深くかぶった布きれを、室内に在っても脱ぎ去ろうとはしなかった。ただしょぼくれた顔で項垂れて、自分がこれからどうなるかもわからないだろうに彼は明らかにさくらの右腕に自分の全てを預けていた。ヤコブスが目を転じればすぐにさくらの背に回る。
 ヤコブスがそれで隠れられて、鬱陶しそうで忌々しそうなため息を深く、吐いた。

「アルブスの民の話からだ。手っ取り早く」

 と言って煙草の先端に火をつけたヤコブスの視線の先はカタリナで。

「……って、結局あたしが話すんだね……」

 わかってたけど、というふうにカタリナは言って引き攣らせた頬を引っ込めた。咳払いの音が部屋に響く。ヤコブスに宛てがわれたホテルの一室。この街の中で確実に安全だと言える場所はここしかない。

「……ああ、そうか、アルブスのあんたに話すわけじゃないから、話しにくいことにはならないね」

 と、まず先にカタリナは前口上代わりに独りごちた。さくらと一緒にベッドの縁に腰掛けていた少年が、ほんのちらっとだけ外へ、つまりカタリナが片目分ほどは見られる程度に頭の位置を動かした。

「さっきヤコブスが言ったように、アルブスの民の話からまずしよう。さっき、その少年の肌を見たかい? あるいは米噛みから伸びる小さな角は?……よろしい。見てるだろうと思ったよ。でも尻尾は見ることは叶わなかっただろうね。ずっとその布っ切れをかぶったままでいるもんだから」
「……尻尾?」

 腕に張り付いた少年のほうへ視軸を落とせば、縮こまるようにして彼はもう一段階背中へ回ってさくらの目からも隠れてしまった。隠れたと言ってもせいぜい頭と顔のほうだけ。精一杯首を回せば肝心の尻尾を覆ったシーツが見える。

「アルブスの民の最大の特徴は三つ。人工物のような白い肌、角のように出っ張った骨が一対、それから尾骨から伸びる、人類が置き去りにしたはずの尻尾が一つ」

 少年のほうへ視線を戻す。また一段階奥へ隠れたものだから、逆に左側からは覗きやすかろう図になった。流石にそこまでして確認したいとは思わなかったのでしなかったけど。
 三本立てていた指を収めて、カタリナは肩章の乗っていないせいで華奢に見える肩を小さく竦めた。さくらや、あるいは日の当たらない隅のほうに腰をおろして素知らぬ顔で煙草を吹かしているヤコブスとは違って、カタリナは部屋の中央に屹立したまま。扉の付近にはグイドが地べたに腰掛けて、時折扉の向こうの音を聞き取るように耳と首とを傾けている。

「大きな外見的特徴って言えばその三つだね。それから白髪緑目も特徴っちゃ特徴だけど、その三つを挙げた上で再び挙げる必要はないだろう? 尻尾と角と肌の色だけで、もう特定するには十分すぎるほど十分ってなもんなんだからさ」

 実際問題その通り。尻尾や角や紙のような完全なる白の肌を持つ人間なんていうものが、ほかにこの世に存在しなければの話だが。……そして、カタリナの口調から察するにその答えは聞くまでもなく既に出ていた。

「内面的にも」とさくらは言った。「特徴があるのね?」
「その通り」

 褐色の肌に笑いジワがかすかに寄った。ヤコブスに無理矢理語り部役を押し付けられたとは思えない。

「それがさっきサクラも聞かされていた謎の一つ。五百年前にやって来たはずの異世界人と、彼と共に在ったという祖父の話。その子のおじいちゃん」

 びくっと背中が跳ねた気がした。
 正確にはさくらの背でなく、背にしがみついて離れないアルブスの民の男の子が。つられてさくらの肩まで跳ねた。

「アルブスの連中の平均寿命は二百年って言われてる」
「……二百年」
「あたしらにとっては気が遠くなるような数字だろう? でも実際二百年の時を生きている、らしい。これは現在知覚されている“知能を持った生物”のくくりの中でも最長だって言われてる。それと外見の珍しさも相まって、なんていうかアルブスっていうのは“そういう連中”に高値で売れるんだよ」

 背中のほうがまた跳ねた。顔の半分を恐る恐るカタリナへ向けたのだけは密着している肌の感覚で分かったが、彼がどんな顔をしてカタリナを見ていたのかさくらは知らない。「売らないよ〜」とカタリナが言った途端またすぐ頭を引っ込めてしまった。安心したからなのか何なのか。
 カタリナは何でもないように小さく肩を竦めてから、

「因みにその子、六歳くらいに見えるけどアルブス年期に換算すると多分十代あたりだね。十五歳付近だとは思うけど、アルブスの年齢は分かんないからなあ。あたしも本物は初めて見たよ。ヤコブスは?」
「……一度」
「へえ! すごい。あたしなんて今こうして見るまでずっと都市伝説だと思っていたよ」

