意識を集中して。指の先端に魔力の高まりを自覚する。体の中のどこか、よく分からないところから湧き出た魔力が体の輪郭をも越境し、より濃度の高い魔力が真佳の指先に触れるのだ。波打つ水に相好の見えない水龍が首をもたげて――。



天地創世の語り言



「わ」

 領域内に侵犯してきた誰かの気配に肩を揺らすほど驚いて、結果高められていた集中力があっという間に霧散した。駄目だった……。魔力の行使にはまだそれなりの集中力が必要で、それにかかりきっていると無防備になってしまうから今みたいに人の気配にはいつもより敏感になってしまう。祖母の修行の成果がこんなところで裏目に出るとは思わなかった……。“嗅ぎ慣れて”いる気配であっても意識を引き戻されるだなんて。

「水が飲みたいんですか?」

 と、きょとんと侵犯してきたうちの一人が言った。手には何も持ってはいなくて、固そうな生地で出来上がったワークパンツのポケットに両の手ともぞんざいに収められている。トマスの歩き方は少し卑小に見える。背中を丸めて両手をポケットに突っ込んで、小柄な体躯を層一層縮こめてこそこそするように歩くのだ。猫背については多分本人は自覚していないだろうと思われる。ベンチのところに腰を下ろしながら真佳は曖昧に笑って見せた。
 チッタペピータの西北西は、今朝通ってきた東から来る道や中央区域とは違って実に閑散としたものだ。活気がないとか廃れているというのではなく、ただ単純に住宅街に片足を突っ込んでいるからこそそうなのだということに気がつくのには然程時間はかからなかった。ここから更に北上するといわゆる高級住宅街と呼ばれる場所に行き着くらしい(富裕層あふるるこの街で言われる“高級住宅街”とは一体どのようなものであるかという好奇心がないではない)。
 この場所で真佳らに課せられた使命は乗馬を教える講師の確保。それから布、寝具、防寒具などの雑貨品の購入であると聞いている。馬は出立が決まった数日前に手配しておけばいい、早く買うとその分馬小屋代が馬鹿にならない――とはマクシミリアヌスの言だけど。
 買い物の初っ端でいきなり一人ベンチに座って油を売っているとは決して思わないでいてほしい。講師の確保を依頼されたはいいものの、真佳はスカッリア語が本当に少しもできないのだ。いても邪魔になるだけだし初対面の人と顔を合わせても間が持たなくて終わるので、そこはトマスとフゴに任せてしまってベンチで魔術の練習に耽っていた。本当に決して一人サボっていたわけではない。丁度ベンチの肘置きのところに綺麗な魔術式が彫られていたから。
 ……ベンチから腰を上げながら、「水が出るの?」と聞いてみた。首都ペシェチエーロでも港町スッドマーレでも、このようなベンチは見たことがない。というか、ベンチを置くスペースがなかった。フォーブロックに一つくらいの間隔でちょっとした公園サイズの広場を設けるチッタペピータとは違うのだ……。ベンチの見た目は石のようなのだけど、座ってみると妙な居心地のよさを感じる不思議な質感。肘置きにはどれも前述したとおり魔術式が刻まれて、黒く重厚感溢れるそれも街の高級感維持に一役買っていると思われる。“高級住宅街”と名はついていないにしても、ここいら一帯は真佳の元いた世界と比べても十分“高級住宅街”に分類される。

「水飲み場ですからね。出やせんでしたか? 魔力を注ぎ込むと、ほら、こんな具合に」

 流麗な魔術式中央部分から丁度元の世界にあった上向き蛇口の水飲み場のように新鮮な水が次から次へと。……特に集中力を注ぎ込んだわけでもなく颯爽と水を生成できるあたり羨ましい。トマスが手を離すと上向きに流れ込んでいた流水が跡形もなく掻き消えた。

「上手く出来ないんだよなあ……。集中したら出来るんだけど、何かを生成する前にそれも途切れることが多いんだ」

 もう一度ベンチに座ってみた。魔術式は最初に見たときと寸分違わずそこに在り、使用者の訪れを待っていた。

「慣れないうちはそんなもんかもしれません。うちらは幼い頃からこれが日常でしたから。二輪自転車みたいなもんですよ。慣れればするっとうまくいく」
「そうかなあ……。才能無いとかじゃないかなあ……」

