「アルブスの少年ね」

 革張りの一人がけディヴァーノ(ソファ)の上、長い足を窮屈そうに折り曲げてけたけた笑っている男が言った。

「確かに希少ではあるけど、どうかな。本音を言ってしまうと美味しければ(・・・・・・)それでいいのだけれど。子どもより美味いといいけどね。ほら、ヒトの子どもは然程美味くはないけれど、大人よりかは幾分マシだろ?」

 ――じゃあ貴方は、何かを美味いと感じたことはあるのか? と問うてみた。答えはすぐには返らなかった。ディヴァーノ(ソファ)の縁に土踏まずを引っ掛けて体を前後に揺さぶりながら、ヒトを食ったようなニタニタした笑い顔で鏡の中を覗きこんでいる。

「異世界人は、美味そうだと思うね」

 かなり満足な答えが返ってきたのでこれはそれで終わりにした。



鏡面事態



 鏡の中から声がしていた。前に“マナカ”と“トマス”とがやっていたような、あるいは“サクラ”と“マナカ”がやっていたような聞き慣れたお話だったのでその場にいる誰もが(と言っても実質二人しかいないのだけれど)聞いていなかったし、話が先に進むことをこそ望んでいた。その間彼は自分のくるぶしの横の肉をつまんだりして遊んでいた。靴はディヴァーノ(ソファ)下に落ちていた。

「アルブスを引き渡すわけにはいかんのだろう?」

 鏡の中で“マクシミリアヌス”が口にした。彼の声であることはすぐに分かった。何せ連中の中では野太くて誰であるか比較的判断しやすい部類の声であるので。

「しかしこのまま放置、あるいは逃して顔の割れているサクラを危険な目に遭わせるわけにはいかない。かと言って代わりの子どもを我々が用意しようと言えば君たちは反対するのだろうな。ふむ……」

 鏡の中の“中佐”がその巨体に似つかわしい顎をしごいたとき、くっくと隣で男が笑った。ウィトゥスは自分の足を弄くるのをやめていた。清潔そうに短く切りそろえられた黒髪とひょろっこい肉体は教会行政棟に出入りするような聖職者なんかによく見るが、それにしてはあまりに服装がぞんざいに過ぎる。聖職者はカミーチャ(ワイシャツ)一枚に綿で出来たパンタローニ(ズボン)なんて履かないし、光源が蝋燭だけの煉瓦が剥き出しになった青黒い館には住まいやしない。
 鏡の中の一室は実に過ごしやすそうだった。オテル(ホテル)の一室であることは今の二人には今更言われなくても知っていたし、それが教会ご用達の宿であることも知っている。“ヤコブス”の部屋から一歩も移動していない。旅の道連れで車座になって深刻な顔を突き合わせていた。アルブスの白髪の頭もある。
 ウィトゥスにとってはそりゃあ腹のよじれる事柄であろうが、彼ら彼女らにとってはそうではないしこちらの様子には気付かない。鏡は一方通行で、こちらからあちらは見通せてもあちらからこちらは覗けない。そういうことになっている。

「もう早々にここを出ちゃうってゆーのはどうだろう」

 赤い眼の“マナカ”が言った。肘置きに頬杖をつきながら人差し指と中指とで米噛みをとんとんとたたいていた彼の動きが、一瞬止まった。鏡の中で“マクシミリアヌス”が渋い顔をする。

「あまり推奨せんな……。サクラが馬に乗れないまま旅に出ることになる。俺かマナカと一緒に乗ってもらうことも可能だが、万が一のために簡単な動作ぐらいは習得しておいてもらいたい」
「外に出て、私かカタリナが教えれば。私はあんまり教えるのは得意じゃないけどさ」
「ここから次の町まで随分ある。教えるのに十分なほどの時間は取れんだろう。歩かせ続けてようやっと夜に辿り着く類の町だ」
「そこまで後ろに乗ってもらって、その町で教えるってゆーのは駄目かなあ」
「推奨はせんな……。万が一を恐れる関門はまずここから次の町に至る道中にあるのだ」

“マナカ”が口を尖らせて「むぅ」と唸った。“マクシミリアヌス”がガプサに類する人々を忌々しげに睨みやってから、「顔が割れているのが貴様らだけであったらば嬉々として切り離してくれるというのに……」呟いた。“ヤコブス”は腕を組んだまま肩を竦めただけだった。