 彼が頭を向けているはずの自分の左に目を落とした。頭半分だけ再び顔を覗かせて、あっけらかんと笑うカタリナを食い入るように見つめていたので一瞥しただけで視線を逸らす。何だかんだでカタリナのほうにはすぐ懐くだろう……。腹を空かせた野良猫がさも魚肉を狙うかのような、どちらかというとぎらぎらしたような目だったとはいえ。

「ま、そんなわけで……」(少年が再度頭を引っ込めた)。「どこまで話したっけ? ああ、そうそう、“そういう連中”に高値で売れるから、だからアルブスの民族は人の目の届かないところで長い間ずっと暮らしてるって話。どこに住んでいるのか知ってる奴はいないだろうし、アルブスだって自分たちにとって危険な場所にわざわざ出てくることはほとんどない。だからまあ、あたしも都市伝説なんだとずっと思ってたわけなんだけどさ。出てくる必要はないはずなのに、何であんたは出てきちゃったのかねぇ……」

 最後の一文は明らかに少年のほうに向けられたが、答える様子は毛ほどもなかった。実際カタリナも答えを期待して問いかけたわけではなかったろうし、実際に恐らくそうだったのでその話はあっさり脇へとうっちゃられることになる。

「で、次にあたしは何を語ればいいんだっけ?」
 小首を少し傾ける。「何で私が逃亡のお供として選ばれたのか、何故異世界人だとバレたのか」

「ああ」とお気楽そうにカタリナ・モンターニャはそう言った。

「後者の答えなら、サクラなら見当ぐらいついてるんじゃないのかい? 平均寿命二百年のアルブスが五百年前にやって来た異世界人と出会っちゃいけない法はない。実際その子のおじいちゃんは異世界人に会ったって言ってたんだろ? じゃあ会ってるさ。そうやって新鮮な情報が新鮮なうちに語り継がれているだけに、この世界の人間とあんたら異世界人の違いっていうのに気付くことがあったんだろう。――と、あたしは予測するけどね」
「確かな話じゃないのね」
「まあほら、そこはその子か、あるいはその子のおじいちゃんに聞かないとさ。ほら、あたし五百年も生きてないだろ?」

 とか何とか言ってけらけら笑う。実際それはその通りで、さくらもそうであろうと思っていながら問いかけた。異世界人とこの世界の人間との違いか……。もしもそれが公になって流布されてしまっていたのなら、真佳とさくらの秘密は隠しようもなくすぐにバレてしまっていたんだろう。閉鎖的な民族が幸いした。

「それで?」
「……はいはい、次ね」

 あんたなんかそういうとこうちの首領に似てるよなあとか言いながら、ガプサのナンバー2は高い位置で一つに結った髪のあたりを引っ掻いた。

「最後だ。何であんたがその子のお供に、あるいは逃げ切るための道連れに選んだのか。それはあんたが異世界人であることに深く関係することだから、これが最後になって丁度良かった」
「話の流れを考えないで話していたの?」
「うーん、いや、話しやすそうなやつから消化していったら自然にこうなってさ」
「……」

 随分お気楽なことだと思ったが、ため息を吐き出しただけで突っ込んで茶々を入れたりはしなかった。そっちこそそういうところがうちの真佳にとても似ている。

「まあまあそれはいいとしてさ。えーっと……うん、その子、実に賢い立ち回りをしたんだよ。まああそこであんたが通りかかんなきゃ絶対に詰んでいたとしてもさ、それでも十分上手かった」――とカタリナが言う度に、びくびくとアルブスの少年が縮こまっているのに気付いていた。「――アルブスは高く売れる、って、あたしさっき言ったよね。髪の色も肌の色も、目も角も尻尾も二百年分の知識も全部、そういうのを欲しがる人間にとっても高く売れるんだ。でもそれは、異世界人も変わらない」

 ……何となく、そんな予感は覚えていた。アルブスが高値で取引される理由を改めて聞かされた段階で。二百年の知識がそうであるのなら、では異世界の知識はどうなのだろう、と。

「まあ異世界人なんてアルブス以上に希少だろ? そんなぽこぽこやって来る存在じゃあないんだから取引されたって例も誰も聞いたことがないってのに、捜してる貴族はごまんといるらしい。その度につり上がってるって話だよ。何って値段が。まあサクラはあまり知らないほうがいいけどね……身売りされても困るから」
「しないわよ」