 と唸るとフゴが、

「第一級、第二級の区分はともかくとして、こういう簡単な魔術の生成に限って言えば才能というのはあまり聞かないような……」

 ……多分それが真実なのだろうけど、それはこの世界で生まれ育った人たちだからこそ当てはまることであって……、という言葉が喉の奥で疼いたものの真っ直ぐ胃の底に落としこむ。最初に魔術の存在を知ってテンション上がったはいいものの、日常的に使えるようになるまではまだまだ時間が要りそうだ。ましてや武器として戦に投入するなんて……。夢のまた夢。

「トマスもフゴもかなり早いほうだった?」
「魔術ですか? さあ……。普通だったと思いますよ。特に遅れたわけでもなし、早すぎたわけでもなし」
「トマスは?」
「さあねえ……特に印象にねえもんで、ってえことはオレのほうも普通にできたんでしょうよ。一等最初の頃でしょう?」
「トマス今何歳?」
「さあて、忘れちまいましたねえ」

 すかさず聞いたと思ったのにあっさり華麗にかわされた。ちょろちょろカタリナやヤコブスにも話を向けてはいるのだけれど相変わらず謎は謎のまま。何を考えているのかイマイチよく分からないからこの段になっても積極的に話すことはなかったけれど、グイドにも話をしてみるべきかもしれない。……いや、別に分からないままでもいいんだけど、気になったから。

「そんなことより、講師のほうは見つかりやしたよ。一応融通きくってのと金の問題もありますんで、教会関係者の教鞭執ってる回数が多いって奴にお願いしときました。回数しか見てねえんですが大丈夫でしょう。あの中佐だって文句はないはずですよ」
「ありがとう……そういう人この街にいるんだ?」
「そりゃあ一応ここは旅人が必ず通るって噂の街でもありますもん。一人や二人、無論講師はいますって。どっかのご令嬢やご子息の講師やってることのほうが多いらしいですけどね」

 話を聞きながらもう一度腰を上げていた。皮膚に吸い付くように人の体を受け入れるこのベンチの材料は何だろうと頭の片隅で考える。
 馬というのは、この世界では随分メジャーな交通手段だ。それは街から街へ移動するときに使われるものではという意味で、街中で使用している場面は商人か何かが大荷物を運んでいるときにしか見かけない。メジャーであれども実際満足に馬に乗れる人が少ないのは、そういう理由からになるらしい。自ら望んで自分の街を出ようとする人はそれほど少ない。勿論田舎まで行けば、都会というものに憧れて旅が出来るよう訓練している若者は少なくないだろうとマクシミリアヌスは言っていた。この街で令嬢や子息が馬を習うのは、きっと元の世界と同じく娯楽のためだ。

「そういえば、マナカさんは馬に乗れるそうですね。姐さんから聞いてますよ」

 姐さん、とフゴが言うのはカタリナのことであることを、出会ってからこれまでの会話の流れの中で理解した。

「そちらの世界では馬術って娯楽が多いそうじゃないですか。あとは仕事で速さを競わせたり物を運ばせたり……これはうちと同じですね。マナカさんは娯楽でですか?」
「……祖母に……」
「ええ、習われたって聞きましたけど」

 乗らされてた、のところはちゃんと伝えてくれなかったのか……。別に隠すことでもないけど説明するのも面倒なので、「ちょっと」と濁してからすかさず「それよりも」と話の方向をねじ曲げた。

「ちょっと聞きたいことがあるんだ」
「年の話じゃねえでしょうね」
「何でそんな年齢言うの嫌なんだ」
「嫌ってんじゃありやせんが、若く見えるならそのほうがいいでしょう?」

