窓の下でうろうろしているクラゲと少女とを目に入れた。勝ち気な青目は几帳面なほど窓の表面を撫で回してはいるけれど、多分彼女は目的の部屋をまだ知らない。知っていたらあんな大人しいやり方で満足するだろうかともちらと憂う。窓の下面から目だけを出して覗き見ているからいいものの、立ち上がって近付きでもすれば真佳の部屋はすぐ知れる。彼女の狙いはマクシミリアヌスただ一人だから問題ないのかな。
 カツンカツンとガラスのテーブルをペンの先で突っつく音が耳に入った。振り返るとマクシミリアヌスがそうやって白紙のメモ用紙と睨み合いを進めていた。玄関ロビーと同じく長方形に広い部屋で、中央の扉を基準点として右側に大型のベッドが二つ、左側上隅にかなりゆったりしたソファが並び、部屋の中心に近いところに今マクシミリアヌスがいるガラステーブルと椅子がある。左下の出っ張った壁に手洗い場と浴場とが設けられているのを真佳は知っている。

「全員分の馬、教師の手配、当分の食料、念のための飲水、幾つかの魔術式も必要になるだろう、マギスクリーバーに掛け合わんと……この街にはマギスクリーバーは存在するのか?」
「いないの?」いないと困る。ここでは火をつけるにもマッチやライターは使用しないで魔術式だけを扱うんだから……今例を上げた火の関係は、マクシミリアヌスがいるからまあ別に大丈夫だとは思うけど。

 窓の下に視軸を戻すと、ベレンガリアと名乗ったクラゲ少女がまだ宿の周辺をうろうろしていた。恐らくそれに対してだろうが、マクシミリアヌスが舌を打つ。

「いや、いるだろうとは思うが貴族に買収されてやしないか……」
「不安要素があったなら、港町にいたときに早々に買っておくべきだったな」

 ……何でこんなときに混ぜっ返すかな。マクシミリアヌスから少し離れたソファのところで手持ち無沙汰げにしているヤコブスを若干の恨みを込めて睨め付けた。それでなくてもこの大男はさっきから苛々し通しなのだから。
「その眷属、この私にくださらない?」――というある種衝撃的な発言をぶちかましたベレンガリアに対して、マクシミリアヌスの反応は徹底してつっけんどんだった。「他を当たるんだな」で半ば突き飛ばすと言ってもいい態で大股でカウンターまで近寄って、「俺が言いつけていない客は客間に――俺のだけじゃない、彼女らの」(というのはもちろん真佳とさくらのことであろうが)「部屋にも一切近づけてくれるなよ――今からだ!」
 それで階段をのし上がってから渡された鍵にぴったりはまる部屋の扉をバタンと閉めた。ベレンガリアが何事か付け足す間さえも与えなかったし、受付の人だって「承知しました」を満足に口にすることができたかどうか甚だ疑問だ。
 ベレンガリアと彼に一体どういう因縁があるのか、あるいは出来たのか真佳にはてんで理解できない。その昔知り合いだったとか、或いは知人の知人であったとか?……でもそんな素振り、さっきの会話からは到底感じ取れ得なかった。
 ガツンという結構な大きさの打音を立ててマクシミリアヌスがペンの表面を机の表層にたたきつけた。……まさしく“たたきつけた”。

「俺が言っているのは予備の分のことで、必要最低限重要なものは既にペシェチエーロ、スッドマーレで済ませてある――今回の件で余計な荷物が増えたのでな」じろりと部屋の隅のソファに座したガプサ連中を睨め付けて、「大体何故貴様らがマナカとサクラの部屋にまだおるのだ! 自分の部屋へ直ちに戻れ!」

