ゴッ――という音をどこかで聞いた。どこか? どこかって単体じゃなかった気がする。どこか遠い四方八方から聞こえてきた。何かが崩れるゴッ、という音――。 知れず天上を見上げていたマクシミリアヌスがはっとしたように部屋の窓枠に張り付いた。窓を開けないままに目を凝らしているのが目に見えて、少し動じてから真佳も横に張り付いた。 土煙が見えた――あれはどの方向だっけ、東西南北で言うなら確か北。北門の辺りに茶色い粉塵が舞っている……。ふと正面を見てみたならば建物の影から同じような粉塵が舞い上がっているのが目に見えた。 「……北門と西門に何かがあったのか……?」 マクシミリアヌスが呟いた。それにさくらの声が補足を加える。 「南門もその一つに加えるべきね。ここからは中央の建物が高すぎて確認できないけれど、音から言って多分東も――」 「俺、確認してきます!」 「私も!」フゴが言ったそれに便乗した。「あ、こら――」さくら声が制止の意を告げたときにはフゴが開けた戸口をくぐっている。廊下を駆けて跳ぶように階段を駆け下りる最中ロビーがざわついていることを視認した。ホテルのカウンターに座っていた子が客に請われて玄関扉を開けていたので、それに乗じてフゴと同時に外へ出た(きゃっ、みたいな声が受付の女の子の口から漏れた――)。 通りが少しざわついていた。ロビーでの何があったのか分かっていないような漠然としたざわつき方とは少し違う。外のほうが土煙の位置を確認しやすいだけにこれには明白な怯えが混じった。チッタペピータ中央区に林立する行政機関塔を一足早く回りこんでいたフゴが戻ってきて首を左右に小さく振った。 「東も駄目です」 「……勘違いでなければ、全部門のあるところのような気がするんだけど」 「間違いないですね。でもそれほどヤワなつくりになってるはずが……」 「アルブスを求める貴族の人たちが、アルブス欲しさに爆破したとか」 声を潜めて尋ねてみたとき“糸目”のフゴが一瞬微妙に頬を引き攣らせたのを見逃さなかった。 「まさかそんな、そこまでするとは……」 ガッダ、という音をどこかで聞いた。 スカッリア人が何事かを話し合っている……。ガッダ、という言葉がまた聞こえた。フゴのほうを仰ぎ見た。フゴが少したじろいだ。 「……ガッダ卿の仕業だ、と騒いでいるようです」 「ガッダ卿の仕業……?」 「ええ。『ガッダ卿の仕業だ』『馬鹿な、まだ子ども献上する時期じゃない』『この街の子どもを献上しないことを知って怒られたんだ、だからよそから子どもを調達することには反対だったのに』……」 「……反対……?」 その一言が引っかかった。アルブスを献上するのはどこかの誰かの独断ではない? 反対という言葉が出る以上、会議みたいなものは確かにあったはずだった。……出席者は誰だ? ……この街の人間全員が? 薄ら寒さをそこで覚えた。人の形をしたナニカが真佳の真横を通り過ぎたのはその時だった。 「――」 「……」 見つめ合ったのはたった一瞬だった気がする。びっくりするほど綺麗で記憶に残りやすい男性だった。「……」鼓膜の表層をたたかれた。 「マナカさん」 「ひゃっ」 「え?」 「あ、いや、何でもない、ぼーっとしてた」 いつの間にか囁きかけてこれるほどフゴが近付いていたものだったから……。 何を考えていたんだっけ。耳の奥にまだ男の声が残ってる。 「マナカさん」 ともう一回だけフゴが話した。立てた手のひらを口に添えて、マナカの耳に直接に。 「一度帰りましょう……。どこまで情報が回ってるか心配です」 「……」 確かに……。この街の住人が、どこかの田舎の集落みたいに逐一起こったことを共有し合う仲であるっていうのなら……例え真佳やフゴであっても外へ出るのは得策ではない。さくらと行動していたことを目撃している住人は大勢いる。まずはどこまでの情報が蔓延っているか見極めないことには。 ……あるいはこの件でアルブスを諦めてくれないことには。楽観視はしないけど。楽観はするなって昔から飽きるほど言われてる。 上がる土煙を最後に一度だけ目視した。東西南北を司る四つの門――門番は無事だろうか。あるいは他の人々は? 崩れ落ちた瓦礫の下敷きになっていないといいけれど……。 今、そこで何が起こったのか、誰が起こした事態であるのか、真佳は疑っていなかった。 |
