目を開けた途端さらっと滑る感触が腕を走った。虫か何かかと思ったらどうやら違った。黒いフリフリの服の袖……。黒いフリフリの服の袖? 何でそんなもの。唐突に意識が覚醒した。
 真佳が尻をつけていたのは正確に切り取られた石が敷き詰められた冷たい床で、真佳が背を預けていたのも同じような壁だった。端に質素なパイプベッドがある。足の片側が半ばで折れて無残に傾いだ実用性には程遠いベッドであった。積まれたマットレスも、使うためというよりは古びて使わなくなったものを適当にほっぽり置いているだけという感じ。正面には鉄格子がはまっていたが、扉は限界まで開いていた。南京錠はぶら下がっているだけだった。
 ……どう贔屓目に見たって牢屋か何かに違いないのに、真佳の自由を拘束するものは何もない。手錠も足枷もされてなかった。おかしなことは真佳の服が突然フリフリになったことだけで、何らかの罠が潜んでいる様子もない。……何でこんなところにほっぽり置かれてるんだ……?
 立ち上がってみる。服は地肌の上から普通に着せられているようだった。下着はそのまま。短パンがないので足のところがすーすーする。ゴシックロリータ? 鏡がないから分からないが、見た感じ人形の洋服みたいな服だった。何のためにこんなものに着せ替えられているのか疑問だし、誰が着せ替えたのかというのも謎。

「…………」

 しばらく待っても王様みたいな悪役が「目が覚めたようだね」とか言って出てくる気配もしなかったので、仕方なく自分で開かれたままの牢を出た。
 左右に伸びる廊下に沿って同じような部屋が幾つか並んでいるようだったが、ちょっと見回しただけで外に出るための階段はすぐ見つかった。左の突き当たりがそうなっているようだ。窓は見当たらなかったからそうかもしれないと思っていたが、どうやらやっぱり地下らしい。牢屋は地下にあるべきというセオリーをちゃんと分かっている家主のようだ。廊下を渡るとひたひたとした音がした。足元が冷たいなと思っていたら、どうやら靴が履かされていない。全くの裸足である。これで今すぐ外に出るわけでもなかったので目線で確認しただけでほっといた。
 さて……。
 ここがどこかは分からなかったが、想像することは容易かった。富裕の町チッタペピータの街外れにあるガッダの館。絵画に描かれたモノが主であるとまことしやかに囁かれる怪奇の館に、招待を受けたはずの真佳がこうして玄関以外の場所を初めに知覚するというのは何とも奇妙なことだけど。
 主の心境が変わったか、あるいは状況が変わったか……。でも拘束も何もされてないしなあ。後ろに流されたままの髪を揺らして小首を傾げる。
 ともあれここがガッダ邸なら、不都合は何もないわけだ。どうせ最初からガッダ卿に会いにここまで来たわけだから。真佳にわざわざ接触してきたガッダの男に。
 階段を上りきった先が広いホールになっていた。見覚えのある装飾の施された大扉が右端に設置されているのを確認する。……ガッダ邸の玄関扉に手をかける直前に意識を手放したことは覚えていた。材質自体はどうということはないが、あの模様は見覚えがある。最後に見た玄関扉で間違いない。ということは、ここは玄関ホール? 牢の出入り口が玄関ホールに繋がっているとは思っていなかったので、ほんの少しだけ力が抜けた。
 絨毯も何もない広間であったので大理石の整頓された冷たさが直に足裏を伝ってくる。スカッリアには家に入るとき靴を脱ぐという習慣がない。普通ならここは、靴を履いたまま通過するのが道理なんだ。
 出入り口は玄関以外にはほか五つ。うち真佳が入れられていた牢屋に通じる扉を除くと四つになる。真佳の正面に一つと、玄関扉を背後に陣取って見て左右対称に上階へ伸びる階段の下、一階中央に一つ。玄関ホールを囲うように設けられた、吹き抜けになった二階の通路の端に一つずつ。牢屋に通じる扉のほうは木が腐ったのか何なのかあるべきはずの扉が取り外されているけれど、ほかにはちゃんと戸があった。玄関扉と同じ文様が刻まれている――観覧車みたいだ、と真佳は思った。円形に並べられた六つの円が、中央から伸びた直線に繋がれている……。家紋だろうか……?
 二階の壁に吊るされた絵画が否が応でも視界に入った。
『玄関ホールに粛々と飾られた肖像画――』
 ――トマスの声が記憶を呼び覚まして鼓膜を叩く――。
『状態から百年は経っているに違いないその絵に描かれた青年と瓜二つ。まるでその肖像画から人物だけが忽然と姿を消し去って、この世に現れたみたいだったと』――。
 真佳が両手を極限まで広げてようやくギリギリ両手の指先が横の縁に届きそうな大きさの、とてもとても大きな長方形の肖像画だった。畳何畳分になるんだろう。大分窮屈になるけれど、この上だけで生活することはきっと恐らく可能だろう。
 何も描かれていなかった。
 もっと具体的に言うならば、どこかの部屋の壁と窓とが描かれているだけの絵画であった。誰かが座るための椅子は中心に用意されているにも関わらず、そこには誰も座していない。もぬけの殻。
『まるでその肖像画から人物だけが忽然と姿を消し去って』――。

