教会ご用達だという宿泊施設が随分質素に見えたのは、この他の建物がどれも豪奢であったからに違いないと真佳は思う。首都ペシェチエーロの教会行政棟での一室ほどではないにしても、宿泊施設として見るならそこは十分綺麗な場所だった。
 外界とを観音扉で隔てたそこは吹き抜けの二階建てになっていて、横に長い玄関ロビーの中央にはがっしりした感じのカウンター。そいつを挟んで両サイドに二階へ続く階段がある。フロアの隅には観葉植物が備え付けられていて、玄関扉から邪魔にならないところに二、三個のソファも設けられていた。マクシミリアヌスらを室外で待つんならちょうどあそこがいいんだろう。二階がどうなっているのかは高低差もあって未だよくわからない。
 宿の客は旅人らしき風貌の人がちらほらいる程度であったが、それとは違う毛色の少女がいたことに注意を引かれた。淡い色付けのあるホワイトのドレスを身にまとった女の子で、年の頃は真佳より五、六歳若いくらい。白い肌によく映える金髪は巻き毛にしていた。目は青く、眉は太め。鼻が少しだけ上を向いているのが横顔でも分かる。
 何をしているのかと思ったら、ロビーでクラゲと戯れていた。
 ……玄関ロビーには水槽なんてものは存在しない。宙に浮かんで漂っているのだ、クラゲが。まるで海中にいるかのように、普通のクラゲが。
 ――いや、
 と真佳はそこで気がついた。
 彼女が突っついているのは普通のクラゲとはどうも違う。海の青を内包した半透明で幻想的な様相ではなく、むしろ自らが海と化した海洋生物なのだった。漂う体躯の内側で水が揺らめき酸素が泡として持ち上がる。触手の先に魔術式があることに遅ればせながら気がついた。眷属――。第一級魔力保持者が有することのできるという、生き物の形をとった物質だ。それが一匹彼女の周囲にふよついているということは……彼女は第一級魔力保有者? 例外はあるとはいえ第一級魔術師は皆総じて教会に吸収されるという話だが、彼女も教会の人間なのだろうか。

「術者が別にいるな」

 とカウンターで自らの名を連ねたマクシミリアヌスが言葉を告いだ。ペンと共に裁断された羊皮紙を前に差し出して、カウンターの向こうで記名を待っていた受付の女性がぺらりと何かをスカッリア語で口にした。マクシミリアヌスの低声の日本語が彼女に届いたとは思いがたい。
 見てたんだ……と思った。真佳の視線の先を、台帳に記名しながら。

「教会の人?」
「さてなぁ……。眷属だけで個人を特定するのは至難の業だ。有名な術者なら分かるだろうが、残念ながらあれを眷属に持つ術者は知らない」
「第一級魔術者なら教会の人間である可能性が高いんじゃなかったっけ?」

 さくらが倣うように低声で口を挟むと、マクシミリアヌスがやや苦りを含んだ顔をした。受付のところでスカッリア語を並べ立てるお姉さんはちょうど説明のために宿の見取り図を指し示したところで、マクシミリアヌスの表情の変化に気がついた素振りも見せなかった。

「……貴族の人間として第一級魔術師が生まれた場合は、さすがに国のために働いてくれとも言えんだろうな」

 そういうものか。どうやら教会が貴族に弱いのは何もこの街の内部に限ったことではないらしい。あのクラゲの持ち主、クラゲと戯れている少女が貴族然としているため女の子のほうはそうに違いないと仮定するが、眷属の持ち主のほうがどうであるか、本格的に五分と五分の戦いになってきた。そうは言っても教会ご用達の宿、貴族然としたあの少女がここにいる他の理由が、真佳には想像できないのだけど。

「二階奥、君たちの部屋は二一七だ。俺は一人で使わせていただく。あの若造の率いる連中の部屋も三部屋とってやったから、適当に分けろと伝えてくれ」
「自分で言ったらいいのに」
 と言うと、マクシミリアヌスは世界中の苦虫を噛み潰したような顔色で「反吐が出る」……言い切った。

