「マクシミリアヌスは!?」

 ヤコブスが肉付きの薄い片頬を歪めて舌を打った。さくらに対してヤコブスがこんな表情をしたのをさくらは見たことがなかったので、それはマクシミリアヌスに向けられたことだということを理解した。

「あー、じゃあやっぱりあれ中佐さんかー」

 緊迫すべきときに緊迫感の全く感じられない口調を発するのはグイドの専売特許である。膝に手をついて乱れた息を整えながら、さくらも上目遣いでグイドの見上げたほうを見た。――ついさっきまで火柱が天を貫いていた地点。あそこからここまで、目立つことも厭わずに三人揃って走ってきた。トマスとフゴも随分息が上がっている。実際のところ、フードを被った怪しげな集団が街を縦横無尽に走ったところで誰も気に留める者はいなかっただろう。門が崩れたことに加えてあの規格外の火の柱。当然のことだが街の目線はこの奇異な事態に釘付けだ。
 ヤコブスがまた忌々しげに舌を鳴らした。


「目立たんようにという簡単な指令も守れんのか、あの犬は……っ」

 マクシミリアヌスの側にはカタリナがいる。
 もっと言うと、さくらら全員をこの街から救出してくれる唯一の頼みの綱であるアルブスのネロまで共にいるのだ。マクシミリアヌスのことは眼中にないヤコブスとしても、この時ばかりは気に留めないわけにはいかないのだろう……。ヤコブスにとっては。
 さくらとしては少し違う。
 ――ディ・ナンニが、とさくらは火柱が貫いた天を仰ぎ見ながら思うのだ。

(……ディ・ナンニの件があってもなくても、この街の教会関係者しかいないであろうと油断できる場所以外でマクシミリアヌスが積極的に魔術を使おうとしたことは一度もなかった)

 断言。
 息が整いかけてきた。強く吸い強く吐く。

(……では、使わざるを得ない現場(・・・・・・・・・・)に立たされているということ……?)

 それはカタリナやネロも一緒か、あるいは関係するかしないのかすら遠く離れたさくらには推測するしか術はないけれど。
 ……真佳がいてくれれば、という思いを胸中に浮かべる前に飲み込んだ。考えるな……考えないようにするしかない。

「ヤコブス」

 ガプサの首領の名を弁ず。



インノチェンツァ>>潔白



 ネロを自分の背後へ押しやりながら、何でこんなことになってしまっているんだろうと冷や汗混じりに考えた。万が一の場合、サクラを守るためにネロを囮に仕立て上げるという役目は遣わされていたものの、順当に行けば何の問題もなく全員がこの街を脱出できるはずだった。少なくともカタリナはそう考えていたし、誰かが欠ける可能性があることなど夢にも思っていなかった(だからヤコブスには悪いけれど、ネロとの同行を命じられたときもせいぜい仲良くできればいいなと思ったぐらいで、囮の件に関しては、はいはいその時になったらねぐらいに頭で流していたんである)。
 背後から腕を掴んでくるネロの指先を感じ取って、更に後方へ押しやった。空(くう)を灼いた火柱は今は掻き消えているけれど、一部の尾根や煉瓦道には術師の炎に煽りを受けることで発した火の粉があちらこちらに舞っていた。魔術で発した炎は術師の判断で掻き消すことは容易だけれども、そこを火種に発した新たな火炎を、同じ術師の意思だけで消すことは不可能だ。世界に引火した時点で、それは術師でなく神の領域に成り上がる。
 住宅街という表現がしっくり来るが、どちらかというとここは使用人の宿舎であると“大鼻”のほうから聞いていた。住み込みで働くのでない使用人が、ここへ帰ってくるのだという。通路に入ってきたときは二階建てがその多くを占めていた。今は平屋が通路の両端を支配している。短い通路だ。この時間出払っている者が多いのか、あるいは第一級同士の抗争に恐れ慄いているのか知らないが、人が出てくる気配はなかった。幸いにして引火した火は微小である。あれならすぐに消えるだろう。
 ……第一級同士の抗争、とカタリナは論じた。
 事実それは第一級同士の抗争で間違いなかった。でなければ、カッラ中佐という人間がここへきて魔術を行使するとは思えない。それもあんな火柱を。……相当の危険が生じたはずだ。それがカタリナがここ三日で観察した、マクシミリアヌス・カッラという人間の性質。