 どこのオールドレディだと内心裏手で突っ込んだ。んん? っていうかそういう発言をするってことは、真佳が思っている以上の年齢を重ねているのか? 分からん……。

「や、でも今はそれはどーでもよくて。どーでもよくないけどどーでもよくて」

 雑貨品店か、あるいは医療品店はどこだっけ? これ以上サボるわけにもいかないので(何せあんまり遅いと必ずマクシミリアヌスがここまで捜しに出てくると思うので!)、見せてもらった時点で既に曖昧模糊と化していた地図を思い描きつつ言紡ぐ。つま先はどの方角に向ければいいんだ……。

「この世界の魔術のこと、そういえばよく知らないと思って。魔術に原理なんてない、陸や海と同じであるのが自然なんだと思って今まで気にもとめなかったけど、さっきマクシミリアヌスが」

“第一級だろうと第二級だろうと魔術を行使する力は神から与えられた(・・・・・・・・)ものに他ならない”とマクシミリアヌスは言っていた。それは真実をそのまま口にしたものだろうか? それとも元の世界での陸や海と同様に“聖書でそうなっているから”口にしただけだろうか?
「雑貨屋でしたっけね」真佳の意図を察したのか正しい方角に導きながらトマスがその先に言葉を継いだ。

「さあ、正しいことを話すのは実に難しい質問ですが、新教、旧教ひっくるめて、少なくともソウイル教信者は魔術が神からもたらされたことを絶対の事柄だとして受け止めてます」

 南へ下る方角だった。街の南西エリアに旅人のための店舗があること自体は真佳も聞かされて知っている。

「正しいことを話すのが難しいってえのは、俺らとしても原理とかいうもんがよくわからないからにほかなりやせん。五百年前の異世界人は海や陸の出来上がり方を教えてくれはしても、魔術の出来上がり方は教えてくれやしませんでしたから。他宗教を掲げている民族でもそれはそこの神が作り上げたもんで一致しているということです。マナカさんの世界で言う無神論者がこの国にほぼ存在しないも同義である、ってえことも、多分それが影響しちまってるんでしょう。海や陸のように、神以外の存在が作り上げたものであるに違いないってえ研究を続ける奴もいるにはいるそうですが……実際解明できちゃいないんで影響はほぼないですね」
「創始の時代からあったとゆーこと? たしか……」――ペトルスが前に言っていた。「十三の、世界を構成する全ての基盤」

 トマスが確かに首肯した。西に傾き始めた太陽を右に見据えて唇の先で呟いた。魔術の源でもある核を創り、海を創り、大地を創り……。太陽は確か九つ目。
 ……核。
 そのときは気にもとめなかったけど……。

「ここらへんは新教、旧教変わらず同じなんですが……聖書によれば、この星、惑星でしたっけ。ソウイル神が核を作り上げた後層が生まれ海が生まれ陸が生まれこの星に」地面を足のつま先で指して「なったと言われていやす。つまり中心核に埋まっているそうですぜ」
「核が……」

 そんな身近にあったとは。もっと空気に溶け込んでるとか何だとか、そういう抽象的なもんだと認識していた。核から先に創るはずだ。何となく今自分が立っている地面がふわふわした落ち着きのないものに変わったような……。他人の持ち物であることを急に意識した感覚。

「まあ、それが確かで正しいものなのかってえことを聞かれると、そりゃ分かりません。ソウイル教信者としては確かな事実だと、そりゃもう回答しやすがね」
「トマスは神を信じるの?」

 ……聞いてから、可笑しな質問をしてしまったと考えた。前にペシェチエーロで同じ質問をして相手を固まらせてしまったことがある。仮にも教会に仕える人間相手に、と彼は随分驚いていたっけ。
 しかしトマスは驚きも固まりもしなかった。どこか皮肉的な微笑を描き、気負いもせず自然的に。

「疑いも出来やせんよ。こんな魔術(ちから)が身近にあるんだ」

 反対隣のやや斜め後ろを歩いていたフゴを振り返ると、糸目で少し分かりにくいが彼は驚いたようだった。

「……神は主であり、支配されているお方ですから」

 開いた手のひらを見下ろした。もし自分に与えられた魔術の才能が微小であるとするならば、考えられる要因は……
 信仰心、かな。とかいうことも考えた。

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