 頼まれたって絶対に。
 ……カタリナがそこで破顔して、きひっと笑った。

「ああ、さて、で、そのことをまずあたしたちが知っている。これが前提。その上で異世界人を仲間として大事に扱っていることと、アルブスを狙うような成金に異世界人であることをばらされたらどうなってしまうかをすぐに悟れる頭があるか考える」
「……まさか」
「そのまさかだよ。サクラは人質にされたんだ。“もしも自分を助けなければ異世界人であることをバラしてしまうぞ”。“そうなったら君の仲間が一体どういうことになってしまうか、考えなくてもわかるだろう?”」

 ぴゃっと背後で少年が慌てて面を上げたが、言葉みたいな何かを喉に引っ掛けただけで結局何も言わずにすごすごと背中に戻っていった。背に触れるアルブスの手が遠慮がちであることをすぐ知った。白い手。さくらの手のひらにすっぽり収まるほどの小さな手。
 カタリナからは特に悪びれた様子は見られなかった。結果的にさくらを人質にしたことを怒っているのか、あるいは何も考えていないのかが濁った湖の底のように分からない。思えばカタリナは今までずっと明るい陽の当たる部分しか見せてくれていなかったのではなかったか。
 ため息が聞こえたのと時を同じくして、視界の端にちらついていた炎の点が灰皿の底に押しつぶされた。長い足を持て余すようにしてヤコブスが億劫そうに腰を上げた。

「その辺でいい。ガキを怯えさせるのを楽しむほどの嗜虐趣味まで持ち合わせていない」

 カタリナが肩を竦めてほんの一歩だけ身を引いた。代わりにヤコブスがカタリナよりも前に出て、黄金の双眸で寝台際に座ったさくらを――正しくはアルブスの少年を、何の感情も乗せないままに見下ろした。……カタリナが嗜虐的に発言したのは、あるいはヤコブスが望んだからではあるまいか?

「貴様が行った奸計について、今更どうと言うつもりはない。ただうちの姫さんがこのままでは納得してくれそうもなかったもので少々ご足労願ったに過ぎん。彼女があの場にいたことをソウイル神に感謝するんだな。トマスかフゴが戻ってきたらどちらかに出口まで送らせる。それぐらいはしてやるさ」

 と言って新しい煙草を引き抜いたので、話がそれで終わったことをさくらは知った。ヤコブスが立ちはだかってからずっとさくらの後ろでぷるぷる震えていた少年は、拍子抜けしたように面を上げる。それでもまだ少し震えていた。
 ヤコブスが少し物思わしげに目を伏せて、背中を向けて元の位置まで戻っていった。

「……送ってくれるって」

 というのはさくらが背後で縮こまる少年のほうに落とした言葉だ。知らず人質にされていたことに何か思うことがなかったわけではなかったが、ヤコブスとカタリナが当事者よりも先に怒ってしまったことと少年の怯えきった反応に何だかどうでもよくなった。思えば途中からもうすっかり共犯者気分にもなっていたのだし。
 少年のペリドットがこちらを向いた。積もったまま放って置かれた新雪のような肌色は太陽の熱気にすぐに爛れ赤くなってしまいそうだとさくらは思った。

「……怒ってない……?」
「うん……私はね。あそこの怖いお兄ちゃんとお姉ちゃんが先に怒ってくれたから」
「誰が“お兄ちゃん”だ」

 すかさずヤコブスから唾棄するような遠慮容赦ないツッコミが入って少年のほうがまたぞろ肩を震わせた。嗜虐趣味はないと言っておきながら、そうやってすぐに怯えさせるんだから……。きっと性格だろうけど。

「だから私は大丈夫。アンタのほうは外見ですぐ分かるのだから、大人しく送ってもらいなさい。もうあんまり一人で来ちゃ駄目よ。大丈夫、フゴもトマスも信頼できる」
「……信頼できる」

 と少年は小さく繰り返すように呟いた。
 信頼できる、それを信じてくれればよいのだけれど。呟いた彼の声は透き通っていて柔らかで、声変わりもしていない確実に少年のそれだった。これが通常人に換算すると十代半ばぐらいの少年になるなんて。箱入りになっていたが故の人見知り度合いと、世界の怖さなど知らなそうな純情な瞳を見ても実感として胃に落とすのは難しい。
 ヤコブスが紫煙を吐き出した。いつの間にかまた隅のソファに戻っていた。

「帰ってくるまではここにいたらいい。なに、俺もカタリナも何もしないさ。もうな」

 ……意味ありげな言を獰猛な顔で付け加えるものだから、また再び少年の体が短く跳ねた。実はまだまだ根に持っているんじゃなかろうか。涼しい顔を取り繕ったヤコブスに何かを言ってもしらを切られる未来しか見えない。
 マクシミリアヌスにわざわざ突っかかりに行ったりだとか、時々そういう子どもっぽいことをするんだから……。四十間近だろう、アンタ。
 アルブスの少年が怯えた瞳で見上げているのに気がついた。