「……驚いたな」

 とマクシミリアヌスは口にした。

「まさかこれほどの第一級がこんな街で燻っているとは思わなかった……。教会からの仕事か何かか? それにしてはあまりに聞いたことのない属性だったが」

 背に差した大剣は抜かない。カッラ中佐の緑眼は“相手”を射抜いていたので、カタリナも“相手”へ視軸を転じた。暗い色合いをしたマンテッロ(マント)のカップッチョ(フード)を目深に被った一人の男がカッラ中佐と正対している。カップッチョ(フード)のおかげで口元しか見えないが、線の細い細面の男らしいと推知する。

「……教会の人間が貴殿を攻撃すると、心の底からお思いか?」

 相手が口を開いたことでカッラ中佐と二人揃って目を瞠るはめに陥った――カップッチョ(フード)が相対する人間の頭部から取り払われて白日のもとに晒された顔容は、声と同様に明らかに女のそれだったのだ。癖の帯びた短く綺羅びやかな金髪を左側だけ耳にかけた、健康的な白い肌を持つ女。その双眼を見たとき二重の意味で目を瞠った。マナカと同じだ――アナウサギみたいな赤い双眼。見たことがこれまで一度もないわけでは勿論ないが、それでも十二分に珍しい。男であると最初に思い違えたのは、どうやら身長が女にしては高いせい。
 慣れているのかそれともそこはどうでもいいのか、こちらの驚愕はどこ吹く風で女が片目を細めて笑った。左右非対称の、あまりいい印象は受けない笑みだとカタリナは思った。

「裏で賞金首のような扱いを受けているらしいぞ、貴殿らは」

 忠告してくれた割には非友好的な物言いで、人見知りのネロでなくてもどうしても警戒心を呼び起こすような言い方だった。
――カッラ中佐が軸足でない左足を後ろへ下げたのを視認した。

「一体誰に雇われた? あるいは、“賞金稼ぎ”の真似事か?」
「人聞きが悪いな。親切に忠告してやったというのに」
「味方である可能性を真っ先に否定したのは貴様だが」
「違いない」

 女は口端を同じくらいまでつり上げて、やっぱり片目を眇めて笑った。――眇めていない右の顔貌に、額から頬までを貫いた細く赤い痕があるのに気がついた。傷の痕ではないと思う。多分ヴェルニーチェ・ヴィーゾ(フェイスペイント)で間違いない。
 ネロを後ろにかばったままにカッラ中佐に視軸をやった。――あの火柱が生成される直前、危険を察知したネロに引っ張られるまま、またこの大男中佐に押されるままに大きく距離を取らされた。未だカタリナはその位置から一歩も動けないままでいる。
 ……唇をしめした。

(……ヤコブスに知らせるか?)

 いや……カタリナだけ駆けて助けを呼ぶ、或いは危険を知らせたところで、首領やサクラの居場所を知られるリスクが増すだけだ。何とかして先に街を出てもらえるのならそれに越したことはないが……。
 そこまで考えて、背後に確かに体温があることを思い出してしまった……。ネロがいなければ外に出る術はない。抜け道があるということと、そこからアルブスの村に辿り着けるということでネロに案内役を任せたのだ。ネロ一人を行かせるわけにも先述の理由で勿論いけない。
 ――万が一の場合、サクラを守るためにネロを囮に仕立て上げる――。
 自分のもう一つの任務を想起した。

「……そこで引いちゃくれないかな、お姉さん」

 全員の視軸がこっちを向いた。
 嫌だなあ……。せっかくネロもここに隠れてくれるくらいには、(少なくともカッラ中佐と比較して)自分を信頼してくれるようになったかなとも思ったのに。

「仕方ない。アルブスはあんたに引き渡す」

 ――こう言ったとき、背後の体温がぎくりと身を強張らせたのは敢えて気付かないふりをした。中佐殿が今聞いた言葉に確信が持てないような顔でこっちを見ている。どういうことだ、とその顔貌が何より如実に語りかけてくる。カタリナのカミーチャ(ワイシャツ)を握りしめる手がそろそろという具合に緩まった。――溜息。

「アルブスを取り返しに来たんだろ? だからそれを明け渡す。そしたらもう、あんたらはあたしらを追い回す必要はないわけだ。あたしには正直、この坊やよりも守らなきゃいけないものがいるんでね。そっちを守れるっていうんなら、文句なくこの子を手放すさ」
「貴様……」

 カッラ中佐が引き絞るような小声で言った。甘いな、あんたは。本人の姿は見ないままに心の中で呟いた。目についたもの何でも、手当たり次第に護ろうとする。護ると決めた人間が護りたいと考えたものまで護ろうとする。それじゃあ何も成就しない。それでは誰も護れない。
 ――だから多分、ヤコブスと中佐は相容れないのであると思う。
 ヒメカゼ・サクラを護るためにアルブスを売る。
 これはカタリナだけでなく、ガプサ内ヤコブス一派の総意である。

