガリアに視軸を戻す。 「前も思ったんだけど、先代って」 少し考えながら言葉を紡いだ。 「……“ガプサ”の?」 視線はヤコブスにはやってはいなかったけれど、彼が頷いたことは空気で察した。何らかのアクションをあちらの側から起こすときは大抵否定するときで、肯定のときは彼は無言でその意を表する。 「……そういえば聞いたことがなかった。“ガプサ”の成り立ち」 「話してもつまらんものにしかならんからな」 少し振り返ってジト目で見やった。仮にも自分が率いる組織の成り立ちを指して“つまらんもの”とは……「説明が面倒くさいだけでしょう」 ……どうやら図星で間違いない。漂う紫煙を隔てた向こうで、ほんの一瞬だけ彼が視線を外したからだ。根気強く待っているとやがて観念したようにあちらの側から口火を切った。溜息代わりの呼気を紫煙とともに吐き出して。 「つまらんことに興味を持つな」 「多分異世界人の特性よ」 「面倒くさくなった途端異世界人を引き合いに出すのをやめろ」 残念。心の中で舌を出す。マクシミリアヌスならこれで流してくれただろうに。 十分経った。 腕のタオルをほどいて緩めた。この状態で一分待機。 その間に、どうやらヤコブスは考えをまとめたらしかった。甘い香りが鼻腔を満たす。 「……何も俺たちはガプサという名の宗教をやっているわけではない」――気怠げで不明瞭な声帯で。「新教という名のくくりの中で出来上がった一集団。その一集団が勝手に名乗っている名が“ガプサ”だ。先代は俺よりもよほど派手な性格であったので、いつの間にかその名前だけが方方各地に広まった」 「新教の中の一集団……」 「どこかに固まってひっそりやれるほどの規模ではなくなっているんでな……昔はそれでも足りたらしいが。結果として、ソウイル教新教、同じ教えのもとに集った同胞諸氏は、スカッリア国のあちらこちらに散らばって数多の集団を作り上げることにした。俺はその当時まだそこにはいなかったから、人づてに聞いているだけだ。集団の数はまちまちで、二人だけの集団もいればガプサ、君のよく知る我々の集まりよりも多く集った集団も各地に存在している。皆各々の場所で同じ教義を心に掲げ、教会の弾圧を受けないよう地道に暮らしているというわけだ」 「そのうちの一つ……結果としてアンタが引き継ぐことになった“ガプサ”を立ち上げたのが」 「“先代”だ」 問いかけた言葉に被さるように男は言って、煙草の火先を上下させるように頷いた。その金の虹彩に煙草の光が小さな点になって映り込んでいるのをさくらは見る。目に焼き付けるというのではなく、自然とそれが脳のどこかを刺激した。 「それからずっと、ペシェチエーロのあの場所で、“新教の中の一集団”として暮らしている」 短くなった煙草を土と下草に覆われた地面に落とし込んでから靴底の面で丹念に丹念に火を消した。双眸に光は無くなった。さくらは次の言葉を飲み込んだ。 ――それで、先代は? ……というのは、あまり聞かないほうがいい話題だろうか。現時点でヤコブスが長として団員のまとめ役をしている以上、そこに何らかの別れがあったのは確実だ。良いもの、である確立は、限りなく低いだろうと姫風さくらは思慮をした。 ベレンガリアのほうに視線を戻した。 一分経った。 「……アンタはいつからあそこにいるの」 結局口にしたのは当り障りのない問いかけで、しかもベレンガリアの腕を軽く縛るために下を向いていたこともあってそれは不明瞭でぼそぼそしたものだった、とさくらははっきり自覚した。思っていたことと別のことを口にしたと安堵してよいものかどうか分からない。要らぬ気を使ったなと、悟られているかもしれなかった。 「ざっと二十年は前になるか」 「そんなに?」 流石に素で驚いた。見たところヤコブスは三十代後半はいっているように見えるから、……少なくともさくららの年代のころにはもう、既にガプサに入隊していたことになる。 ヤコブスが微かに笑ったような音がしたが、その微笑をさくらのほうは見逃した。呼気の感じから鑑みて、いつのもの皮肉っぽい微笑ではあったんだろうと推知する。 「そんなに経っていたらしい。気付かないものだな。聞かれて遡ってみるまでは」 「……」 その長い間をあの場所で過ごしてきたのか……。……、同情をしたわけではないけれど。不満を持ったわけでもないけれど。 だって何らかの感情を抱くこと自体、不適切であるようにさくらには感じられたのだ。 「……俺が首領を引き継いでから十九年になる」 少しくさくらは驚いた。 さくらが質問しないでも、自ら口火を切った。そのことに。 「十九年……そうか、そんなに日が経っていたか……」 ……しかしそれはただの独白であったらしかった。ヤコブスはそれ以上言葉を継ぎ足そうとはしなかったし、さくらも突っ込んで話を聞くことを躊躇した。 ……その双眼に映っているのは多分、さくらなどではなかったろう。彼が思い浮かべているのは過去であり、ガプサであり、そしてきっと“先代”だった。だから尋ねることを躊躇した。過去に浸ったその両眼を、遮って良いものだとは思えなかった。 「……さて」 ヤコブスが言う。 いつもと変わらぬ声色だった。 「そろそろ戻ってきても良い頃合いだな。用意を整えておこう。貴族の娘のことも含めてだ」 |