姫さん、つまりサクラさんが外套のカップッチョ(フード)を被った状態で宿から降りてきたとき、特別の理由はないがフゴは何となくほっとした。ほっとしてから気付いた。自分は姫さんがそのままどこかへ、(マナカさんを捜しにどこかへ)行くんではないかと心なし信じていたらしい。

「――ヤコブスとグイドは?」

 小さな声で彼女は聞いた。
 目立たないよう別れて出ることを提案したのは彼女のほうで、その先鋒に当首領が立候補したのだ。先鋒を買って出るということは、状況も分からない街の様子を偵察するという責務を負うも同義であり、そこにフゴが異を唱えようとしたところで“樽腹”グイドが付き従うことに挙手をした。そこまで決まってしまったからには“うちの首領”が引き下がるわけもなく、それ以上の発言を差し控えさせていただいたのだが……。
 ……姫さんが片眉をちょいと跳ね上げて先を促しているのが見えたので、慌てて直前の記憶を掘り起こした。

「えーっと、今のところ問題ないです。連絡は特に受けてません。俺たちもこのまま進んでも大丈夫かと……」
「そう……。ネロも上手く抜けてくれればいいけど」

 先鋒は我らが首領ヤコブス・アルベルティと“樽腹”グイド、次点が自分、姫さんと“大鼻”トマスであり、時を同じくして裏口から発進するのがマクシミリアヌス・カッラ中佐率いるアルブスの少年と姐さん、もといカタリナ・モンターニャさんである。アルブスの少年と離れることに姫さんは眉を顰めたが、異世界人とアルブスは離したほうがいいということを説明されて言葉を呑んだ。フゴとしても言いたいことは山ほどあったが(何で教会の中佐が姐さんと同じ組に入ってるんだ?)、全体のエクイリーブリオ(バランス)を考慮したと言われてしまえばフゴに何か言葉が出せるわけもない。何よりこの布陣を提供した首領が誰より不満があるはずで、それでもなお“姫さんと(せいぜい)アルブスの子どもを安全に運ぶ”というミッスィオーネ(ミッション)を遂行するため私情を抑えられたというのなら、フゴとしてはあとは付き従うよりほかはないわけなのである(それに関してはカッラ中佐も、恐らく同じ意味合いで了承したものと思われる)。
 ……フゴとしては困ったのは、その時もそうではあるのだがそれより前、先述した、首領が先鋒を買って出たときのこと。
 ……視軸を彷徨わせて“大鼻”トマスを盗み見た。
 何か考え込むように黙ったまま、姫さんが降りてきたときも会釈しただけでこれといった応答が全くといっていいほど見られない。
 あの時――首領が先鋒に就くと言い出しグイドがそれに追従する形になる直前、通常だったら真っ先に声を上げるべく口を開くのはフゴではなくトマスの役目のはずだった。実際いつもの通りそうなっていればフゴが言葉を差し控えることもないはずで、もしかしたら首領も思い直して別の誰かを指名してくれていたかもしれなかったのだ――本来であればその任は、トマスのほうが適役であったはずなのだから。
 そんなトマスがどうもナマクラになってしまった。
 多分にそれだからこそ、首領も敢えてトマスにその任を任せることはしなかったのだろうと今なら思う。
 トマスに何があったのか、ということの原因は、明らかであろうとも思われるのだが……いや、しかしそれにしたって……。
 一体全体、どうしてトマスはこうなるまでの結果に導かれることになったんでしょう?

「フゴ」

 姫さんに呼ばれて正気に戻った。
 横目を投げた彼女の視軸の先を辿って、漸く規定の時間に近づいていることに気がついた。残り数十秒というところ。カップッチョ(フード)を被って目線を隠した。

「“大鼻”」

 と呼んだか返事がなかった。

「トマス」

 煙草の火先が上下した――教会ご用達とはいえ一応は宿なので火気厳禁とまではいかないが、治安部隊員よりかは教会行政員の利用が多いためそこそこ目立つ。教会行政員、特にチッタペピータなんていう貴族の街にやって来るような連中はその大体が往来での喫煙を嫌うものだ。これだから喫煙スペースも設けられない庶民は……とかいうようなことを思われているかどうかは知らないが。