「そこは私の部屋の一画だ」

 ……背後から聞こえてきた声音には、真佳は驚きはしなかった。裸足であるというのは時に武器になることもある。気配は微塵も感じなかったが、歩み寄る靴の振動だけは真佳の足にも届いていた。……一筋縄ではいかない人間が来ることは想定していた。振り返る。一人の男がそこにいた。
 ……肩を竦めてとても綺麗な顔で綺麗な、神々が真実の美を求めて計算尽くした結果みたいな非の打ち所のない、だからこそ心には響いてこない綺麗な微笑を、男は見せた。

「招待したくせに迎えが遅れて失礼したね。先に君に忌憚なく屋敷を見てもらいたかったのだ。玄関間も肖像画も、私と一緒に入ってきたのでは君の心に霞がかかってしまうだろう? 私という存在が邪魔をして」
「……私を眠らせた?」

 後頭部あたりに手を触れながら確認してみた。自分の口上を無視されたことに対して男は何ともダメージを受けていないようだった。ただ単純に楽しんでいるだけのようだ。芝居がかった言い方も、真佳の何らかの反応も。
 目が覚めたときも今も、頭に痛みは感じなかったので薬か何かを嗅がされたんだろうと思った。でなければ、さて入室という段になっていきなり意識をもぎ取られる道理がない。

「さて、何だったかな。大分昔に薬草師に作ってもらったことがある。何かの薬草を混ぜたとは言っていたけれど、詳しいことは忘れてしまった。それなりの効果が期待できればそれで良かったもので。麻酔にはよく使われていたらしいんだが」
「……」

 よく生きていたな、自分は(間違えて毒薬を持って来なくて本当に良かった!)。
 それから次に後頭部に当てていた手をそのままずらし、髪を巻き込みながら米噛みに指先を押し付けた。小首を傾げる。とても良い切り返しを考えついた。

「それって何百年前の話?」
「世界が始まる前かもね」

 ……簡単には運ばないことを覚悟した。



ファン・ド・シエクル



 ちらっと一瞬こっちを見やって一瞬そらして、またもう一度こっちを向いた。


「……本当にいいんですかい?」

 トマスにしては一瞬聞き逃しそうなくらいの小声であったが、閉じた窓からこもった音が聞こえてくるだけの屋内ではそれはクリアに聞こえた。「何が」とさくらは、港町スッドマーレからこっち旅支度として入れておいたマントを頭から被ってフードを下ろしながらひどくおざなりに回答を返す。

「何がって、マナカさんのことでさあ。最初にここを異世界と認識したときは、マナカさんがいるかもしれないって聞いてひどく心配してたじゃねえですか……本当に置いていっていいんですかい?」
「別に一生置いていくわけでもない」
「にしたって、不自然すぎやせんか……。フゴの話じゃ、突然行くとこが出来たってどっかに走って行っちまったって話でしょう? 追いかけたフゴがすぐ見失っちまうぐらい急いでたっつう……。何かの罠におびき寄せられたんじゃないかって――」
「だとしても、ここで捜してるわけにはいかない」

 マントの裾を翻す。旅をするならマントは必需品だと旅の初めにマクシミリアヌスが助言した。防寒具にもなるし、また、寝袋があればそれに越したことはないが、万一なかった場合にマントに包まって眠ることも想定して持っておけと入れられた。実際チッタペピータ到達前の想定外の野宿において早速活躍してくれた頼りがいのある代物だ。夜になると冷える冷えるとは思っていたが、その中で寝袋なしで眠ることがあれほど難しいものだとは思わなかった。マントが無ければ一体どうなっていたことか。
 これから行く場所には寝袋を持っていかない。
 というか、嵩張る荷物はなるべく置いて行くようにとマクシミリアヌスとヤコブスから指示を受けた。道中の道のりをネロは言葉で説明しようとしなかったので、これからどこへどこまでどういう方法で行くか全くもって不明である。唯一の手がかりはネロの軽装くらいのもので、出来るだけそれに沿うようにということになっていた。さくらとしても異存はない。そもそも異存を抱けるくらいの旅に対する知識もないが。
 ……。
 ……――。
 トマスの言い分も尤もなのだ、とさくらは思う。全く……。こういう並々ならぬ事態においてあいつはどこをほっつき歩いて何を考えているのやら――。