月と陽 |
「見つかってしまったね」 と彼女は言った――深淵。ずっと無。久しぶりにその声を聞いた気がしたが、つい最近これまでもずっと聞き続けてきたような気もする。結局“私”はあの頃からずっと変わらない。 「どうする? どうしようか。このままでは外に出られないモンね。手っ取り早く殺してしまうのもありだけど、殺したところであの物理的な束縛はとけやしないんだ」 「――」 何か言葉にしようとしたが何も言葉になって出なかった。頭の中に言葉の破片があったかどうかも怪しい。いずれにしろこいつの前で萎縮してしまうのは何ともならない。喉が言うことを聞かなかった。 「マナカ」 「……」 「もう答えハ決まってるよね」 ……。――、どちらにせよ、聞かずにはいけないだろう。こいつに意識を向けざるを得なくなった原因と元凶。異界に来てから全く微塵でもこいつのにおいを感じさせてこなかったのになにゆえ彼女の存在を見破ったのか、真佳を異世界人と見破ったのは何故なのか、さくらのことは知っているのか――とか。 聞かなければいけないことは山ほどある。 赤い三日月ように双眸を細めて、そいつは笑った。 「まずは第一の見世物だ」――と男は言った。 フゴと一緒に外へ出て、東のほうを確認したときの話だ。宿の中にはさくらがいて、アルブスを欲し求める貴族を警戒しながら真佳の帰りを待っていた。ガッダというスカッリア語が至るところから聞こえてきたとき、目の前から一人の男がやって来た。未だガッダという男の名前しか知らなかったときだった。清潔的な黒の短髪に全てを舐めるように見尽くすかのような赤紫の双眼。……笑って剥き出しになった歯は犬歯の箇所だけ尖っていた。 「この状況でも貴方は外に出る選択肢を封じられてはいない。瓦礫を抜ければ、あるいはあの高い城壁を登れさえすれば可能だろう。そうなったら僕はこの街でハーメルンの笛吹き男を演じるが、貴方には関係のない話だ」 睨み上げたかどうかは分からない。ただこの男が何を言っているのか、あるいは何故異界語を喋っているのかを疑問に思ったのは確かだった。この男の話す言葉はどれも不穏な言葉ばかりであるが警戒するべきかどうかは確信が持てない。本当にこの男がやったのか? ただ事態に便乗した狂言である可能性は……? 第一真佳に話す意味合いが分からない。 「困惑させてしまった? 無理もない。未だ君に与えられたのは破壊の音とあの土煙だけだものな。……ではこう言えばいいのかな」 屈み込んで。 真佳の耳殻に唇をつけん勢いで、彼はそのとき囁いた。 「僕の屋敷へおいで。街外れのガッダの館。こうしたワケを全部話してあげてもいい。質問にも答えよう。貴方と、キリも含めて共に語り合おうじゃないか」 反射的に距離をとった時にはしかし、男は既にそれと同じ場所にはいなかった。悠然とした足取りで西へと歩く背中だけがただ見えた。黒の外套が風にそよいで揺れていた。フゴが帰還を提案していることにも気付けなかった。 もうすっかり薄くなった土煙を目視しながら、一気。 「――ごめんフゴ、先に帰ってて」 「……え?」 「ちょっと行くところが出来た……。さくらにもそう言っといてくれるとありがたい」 「え……でもこれから」 アルブスの、と続けたかったのだと思う。アルブスの民の集落へと避難する、そういう話になっていた。でも今この状態でそこまで避難するわけには、まだいかない。 「本当にごめん! 先に行っててくれても構わないから!」 「マナカさん!?」 走りだしたとき、やっぱり赤い三日月が笑った気がした。太陽はまだ高く――夜に成るには早すぎる。 |