「あー、うん」

 ちらっと見て、水属性であることは理解した。
 トマスの外套の下に仕舞われた、よれた革製の魔術布だ――アネロ・スケーダ(カードリング)に綴じられたそれでで煙草の一端を鎮火させていたので、水であることはまず間違いなかったろう。フゴがヤコブスのコムニタ(コミュニティ)に入ってから幾年かが経っているのは間違いないが、そこに綴じられた魔術式を全てを知るには及ばないのではなかろうか。小火を消す程度の魔術式ならそれこそ何度もチラ見してはいるのだが。
 フゴや姫さんとは対照的に、トマスはカップッチョ(フード)は被らない。三人が三人ともマンテッロ(マント)で顔を隠すというのは、あまりに不審極まりないので。うち顔の割れていないどちらかがその任を担うに至り、結果トマスが顔を晒すことに何らの交渉も衝突も湧き上がってはこなかった。フゴにしろトマスにしろ、それは瑣末なことだったので。姫さんさえ無事であればというのは二人の共通認識だ。
 煙草の吸い殻を外套のタスカ(ポケット)に落としながらのトマスに続く形でフゴもつま先の位置を切り替えた――三時四十七分、首領と“樽腹”グイドが出てからちょうど二十分と一分後。どちらかからの通信もなく危険である可能性はほぼほぼ無い。もう少しで四時になる――ということに気付いて溜息をつきたい心情だった。そろそろ飯時だっていうのに……。教会ご用達とはいえチッタペピータの宿である。どれほどのものが食べられるかに、フゴだって淡い期待はあったのだ……。
 三時四十八分。晩飯の目処は立っていない。



そして世界はアッロスト



 チッタペピータ門、西門。そこで首領やフゴと落ち合うことになっていた。カタリナ率いるほかの二人もそちらに向けて今歩いているところだろう。ほぼほぼ中央に当たる宿ではあるが幾分か(というのは教会行政塔よりはという意味ではあるが)西に分類されるので、幸いなことにほかの門より近いとは言える。

 街には誰もいなかった――動こうとする者は誰も。多分に大部分は家に引っ込むことを選択したのだと理解した。誰もが我先にと押し合いへし合い、中途で転んだ子どもや女は踏み潰されて街の門扉に街中の人間が一直線――という光景を本当に想像して身構えていたわけではないのだが、これはあまりにも予想外だった。東西南北四つの門扉に上がる砂埃も今ではすっかり落ち着いて、あれだけ騒然としていた空気が今や騒然を通り越して気怠げで冷ややかなアトモスフェーラ(ムード)に入れ替わっている。……長い間を経て培われたガッダ卿への従属意識はこれなのだと、誰に言われたわけでもないのに心の中で確信していた。卿が門扉を閉ざすならそこに閉じ込められたままでいるよりほかはなく、鉄槌が下されるのならそれに身を任せる以外に道はない。どこかで不安を煽るひそひそ声と、誰かのすすり泣きが聞こえていた。姫さんの安全がすぐに脅かされないことに神に感謝するべきときなのかもしれないが、恐怖は植わっても安心はとても感じない。姫さんのことがなかったとしてもすぐさまここから出たいと思う。煉瓦を踏む。……嫌な雰囲気だ……。
 チッタペピータ中央区に属する行政機関塔を仰ぎ見たのはどういう理由からだろうと考えた。……先に姫さんが一瞥するのを見ていたからだ。物理的な高低差は別にして、確かにあそこだけは街の怠惰な様相に相対するように白熱した雰囲気を漂わせている気がする。富裕層でも何でもない対旅人用の商人を除けば、この状況から何とか抜けださねばと足掻いているのは多分恐らくあそこだけ。
 いや……。
 自分たちもいるか、と誰にともなく呟いた。我々は、特に何より姫さんだけは、何がなんでも誰より早く外に連れ出して差し上げなくては。微弱な静電気が何かの拍子で擦れて発火し街中の人間がアルブスを、それに付随する姫さんとを捜し出さんと躍起になるのにどれだけの時間がかかるか分からない。
 もしものときはアルブスを囮に使うということは、姫さんには言ってはいないがガプサの間では暗黙の了解になっていた。実際にフゴらが何かを言ったことはない。ただ、首領の決定に何も意見をしなかった。分かっていながらとめる言葉はかけなかった。姫さんに対する十分な裏切り行為である。今頃アルブスは姫さんと同時期に姫さんとは別の道を西に向かって歩いている。それでいい。もしものときは姐さんが――。
 マンテッロ(マント)の裾をつんと引っ張られたことに、思わず声を上げかけた。姫さんの側だったのだ。姫さんへの裏切り行為に思いを馳せていたところに姫さんからのそのアッツィオーネ(アクション)は心臓に悪い。
 し、とたおやかな人差し指が彼女自身の魅惑的な唇に当てられたことに、否応無しにどきりとした――「げ」と次にトマスが言葉を漏らしたことに眉根を寄せた。その視軸を辿ったフゴのほうも、同じ一音をうっかり言葉に出しかけた。