「マナカがどこかへ消えただと!?」

 フゴの説明を受けたとき、まず真っ先に声を――文字通り――張り上げたのは、当たり前のようにマクシミリアヌス・カッラであった。ひゅっとフゴがガタイのいいはずの両肩を竦めて、糸目の双眸で、多分恐る恐るマクシミリアヌスを仰ぎ見た――そのときのマクシミリアヌスは声を上げると同時に椅子を蹴倒したまま屹立していたので。

「どうやらそのようで――というか、俺はまずそれは首領に報告しようと、」
「何故追いかけなかった!」

 ローテーブルを拳でもってドンと叩いて一喝。この時も一瞬フゴはひゅっと首を竦めたが、流石に話を聞かない一方的な物言いに不平は心に抱いたらしい。若干唇を尖らせてから不満気に。

「そりゃ追いかけましたけど……。すぐに離されたというか、気がついたら見失ってたんですよ」
「気がついたら?」

 そっちに反応したのはヤコブスのほうで、マクシミリアヌスは片方の眉をつり上げてこの場では彼に言葉を譲った――譲った、というよりは、続いて言葉を投げかけることで客観的に見て協力して聞き出しているみたい映ることを避けたかっただけだと思う。
 フゴが漸くヤコブスの方向に――マクシミリアヌスとヤコブスはローテーブルを挟んで対角線の両端に当たる位置、そこにわざわざ椅子を引きずって来て座っていたので。こうまで顕著だと、気を使う気も無くなるというものだ――体ごと向き直って「はい」と肯定の言葉をつく。

「目の前を、霧みたいのが一瞬出てきたようにも見えたんですが……」

 椅子に深く腰を下ろして腕を組んだまま、ヤコブスは片眉をほんのちょっとだけ跳ね上げた。――どうも要領を得ない。
 結局もう一度恐縮げに肩を竦めただけでフゴの言葉はそれ以上先に続かなかった。ヤコブスがついた溜息の意味を知ったらマクシミリアヌスがどう言うか……。多分恐らく、どうしようもない女だなみたいなことを思っていると思うので。さくらだって同じ理由で息を吐きたい。

「どうするんだ?」

 ……それがさくらに向かって言っていることは明らかだった――まさかヤコブスがマクシミリアヌスに意見を求めるわけはなく、ガプサの長である彼が今後の方策を抽象的なまま部下に丸投げすることはあり得ないからだ。
 ……息を吐いた。
 どうするって、やるべきことは決まってる。

「アルブスの村に向かいましょう」
「って、いいんですかい!?」

 ――このときも、真っ先に声を上げたのはトマスだったと記憶している。随分真佳を気にかけてくれているらしい。こと異世界人においてはさくらを中心として考えるきらいがあるガプサの中で、それは比較的珍しい部類の人間だ……。

「それしかない。時間がないの。ガッダ卿に献上されるはずだったネロが今ここにいて、門戸が破壊されたことがガッダ卿の仕業だとこの街の人たちが信じている以上……」

 ちくちく痛む米噛みを押さえた。この街の子どもを献上しないことに怒った、と宿前の人間が判断しているらしいことはフゴから聞いた。しかし彼は続けてこうも言っている。『だからよそから子どもを調達することには反対だったのに』……。
 この街の人間、どうやら一枚岩とは言いがたい。ネロを明け渡すことに反対する者も賛成する者もいた。では、今回のこの件が、“献上されるはずだったアルブスをよそ者が略取したことで(・・・・・・・・・・・)ガッダ卿の逆鱗に触れた”と考えない人間が、果たしていないと言い切れるかどうか。
 事は一刻を争う。
 さくららの宿舎を彼らが嗅ぎ付けるのに、それほどの時間はかからない。――例え一枚岩ではないとしても、この街には爵位という階級がある。見たことがないかと尋ねられれば答えずにはいられないし、危険を冒して匿うだけの義務も理由もない……。さらに最悪なことには、彼らには金で情報を買うという手段まで有しているわけだから。
 その状態でどこに行ったとも知れない真佳を無防備に街中捜すって? 危険行為にもほどがある――。



 きつく強く両目を瞑った。
 震える息を吐きかけて。
 次に目をあいたとき、呼気が震えを帯びていないことを他ならぬ自分の耳で確かめた。

「行くところが出来た、と、真佳自身が言ったのなら」

 吐息を挟む。

「大丈夫。行きましょう。アイツなら一人でも何とかできる」

 トマスに告げたその言の葉が、確信の色を帯びていることに一人こっそり安堵して。

 TOP 

inserted by FC2 system