 それはお互い様だと真佳は思ったが言わないでおいた。「それは互いの話だろうが」予想通りヤコブスがあっさりと真佳の代わりにやり返した。
 カタリナが女の子同士でゲームでもしようとこの世界のカードを持ち出したのまではいいとして、それにトマスやフゴが「いいですねぇ、やりやしょう、やりやしょう」と加わったのはちょっと何で彼らまで来たのかが分からない。“女の子同士でゲームしよう”になぜ“いいですねぇ”が係るのか。で、まあ皆でゲームしたほうがきっと楽しかろうとなったとき、更にそこから「ガプサごときが彼女らの部屋に大挙するとは何事か」とマクシミリアヌスまで押し寄せてきたときには流石に、えっ、何しに来たのと思わずにはいられなくなった。ゲームしにきたんじゃないのかよ。じゃあ何で皆でここに集まったんだよ。「ガプサ連中となんざ遊べるか。貴様らが出て行けば俺はそれで安心して自分の部屋へ戻れるのだ」「何故俺たちが先に出て行かねばならんのだ、後から入って邪魔事をしたのは貴様のほうなのだから、貴様がまず出て行くのが筋というものだろう」「何を!!」……で、結局どっちも引かずに結局残った。女の子の部屋に軽々しく居座らないでほしいとは、もう流石に思う気力もないけれど。

「もー、問題はスクリーバーが貴族に買収されずにいるかどうかでしょ? そんなの実際に聞くか見るかしないとわかんないんだから、今論じても無駄なだけじゃん」
「それはそうだが……」

 チッとヤコブスが舌を打った。さくらさんだったらもっと大人しく聞いたんでしょうねと思いはしたけど実際口にはしなかった。私は大人であるので。

「じゃ、そこは後で調べるってことで、他に必要なものとかは? ないの?」
「寝具、防寒具、医療品に紐や布、あとは短剣といったところだな。君はあのおかしな形状のナイフがあるから問題ないが、サクラには必要だろう」

 と言って羊皮紙の最後らへんに締めのスラッシュを二つ刻んだ。ヤコブスのほうを仰ぎ見たが、特別何かを付け加えたり必要ないと否定する様子は見られなかった。

「今から行く?」

 窓枠から少し身を離しながら少し浮ついた気分で口にした。本格的に旅をするんだなあと実感してしまったので。流石の真佳もこういう“きちんとした”旅はしたことがない。事前に必需品を用意して出かけるっていうのは。
 しかしマクシミリアヌスは、そこで唇を渋い感じで引き結んで視軸をずらした。どこを見ているかは知らないが、その先が寝台の上で事態を諦観しているさくらでも、真佳でもないことは明らかだ。

「女が外にいるからな」

 ……と、蔑むような形でヤコブスが短く口にして、それでようやっと事情が分かった。「あー」外に彼女がいることを一時すっかり忘れていた。

「……何で接触するのを避けたがるの?」

 さくらが口にしなかったならば真佳のほうが口にしていたに違いない。実は玄関ホールからここへ至るまでの間、ずっと気になっていたことだからだ。あれほどまでの拒絶をワケなくマクシミリアヌスがするはずない。

「この街には特異な流行りがありやしてね」

 と、そこで何故か“大鼻”トマスが言葉を発した。無用の長物になったカードを手持ち無沙汰げにシャッフルしながら、頭半分という格好で。

「流行りと言ってもここ数年で出てきた流行りで、流行という語が果たして正しいのかどうかは分かりやせんが……ともあれ、第一級魔術師にとっては非常に厄介、いや、場合によってはそれは美味しい流行なんですが」

 美味しいわけがあるか、と小さくマクシミリアヌスが異議を唱えたが、取り立てて拾い上げられることはなかった。いつもオーバーリアクションの大声を常としているマクシミリアヌスらしからない。

「何でも、最近の貴族連中は第一級魔術師を“飼う”らしいですぜ」
「か……飼う?」

 って、“飼う”っていう字で合っているんだよな? イントネーションでは“飼う”で正解だがスカッリアでの日本語のイントネーションがどれほど正確なものか確証が持てないから……。買う、という字が当てられていてもどうかと思うが。