「勘違いさせちゃったようなら申し訳ないのだけど」

 例の非対称な微笑でもって、変な抑揚をつけながら女は言った。

()としてはアルブスとか賞金とか、何一つ興味がないのよね。さっき誰に雇われたかって聞いたっけ? 教会の人間じゃない第一級がこの街で飼われてる。その発想はいいと思う。何一つ間違ってはいないもの。でも、あの人のためだけに貴殿らに声をかけたわけではないんだなあ。()としても、貴方たちにちょっとした用があったんだ」
「……用?」

 不信感を露わに問うと、赤い双眸を微かに細めてマンテッロ(マント)の女は僅かながらに頷いた。

「僕と勝負をしてくれないか」

 中佐があからさまに顔を顰めた。何を言っているんだこの女はと思っているのは間違いないし、カタリナだってこのときばかりは同じ気持ちを心に抱いた。ふざけたことを……。さっきの火柱は否応なしにこの街の全ての人間の注意を集めた。アルブス目当ての人間がここへ来るのも時間の問題に違いない。……サクラの安全と引き換えではないのなら、この切り札を他者に譲り渡す気は毛頭ない。

「……一体何を言っているんだ。何のために?」

 と問うたのは中佐のほうである。

「何のために? それが一番明確な事物では? アルブスを懸けて。あるいは、貴殿ら二人の命を懸けて」

 カッラ中佐がほんのちらっとだけこっちを向いた――。「俺には分からんな」努めて硬い声音で中佐は言う。

「俺は賛同はせんが、アルブスは引き渡すとそこの女は貴様に言った。互いの利害は一致しているのではあるまいか? 賛否はともかく、大人しく譲り受けていればそれで済む話だろうに。それにまた、あの女の命を護ってやる義理は俺にはない」
「ならばせめて自分の命のために戦うのだね」

――大男中佐が眉を顰めるまでに時間が要った。後ろではアルブスの少年が、どう対応すればよいのか錯乱しているのだろう、カタリナの服の裾を強く握ったり、ぱっと離して距離をとろうとしてはまた強く握ってをさっきから忙しげに繰り返していた。気持ちとしてはカタリナも同じだ。自分がどういう対応をすればいいのかが分からない……。

「分からんな」

 マクシミリアヌス・カッラ中佐が代弁するようにそう言った。

「殺す必要も戦いを挑む必要もない相手に戦いを申し入れるなど。まるで戦いたがっているだけの戦闘狂だ」
「そうだよ?」

 ――左右非対称に女は笑った。

「戦いたがっているだけ。戦闘狂かどうかは貴方の判断に委ねる。僕はそうとは思わないもの。力試しして頂点に立つというのは、生物として当然の本能だとは思わない?」

 思わない?と聞いておきながら、「ああ、いや、同意は求めていないんだけど」次の瞬間には自らのプント・インテッロガティーヴォ(クエッションマーク)を否定した。イマイチ読めない相手であった……。読めない相手ではあったが、一つ、彼女と戦って勝利する以外に先に進む術が無いことだけは理解した。奴は“命”とまで言ったのだ……逃亡を図って後ろを見せた途端にぶち殺されないとも限らない。流石にそれを試すために自らの命を危険に晒すつもりもない。

「……あたしはここで待機でいいのかい?」

 溜息をついて進言したらネロが伺うようにこっちを向いた。……カップッチョ(フード)の影から見えるペリドート(ペリドット)の双眼から意識的に視軸を逸らした。それ以外に相応しい道は、カタリナには見つけることが出来なかったのだ。

「うん、勿論よ。第一級じゃない人間と戦ったって、結果は目に見えているものね」

 存外あっさり開放されたことにほっとした。戦いなんて面倒事などやっているような暇はない。どうやら彼女の興味はカタリナには注がれていないみたいだし、もし負けるなんていう最悪の場合は中佐を置いてアルブスと二人で逃亡するというのも……。

「モンターニャ、貴様……」

 最も割りを食ったマクシミリアヌス・カッラ中佐が額に青筋を浮かべながらこちらを見ているのに気がついた。まあまあそういうことだからと笑顔で煽れる状況ではないのでここは手を振るだけで留め置いた。しつこいようだが自分たちには時間がない。カタリナやネロもそうではあるが、あまり足止めを食らいすぎれば今頃合流地点に辿り着いているであろうサクラのほうにも危険が及ぶ可能性が高くなる。

「くそ忌々しい……待っておれよ、先に行こうものなら貴様を追いかけることで戦の地をごっそり移動させてくれる……!」

 ……存外に大人気ないんだな、とカタリナは思った。
 中佐殿の抜いた刃が神の恩恵にひかめいた。

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