 宿は禁煙、煙草の箱を持ってぶらっと外に出たヤコブスは外にいる。他のガプサの面々も彼にくっついて行ってしまった。性質上教会関係者の多いこの宿は彼らがくつろぐには適さない場所であるのだろう。マクシミリアヌスはそれを「いい気味だ」といって意にも介さないけれど。
 無言で見つめ合った後、さして間も置かずにさくらが軽く手を上げて伝言の役を買って出た。そのまま真佳が何言うでもなくつま先を玄関先へ向けてしまった。
 ……真佳が首都ペシェチエーロの教会行政棟で過ごしているまさしくその時、彼女のほうはガプサの面々とずっと暮らしてきたわけで、もしかしたら彼らと同様教会の空気にはまだあまり慣れていないのかもしれない。スッドマーレの宿はというとあそこにはほとんど教会関係者らしき人物がいなかった。実際真佳も、この荘厳で無駄に清潔な教会の空気には未だに近寄りがたいものを感じてむやみに触れ合うのを躊躇する。神、というものがいたとして、本当にそこに鎮座ましましているのではないか知らんと思わせるほどの圧倒感。威圧感――。
 ……でもここにはあまり、首都ペシェチエーロで感じたほどの圧迫感は“いない”気がする。

(正式な教会施設じゃないからかな……あるいはこの街の人間の総合的な信仰心の問題?)

 現在チッタペピータにおわす代表的な“信奉者”の顔を順次に品定めしていったところで、さっきのクラゲと戯れていたお嬢さんがソファに腰を下ろした男性に話しかけている場面に出くわした。カウンターからソファ一帯となると相当の距離が離れていて会話は聞こえないし、聞こえたとしてスカッリア語では真佳もきちんと聞き取れない。やっぱり教会関係者の子だったんだろうか。お父さんとか? でもそういう感じにも見えないような……。
 馬の嘶きがくうを切って劈いたのはそのときだった――玄関のほうだ。丁度さくらが扉を開けて少し離れたヤコブスに話しかけに行ったところで、空気と鼓膜を震わせる野生の叫びは更にその左側、さくららの向こうから聞こえていた――人の叫び声が後から追いかけてくる。が、スカッリア語なのでわからない。捕まえてほしいか逃げてくれか、多分そんなことを言っているんじゃないかと思う。実際中央区域のぐるりを歩いていた人は悲鳴を上げて左右に飛び退き、海を割ったモーセのようにその中心を走ってきたのは立派な体躯の馬だった――毛並みは黒、腹帯が外れて背のところから鞍と鐙がずり下がりガチャガチャと危ない音を鳴らしてる。蹄は煉瓦道を殴りながら一直線に道なりに。唯一の逃げ場と思ったか開いたままの宿の戸目掛けて――ヤコブスがその金眼を瞠ったような動態をした。さくらがドアノブを掴んだまま固まっているのだけは把握した。
 真横で飛んだ舌打ちに鼓膜の表層を貫かれてからはっとした。

「ッフィアンマ・レオーネ!!」

 どかんと飛んだ言語と一緒にどこからともなく炎の獅子が踊り飛び、つま先をフロアにつけるや否や馬の嘶きを引き裂くほどの獣の疾呼を張り上げた――前後不覚の馬だけでなくその場の人間すら釘づけるほどの怒声に思わず真佳は耳を覆ったが、馬のほうも相当恐怖を感じたらしく興奮冷めやらぬまま来た道を死に物狂いで引き返し、結果馬番の人間と危うく衝突しかかる羽目になる。人間のほうが慌てて真横に転がって、結果事無きを得たのだが。その後馬番のほうは思い出したように、多分これは確実なのだが、スカッリア語で「待て」と口走って慌てて後を追いかけていった。
 この間、多分五、六秒。馬の軌道上にあったさくらもぽかんとした顔で自分の背後を振り返り、真佳ももちろんヤコブスやホールにいた全部の人が同じ物体に釘付けになった。即ち玄関ホール中央で長い尻尾をピンと立て、誇らしげにしているフィアンマ・レオーネに。

「サクラ! 大丈夫か、怪我はないか?」

 大男に怪我はないかと詰め寄られた当人が一番自分に向けられた言語であることを分かっていなかったのではないかと思う。マクシミリアヌスに両肩を掴まれてやっとはっとしたような色を示した。

