――ダンッ、と地面を踏み切った。人混みの向こうで男が怒声を上げている。複数人の男が手振りで何やら告げていた。周囲の人間に聞こえるように、恐らくあの子供と女を捕まえろと叫んでる。捕まえたときの褒賞は幾らほどか、もし万が一ここが旅人のためのマーケット(ヴィアッジョ・マルケット)でなかったならばまだ勝ち目はあったかもしれない。ただここでは金の重みは深刻だ。
 小さな左手の力が増した。それでもほんの僅かの力の、恐怖と畏怖とで震えている小さなその手の持ち主をただ安心させたくて握られた右手を握り返した。この時点で恐らくすっかり共犯で、真佳のことをどうこう言えない状況に陥っていることは重々思い知っていた。

「ヒメカゼちゃん!」

 声に従って左折した。人数が増えたのが災いしたか、後ろのほうはどうやら我先に金づるを掴もうとする貪欲な亡者どもがダマになって狭い通路を塞いでいる。血管の中に出来た血栓の群れを想起した。

「すぐそこの路地を西に、それから二番目の通路を南かな。あとはずっと西から突き当りで北を目指せば十分だ。後はおれらに任せてねぇ。すぐ合流するよ」
「……ありがとう。恩に着る」

 路地の片隅に座り込んだフードの男に出来るだけ早口でお礼を告げた。男は褐色の頬に微笑を浮かべただけでそれに応えはしなかった。言われた通り路地を西へ。右手に提げた“荷物”の感触を確かめた。



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 まるで魔法を扱っている店かと思うほど塩漬けのビンは開けた店内にたくさんあった。肉、魚介類、野菜、塩漬けされているものは大体元の世界と変わりがない。唯一変わりがあるとするなら花束がビンに詰められて塩漬けにされて置かれていたことと虫かイモリに違いないモノが塩漬けにされていたことくらいかな。虫のほうは努めて見ないようにした。カタリナの肩口に少し隠れるように前かがみになったら夏の風のにおいがした。

「ヒメカゼ」

 というヤコブスの声音で我に返った。

「塩漬けはこの程度でいい。何か気になるものがあれば追加で買うが……何をしている? そろそろあの“樽腹”を回収したい」
「何でもない。終わったんなら行きましょう。マクシミリアヌスも待ちくたびれているだろうから」

 ……と言うとあからさまに機嫌が悪くなるのだよな。ご丁寧に小さな舌打ちを響かせたのをさくらは聞いたし、恐らくカタリナも聞いたと思う。

「あの巨漢が待ちくたびれたところで」
「辛抱たまらなくなって大絶叫しながら宿から飛び出した挙句そこここで私や真佳の名前を呼び始めるのは相当面倒だと思うわ」
「……」

 どうやらそれはヤコブスも認めるらしかった。これは極端な例を挙げたつもりだが、実際マクシミリアヌスが同じような行動を取らないかと聞かれると必ずしもそうとは言えない。あの肉弾が真佳やさくらのことで何をやらかし出すやら、数ヶ月付き合っていて一向に法則が見えてこないのが全く末恐ろしい。

「グイドはまだ果物店にいるかしら?」
「居座っているだろう。間食のメニューが決まればその時点で最高の材料が揃わない限り他には見向きもしない男だ」
「面倒なのかそうじゃないのか分からないわね……」

 捜しまわらなくていいのは手間が省けて便利だけれど。何日か後のおやつのメニューを決めていないことを切に願う。
 ヤコブスが不意に立ち止まったので危うく上腕に鼻頭をぶつけかけた。

「何?」

 と言うとヤコブスが顎でしゃくって前の通路を示してみせた。路面に張り出したところにテントを張って少しでも陳列範囲を広げようと画策している店々の軒並みくらいしか見えないけれど……――いや、いた。網の目ように広がった細い路地をひらひらした服の端が通り過ぎるのを。一目見ただけでも上等な品質で、こんなところに通う旅人然としないところが気になった。どこかで見たような気がするし、土埃に触れてしまえば瞬く間に黒く汚れてしまいそうなホワイトをしていたのも……嫌な予感がして気になった。

「さっきの子じゃないか」

 さくらの左肩に肘を乗っけて身を乗り出して、誰より先にカタリナがさくらの嫌な予感を口にした。

「ベレンガリア・ディ・ナンニ? とか言ったっけね。何でここにいるのかねぇ」
「思いつくものといったら一つしかない」

 苦々しい声でヤコブスが言った。マクシミリアヌスが辛抱たまらなくなって逃げ出した。か、あるいはマクシミリアヌスを出待ちするのを諦めて外堀から、つまりさくららから籠絡しにかかったか。今さくらが思いつく例と言えばこの二つくらいのものだが、ヤコブスの描く想定はこの二つの中にあるだろうか。
 ヤコブスが舌を打つ音が再び聞こえた。

「関係はない。グイドを捜してとっとと帰るぞ。何に捕まっても面倒事にしかならないのは目に見えている」
「でも大丈夫かねぇ、まだ子供だったろ? ここらは他より治安は悪いよ」
「自業自得だ」