「金持ちのお嬢さん……」

 ベレンガリア・ディ・ナンニと言ったっけ?“大鼻”トマスを見送ってマナカさんとで正対した際の悪い印象しかフゴにはない。
 トマスが口の中で舌を打つ。

「そうか、あの親父さんは……」
「彼女のお父さんが、何?」

 極小の呟き声を姫さんに聞き取られたことでトマスのほうが若干慌てた。「っと……」一度姫さんのほうへ視軸を移して、それから苦いものを含んだ視線を富裕のお嬢様に投げかけた。

「伯爵だって聞いてるんですけどね……。正確には彼女のお爺さんですが」
「伯爵……」
「爵位の序列で言うと、まあ上から四つ目、下から三つ目ってとこですか。大公の位が許されてるのはガッダ卿くらいのもんですが……まあ、一応中の下ってとこですかね」
「その伯爵が、何?」

 吐息するように甘く吐かれた姫さんからの問いかけに、“大鼻”トマスは心底苦々しげな目つきでディ・ナンニ嬢を見直してから、

「ぎりぎり話し合いに参加できないんです。行政機関塔の最上部では……」

 小さな声で言って一度周囲に視線を走らせた。

「いいですかい、今現在ガッダ卿の件で話し合われているのは、最上部での話し合いです。伯爵より上の、公爵と侯爵の位を持った人間しか参加できない決まりになっているんでさあ。公爵、侯爵はその昔、王というものがあった千年近く前の時代に王から特別の権利を受けた連中だけがなれる位であって、ディ・ナンニはたしかあと数年というところで侯爵の位を逃していたと思いやすね。今回の話し合いでもあとちょっとで参加できるってところを逃したはずで、これは俺の想像ですが――歴史や年数によって位が定まっている現状に相当不満を持っていて、虎視眈々と陞爵の機会を伺っていると思われやす」
「……それが何か問題が?」

 姫さんが眉根を寄せて尋ねた言葉はフゴも考えていたことだった。爵位のグラード・スペリオーレ(ランクアップ)を狙っている、結構。で、それが今自分たちの行おうとしている事柄に絡み合ってくる事実でも?
 トマスが長く吐息した。

「爺さんが関わってるかどうかは定かじゃありやせんが……」

 というのを一度前置きした後、

「……爺さんの意思を汲みとって、孫のほうが単独で陞爵の機会を得るためにガッダ卿に取り入ろうとしてるってえのは考えられます。……性格的に」

 えらく説得力のある言い様だな、とフゴは思った。ディ・ナンニ嬢の性格は、マナカさんと共に応対する羽目に陥ったフゴだって十分すぎるほど知っている。
 神を愚弄する言い様……。今思い出してもあまり対面したい相手ではなかった。

「遠回りしやすか?」カップッチョ(フード)を目深にかぶりながらトマスが言った。対ディ・ナンニ嬢となれば全員が顔を隠したほうが確かにいい。
 壁際に後じさりながらカップッチョ(フード)の隙間から姫さんが応対。「……行ける道を知っている?」
「いくつか」

 そうしてトマスは頷いた。この場合の“行ける道”とは恐らくというか確実に姐さんらの道筋とは別の道であり、且つ出来うる限り最短で西門に辿り着くための道である。
 薄く桃色に色づいた唇を彼女の舌が湿らせて、それがあまりに艶めかしくて慌てて視軸の先を外へ逃がした――その矢先に見た光景に思わず思考と目とを奪われた。
 ドッ……という物凄い音をおっ立てて、街中に火柱が突っ立った。街中に。人が普通に生活している、この街中の一画にである。高濃度の熱量の塊がここにまで風を巻き起こし熱に染まった空気が肌を舐めるように撫でて往く。東と西とをほぼ一直線に繋ぐ中央道路を基準にして正反対。インクで点を打った後、一枚の用紙を丁度半分に折り曲げてみたら対称となるそこにも同じインクのシミがつくように、南側にその火柱は破格の勢いで突き立って、……そして何事も無かったように消え去った。なだらかに漂っていた白雲が熱風でもって形を変えて、かつてあったその場所を遺すかのように円を描いた。それだけだった。

「マクシミリアヌス!!」

 最初に喜色で声帯を震わせたのはくだんのお嬢さんだけだった。
 火柱の立った方向から視線を離して、互いの顔を見るのでさえも時間が要った。

 TOP 

inserted by FC2 system