「……ああ、大丈夫大丈夫……。フゴやトマスが帰ってくるまで、私もここに居座るから」

 少年の表情が弛緩して、ヤコブスがふんと鼻を鳴らした(だからアンタは)。何故ここまで彼に懐かれることになったのかそこのところは不明だが、まあきっとさっきカタリナが言った逃亡の策と同じだろう。異世界人はアルブスを売ったりはしないだろうという。

「頭目!」

 バンと扉が開いたことでさくらより先に少年のほうがぴゃっと飛び上がって驚いた。……この少年の心臓は今大丈夫だろうか。ここ数時間で随分萎縮と跳躍を繰り返させてしまっているので、もしかしたら二百年もの寿命が縮んでいる可能性も……。“大鼻”トマスの後ろからひょっこりと真佳と“糸目”のフゴも現れて、さくらの傍に縮こまっている“物体”を見て多少目を丸くした。……無理矢理押し開けられた扉の前でグイドが後ろでんぐり返りで伸びていた。

「頭目、姫さんが男の子を連れて逃げてるって!」
「……ああ。それなら無事だ、そこにいる」煙草の先で指し示された。
「ああ! 本当だ、姫さんよくご無事で!……ん!?」少年が後ろで更に身を固くした――「いや、待ってください、何ですかその子は!? まさかとは思いやすが、まさか本当に連れ帰ってきたんじゃあないでしょうね!?」
「今から家に帰すところだ。貴様らが来たなら丁度いい」
「家に!? それはいけない!」

 トマスがあまりにトマスらしくなく声を荒らげているのが不可解だった。片扉を閉めて入ってきた真佳に視線を転ずと微妙な愛想笑いを返される。大荷物を抱えたフゴは荷物を床に置きながら、非常に苦々しそうな顔をした。さくらは勿論ヤコブスにだって事の真意は分からない。

「……? どういうことだ。何を聞いた」

 トマスが一度唾を飲んだ。再び静寂が訪れたが、それは張り詰めた静寂だった。

「……街外れのガッダ邸、勿論頭目は知ってやすよね」
「ああ、前に貴様が話していたところだろう――絵画から抜け出た卿の噂がついた」
「そこに献上されることになってるんですよ、そのアルブスの少年が」
「……は?」

 流石にヤコブスも目を剥いた。献上? 売られるというのとは違うのか……? 視線をもう一度真佳に戻す。真佳が肩を竦めて近付いてもアルブスの少年は一度肩を震わせただけで、それからすぐに全身の力を抜いてしまった。気付いたらしい。

「なんかそこに、毎年少年少女を献上するのがこの街の習わしらしい」

 囁きながら真佳が言う。さくらは小さく眉根を寄せた。

「献上? 何で? そんな生贄みたいな……」
「実際生贄みたいなもんだ。送られた子どもはもう二度と館から出てこないって言われてる。明確な理由は皆怖がって話したがらないけど、とにかくそういうことになってるらしい……。でないと街を大変な災禍が襲うのだとか」
「……アルブスを?」
 少し考えこむような間を見せて、真佳が小さく頷いた。「アルブスの話はさっき聞いた。アルブスだとしても関係がない。要はこの街の人たちは、家の高貴な血を受け継いだ自分の子どもを人に明け渡すことにもううんざりしてるんだ」

 ――目の前が唐突にくらくらした。この街の人間は飽くまでも……! いや、バッシングするならむしろ相手は生贄を欲するガッダ卿にこそと言える。なにゆえ生贄を求めるのか、なにゆえ街の人間はそれを容れて従うのか、さくらにはさっぱり分からない。そのために外の子どもを使うなど……。「アルブスは希少だから、毎年の行事がもしかしたらこれで終わるんじゃないかって期待してる人もいるみたい。だから皆必死なんだ」真佳が言った。

「……状況は分かった」米噛みを揉みほぐしながらヤコブスが言う。「それで、今街中で俺たちを捜し回ってるってわけだ」

 トマスの首の動きはイエスだった。なるほど……なるほど。このまま迂闊に外に出ようものなら、少年でなくても街の人間に容赦なく捕獲されて痛い目を見るっていうわけだ。
 ダンッとまた再び大きな音で扉が開いて、今度は少年だけでなくその場の全員が身を強張らしたまま固まった。

「やっぱり帰ってきとるんじゃないか! 騒がしい音が遠いところでしとると思ったら……。なぜすぐ俺の部屋に来ない? 彼女たちをこんなところへ迎え入れるなどどういう了見だ?」

 ガプサの連中に睨みをきかせるマクシミリアヌスに、なぜだかひどくほっとした。



賽はとっくに投げられて

 TOP 

inserted by FC2 system