「ボク……」

 ……誰かの声が聞こえた気がした。
 とてもか細い声だった。その時誰も発言していなかったのが幸いした。でなければきっと鏡の中の住人もウィトゥスも、そしてウィトゥスと共に鏡の中の出来事に耳を傾けている“自分”でさえ聞き取ることは困難なものになっただろう。誰だったかはすぐ知れた。“サクラ”が視軸をアルブスの少年に差し向けたからだ。

「ボク、恐らく、案内できると思います……」“マクシミリアヌス”が太めの眉を片一方だけ跳ね上げた。「えと、ボクがアルブスの村、まで案内出来ると……ご、ごめんなさい」
「え。えっと……」

 層一層かぶった布の奥に引っ込んだアルブスに“マナカ”が戸惑ったような色の声を上げた。何で謝るんだろうという心の声がここまで聞こえてきそうであった。ウィトゥスがディヴァーノ(ソファ)から少しく上体を乗り出した。眼光が僅か鋭くなった。

「そういえばまだ名前を聞いていなかった。名前は?」

 尋ねた“サクラ”に鏡に映る全員が等しく目を見開いた。そういう問いかけは今この場に相応しくはなかったし、まだ必要だとも思われていなかったからだ。

「ネ、ネロ……」
「ネロ。アルブスの村にとって害悪にしかなり得ないかもしれない人間が複数行くことになるのだけれど、アンタはそれで構わないの?」

 真っ白な下唇を少し噛んでから頷いたのが見えた。肌の色故にアルブスは感情の昂ぶりが頬に出やすいと思われているが、その認識は誤りだ。どちらかというと血潮は透けて見えにくい。薄く桃色に見えることはあっても決して真っ赤には染まらない。だから鏡面に映る彼女らは恐らく気付いていないだろうが、自分はきちんと見て知っていた。彼は注目を集めたことで羞恥に頬を染めている。

「ボクが……巻き込みました」

 ぽつりと呟いたその解が波紋のように広がって、水を打ったように静まった。“マクシミリアヌス”と“ヤコブス”が顔を見合わせたことが記憶に残った。不仲であろうと気まずい思いはどうやら共通したらしかった。

「ネロに案内してもらおう」

 と“マナカ”が言うのと同時であった。ウィトゥスが椅子から立ち上がったのは。

「……それはいけない」

 何がいけないかは言わなかったし、自分も問いかけることはしなかった。ウィトゥスが一体何を目当てにしているかはとっくに把握していたし、話を持ちかけたのは自分なので尋ねる必要もなかった。

「君はいけないと言うけどね」

 代わりに別のことを口にする。

「では一体どうする気だい? 貴族に強請って連れてこさせるかね? アルブスを逃した事柄を責め立てれば、それくらいのことはしてくれるとは思うがね」

 何せこの街の住人は彼を酷く恐れているのだし。子どもを守るためか自分を守るためか、あるいは家柄を、街を守るためなのか、きっと彼らだってよく知らない。ただ数百年もの以前にこの街の全ての子どもを失ったことは知っている。それが伝承ではなく実際にあったことを何より彼らが知っている。

「聞けばちょくちょく嫌がらせもしているそうじゃないか。君を侮った家の軒先には何が差し出されるのだっけな」
「その人間の腎臓じゃないか?」

 しれっとウィトゥス、ウィトゥス・ガッダ卿は口にしたが、自分はそれが悪趣味なバットゥータ(ジョーク)であることを知っていた。見立てているのは確かだけれど、それは正確には別の動物の腎臓だ。

「蝙蝠はあまりにお喋りに過ぎる。退屈しのぎにはなるけれど、結局人間ってのはどの時代でも同じなんだとうんざりもする」鏡の表面に片手をついた――。「貴族に強請るかと言ったっけ? 貴方は実に不愉快な表現を使うものだね。まるで僕が奉仕を受けるのを待ってるだけの人種のようだ。丁度ソウイル教の赤ん坊みたいな具合にさ」

 鏡面の音はもうあまり聞いてはいなかった。顔の割れていない“マクシミリアヌス”と“マナカ”と“フゴ”が足りない必需品を買いに走ることは想定していたことだ。今まだ部屋にいるけれど、いつ外に飛び出すものやら分からない。

「強請るまでもない。貴方が指標を示したのだろう。ずっと待っていたのだから――僕は実に彼女が欲しい」

 要はここから逃さなければいいのだと、唇の動きだけで男は言った。
 ――薄い唇をつり上げて自分は笑った。

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