「ええ、“飼う”んです。飼育するんですよ。正確には第一級魔術師でなく眷属のほうを、ですが」
「眷属……」

 眷属をください、というようなことを、確かにあの子は言っていたな。出来るかどうかは別として、言葉通り譲渡してくださいの意かと思っていたけれど……。

「第一級魔術師、それが保有する眷属はどうしたって数が少ないですから。希少価値があるんでしょうよ。そういうものを貴族は好みやすからねえ」
「えっと、つまり」
「見栄のために第一級魔術師を買収して、眷属を侍らしているということ?」

 さくらが真佳の言おうとした言を短く代弁してくれた。あのクラゲ……少女が連れていたあのクラゲ、術者は別にいるとマクシミリアヌスが言っていた。知り合いとか家族のものかと思っていたが、じゃああれも……。

「全くけしからん話だ!」

 とマクシミリアヌスが憤怒した。

「第一級だろうと第二級だろうと魔術を行使する力は神から与えられたものに他ならない、それを神への貢献として返すのではなく己の名声のために自らの身だけに行使させようとは!」

 廊下の外にでも飛んでいきそうな大声に、慌てて窓の外を覗き見た。幸いにしてクラゲ少女の耳にはこの会話が届けられることはなかったようだ……。幸いにして、と言っていいのか微妙だけれど。

「使わせてしまった私が言うのもなんだけど、ここにいる間は眷属を出さずに正体を隠していればよかったのに」

 そう言ったさくらの言外には、眷属以外の少し荒っぽいやり方でもここにいる面々なら容易にこなせただろうという確固たる信頼の念があったような気がした。実際酷な話だけれどマクシミリアヌスが眷属を出すことなく向かってきた馬を食用馬肉にすることだって十分可能なはずだった。あれが一番スマートで穏健なやり方であることは真佳も、恐らくさくらも否定はしないけど。
 マクシミリアヌスは尖らせた唇の先を何やらもにょもにょ動かしながら、

「……ここには教会関係者しかいなかろうと高をくくってしまっていたのだ」

 告解した。
 マクシミリアヌスが弱点を見せるとまず口を挟むのがガプサという集団の長である。鼻で笑って、

「つまり油断したわけか」
「なっ……危機迫っているときに一歩たりとて動こうとせんかった貴様に言われたくはないわ!」

 最初はマクシミリアヌスが事あるごとにガプサに突っかかっていったのが、いつの間にやらヤコブスのほうからもマクシミリアヌスに突っかかっていくようになっている。売られた喧嘩であるとは言えもう少し広い心で見れないものか……。或いはこれが絶対不変の宗教戦争の縮小版であるというのか。
 さくらと一瞬で視軸を合わせて、逸らしながらお互い同時に溜め息に近い息を吐く。

「ともかく、少なくとも暫くはマクシミリアヌスを外に出すわけにはいかない」

 と言ったさくらの言は真佳の意見とまるで相違が見られなかった。しかし当たり前のように旧教派の大男は反対した。

「何だと! 何を言い出す気だ!」
「……その子、まだ外でアンタを待ち構えているんでしょう。外に出たら四六時中くっつかれることになるし、そうなったら異世界人だってことがバレかねない。私たち二人、正体がバレることは快しとしないということは前に告げた通りよね?」
「しかし、すると君たちは一体どうやって買い物する気だ? この街どころか未だこの国にも慣れてはおらんだろうが! それに犯罪数の比較的少ないチッタペピータとて安全とは言い切れん!」
「彼らがいるじゃない」

 ……とさくらに言われたときのマクシミリアヌスの顔は、茫然自失なんていう言葉をあからさまに超越していた。嫌悪も異論もそのときすぐに現れなかったのは、本当にさくらがそんなことを言い出すなどとは予想だにしていなかったことの証だろう。
 さくらが“彼ら”と示した先には、当たり前の顔で成り行きを見守っていたヤコブス率いるガプサがいた。



二軍ジェスター



 ――その言もまた真佳の意向とまるで相違が見られなかった点について、わざわざここに付言するまでもないだろう。

 TOP 

inserted by FC2 system