 まさか従者なしで動き回っているはずもなかろうしさくらのほうも概ねヤコブスの意見で賛成だったが、カタリナの言った“他より治安が悪い”の意図が先に気になった。至近距離にたじろぎながら顔を向けて言紡ぐ。

「治安が悪いってどういうこと? ここではあまり犯罪は……」

 ……話しているうちに気がついた。カタリナが「そう」と頷いた。犯罪が起きない、とは誰も言っていなかった。貴族の側がその矜持故に潔白を保つか、あるいは勘当されて“なかったこと”にされるだけで。
 これは貴族にのみ当てはまるような事柄で、そうでない人間、もっと言うならさくららのような旅人には該当しない。旅人であれば、やろうと思えばほかの街の人間と同じ心持ちで犯罪行為に手を染められるということだ。その旅人に溢れているこの場所は、なるほど、他の地区より治安が悪いというのも頷ける。

「誘拐なんかは格好の的だよね。身分を隠そうともしてないし」

 カタリナの追い打ちをヤコブスは無言の睥睨で迎え撃ったが、やがてそれも諦めてすたすたと当初の目的地の方向へ歩き出してしまった。この時ヤコブスが本当に彼女のほうを心配していたのか、それともさくららが面倒事に巻き込まれるのをただ厭っただけだったのかは今もって判別が難しい。涼しげに見える金の双眼は何者も映していないように見受けられた。
 歩きながら横顔を観察していたら一瞬視線を向けられて、それから左手で背中を押された。

「心配しなくても、一応ここにも自治団体は駐屯している。奴らが優先して手を差し伸べるのは貴族のほうで、この場合危ないのは貴様のほうなのだから目に見える範囲にいてくれないと後が困る」

 ひゅう、とカタリナが口笛を吹いた。

「サクラのことはちゃあんと心配してあげるんだからねぇ」

 ヤコブスは短めのため息を吹きかけただけでそれに関して否定も肯定もしなかった。出来ればそこに真佳も加えてもらえると助かるのだけど。

「――あれ」

 同じ通りに戻ってきたとき少しの異変に気がついた。
 人がいない。
 ……正確には、あまりにも少ない。カタリナが思わず言葉を発したのも道理であって、この時間帯この場所では恐らく目にする機会は今後二度とないであろう。あれほど人一人通るのもやっとであった一本の通路が、今や通行人がやっと一人、二人見られる程度に激減している。
 ヤコブスが小さく舌を打った。見通しがよいために例のあの店にグイドがいないことは一目で知れた。

「あの肥満体、一体どこに……」
「ねぇ、何かあそこ、人混みができてるよ」

 カタリナに指を差されてようやく通路の先に目を向けた。人波が団子になって通りの出口を塞いでいる。確かあのあたりは四ツ辻になっているんじゃなかったか。大きな通りが左右に伸びて、この店舗に並ぶ商品を乗せて馬車が走る。“旅人のための市場”中間あたりを走るここいら一帯唯一の大通り。
 誰か数人の男が人混みの向こうで等しく声を張り上げている。ガラガラと何かが空転、あるいは崩れているような音源を聞くに、どうやら馬車が横転している。

「アルブス……?」

 ヤコブスが隣で眉をひそめた。その瞬間だった、シャツの袖を引っ張られたのは。
 襤褸をまとったような格好だった――浮浪者かと訝しんだがどうも違う。襤褸切れから覗く肌は比喩として用いれないくらい白すぎるほど白く、静脈が浮いた手に苦労の跡は伺えない。小さな手。子どもの手だった。外国では浮浪児が悪さを犯すことが多いとは言え……。

「お姉さん……」

 紡がれた日本語だった。右手が少し震えている。目の前の存在に気付いたヤコブスとカタリナがそれぞれ懐に手を伸ばしたがさくらがそれを制止した。
 襤褸切れの端から覗くのはペリドットのような純粋な緑。肌は相変わらずカラーコードのFFFFFFが通用するほどの純然な白。
 カタリナが隣で驚いたような声音を上げた。

「アルブス……!?」
「お姉さん、お願い、ボクを街の外まで連れてって」

 袖と同時に左手を元来た場所へ引っ張られ、多分それで不審な動きをしていることを気取られた。後方、人混みの方向から絶叫が上がった。にわかに集団が色めき立つ。ヤコブスがこれ以上ないほど忌々しげに舌を打った。

「見つかった。追ってくる」
「アルブスが目当てなんだろう?」
「だろうな」
「この場で引き渡しちまえば……」
「異世界人であることがバレたらどうする? 奴らにとってはアルブスも異世界人も扱いは同じだ」

 カタリナが歯噛みをしたのを見て取った。頭上で交わされるヤコブスとカタリナの早口での応酬に理解出来る点はほとんどない。アルブス? 追ってくるって何? 扱いは同じ……? 尋ねたかったことは山ほどあったが尋ねる時間は毛頭なかった。スカッリア語で野太い声を張り上げて、数人の、いや、数十人の男どもが駆けてきた。
 ヤコブスが舌を打って、
 背中を押された。

「仕方ない。逃げろ」

 ――わけのわからないまま、小さな手に引かれてただひたすらに街中を駆ける。

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