「……大丈夫、だけど」

 視軸の先を改めてフィアンマ・レオーネにシフトして、

「……びっくりした……」

 肺の中の酸素を一切合切吐き出すような語で言った。さくらの“びっくりした”は突っ込んできた馬にでは勿論なく、その馬を威嚇して追い払ったライオンのほうに向かって発せられたのだということに異を唱える人はいないだろう。

「全く、何だあの馬番は。馬の世話も満足に出来んのか――これが貴族相手であったら首どころか戸籍すらチッタペピータから飛び去るぞ!」
「戸籍って、別に無事だったんだから……」
「それよりあの馬大丈夫かな? どっかで別の誰かに衝突してなきゃいーけど」

 さくらがマクシミリアヌスを宥める横で、マクシミリアヌスに追いついた真佳も開いたままの観音扉の影から馬が駆け行った通路を覗き見てみた。中央部を囲むように作られている道路なのだから、当然のように中途のあたりで湾曲していて通りの向こうは見通せない。無事ならいいけどとこっそり思う。

「何ならあたしが見てこようか。上手くいけば大人しくさせられることができると思うよ」

 ガプサの集団の中からカタリナが声を高くして口にしたが、「そんな必要はありません」と別の誰かが柔らかな言語を差し挟んだ。
 真佳の知らない話し方をする声で、真佳らが日本語を介していたようだから異界語を敢えて選んだのだろうがところどころ言葉が硬い。イントネーションが可笑しいのだと遅れて気付いた。この国では異界語は公用語の一つになっているのだから皆何かしら口慣れた様子で言語を紡ぐが、口を差し挟んだ彼女は話し慣れていないんだなとすぐに悟った。
 言い慣れない語を馴染ませるように口をもごもごさせて、最後に「Mi dispiace(ミ・ディスピアーチェ)」と何かを言った。

「異界語は話し慣れてはおりませんの――異世界人伝説を信奉している下賎な人間と話すことはないとお父様とお母様が言っていたものだから」

 マクシミリアヌスの眉が微妙な形に歪んだのを真佳は見た。その異世界人伝説を作り出したのと同じ境遇の人間が彼女と接しているというのは、何やら奇妙な感覚だ。
 意外にも、慣れない言語で口を差し挟んだ彼女は真佳も知った顔だった。知った顔、というのは少し語弊があるかもしれない。きちんと話したのはこれが初めてだが、彼女の姿はずっと視界には入れていた。水で出来上がったクラゲを纏い、教会関係者然としない様相でロビーを渡り歩いていた――彼女がそのクラゲ少女だということは、真佳にだってすぐに分かった。

「私の名はベレンガリア・ディ・ナンニといいます。あれは見覚えのある厩番でしたから、召使に後を任せました。街から追い出しますか? 私はそれでも構いません」

 マクシミリアヌスがちらりとこちらを、正確にはさくらのほうへ視軸を移して、「……いや、やめておこう」と短く言った。さくらの両肩に乗せていた手をそのときやっと離した。ベレンガリアが小さく微笑った。

「そんなら置いときますわ。でも、そんなことより」そんなことより? と多分その時全員が思った――「あなた、第一級魔術師でいらっしゃったのね」

 マクシミリアヌスの視線が動いて、その場で寝かかっていたフィアンマ・レオーネを視軸に収めた。第一級魔術師と思わせるものはそれ以外には類を見ない。真佳もすっかり忘れていた炎の獅子を、マクシミリアヌスが目線だけでかき消すと、その場に張り詰めていた空気がほんの少しだけ揺らいだ気がした――ロビーの人間は(雄叫びを上げた以外のことで)フィアンマ・レオーネに怯えた視線を投げかけることはなかったらしいが、“異物”があるのとないのとではその場の空気感は大きく異なる。
 目の前でベレンガリアが、ほぅ、と高揚した吐息を吐いた。

「ねえ、あなた」

 ……と、不意にベレンガリアが口にして曰く――

「その眷属、この私にくださらない?」



ロッソ・レオーネ

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