屍という字は最初、カバネとだけ発音されたと聞いている。どこの文献で読んだのかは覚えていない。かばね、死にかばねから転じて屍。中に入っている死という文字がモリーレ、生物の終着点、死という意味だと異世界人が話していたのは覚えてる。
「この世界も――いや、惑星も生物であることに変わりはないから――」異世界人が言っていた。「いつかこうして、終着点を迎えるんだろうね」。



ペルフェット・ビアンコ



 木の葉の隙間から覗き始めた鼻面に本能的に嫌悪感と嘔吐感とが胃の底側を刺激した。月は弓なり、月齢 三・一、月齢十八・六の更待月が満月一つ分の光量でもって樹林の中まで降り注ぎ、木々の隙間に隠れた姿を白日の下に晒し出す。鼻面から緩やかに弧を描き頭部に至る曲線と、上顎骨、下顎骨に立ち並ぶ円錐様に尖った牙。脊椎は一度頭蓋の近くで隆起して、触覚様に伸びる頚肋骨を従える……禍々しさと涜神性に喉のところがひくついた。死臭がする。

「骨……だ」

 とマナカさんはそう言った。

「……恐竜の……ティラノサウルス……?」

 我らが首領がかぶりを振った。咥え煙草の不明瞭な声色で、用心深くこちらへ歩み寄って来てくれながら。

「ドラゴンだ……元の名前を言うならば」
 一時言葉を失ったような間が空いた後、「……嘘だよ翼みたいなのも見えないし、それに龍は空想上の生き物だと私は習った……」
「龍とドラゴンは別物だ。そちらの世界では知らないが、俺の知るドラゴンは往々にして翼などは生えていない」

 ……嘘だろ、とマナカさんがほんの小さく呟いた。似つかわしくない敬語が取り外されていることに一拍遅れて気がついた。……マナカさんが半歩土を擦るように後ろに下がる。姫さんの体がそれに押されるように同じ距離だけ後ろに下がった。別のカバネがドラーゴ(ドラゴン)の後ろに湧いて出てきていたことに、フゴはすぐには気付けなかった――ドラーゴ(ドラゴン)に従うように何体も……一体何体神の御下に赴くことを拒んだのかと思うとぞっとする。
 マナカさんの言うように、カバネというのはただ一言で説明するなら“骨”である。カバネという異界語には死体の他に死体の骨という意味がある。スカッリア語に“死体の骨”などという冒涜的な意味を持つ手軽な語がなかったために、骨として動くあれらを表す言語としてはカバネがすぐに採用された。異世界人が異界語を持ってやってくる前は一体何と呼ばれていたのか、フゴは聞いたことがない。
 火葬もされず自然の風化も拒絶し続けて、死して尚永遠を求めた悪魔が至る最後の領域、それがカバネ。フゴが夕刻目にしたのがそれだった。正確に言えば、カバネが地面に潜った跡。太陽神に背いたカバネは太陽の恩恵を受けられず昼間太陽の下を闊歩することを許されない。通常ならこの時期、日の短い夏を嫌って夜のうちに北上するはずのカバネがどうして今も尚こんなところで燻っているのか――

「来るッ」

 粟立った肌を代弁するようにアキカゼ・マナカが発したそのとき、既に状況はフゴを取り残して全て動き切っていた。ドラーゴ(ドラゴン)のカバネは発達した中足骨で地面を蹴り捨て一足でもって十数メートルの距離を詰め、手掌ほどはある大きな牙をヒトの頭上に振り翳さんと――その軌道上にマナカが瞬刻躍り出たと思ったら、間髪与えず見慣れない黒の刃を一閃、ドラーゴ(ドラゴン)の牙を打ち返した。砕くまでには至らなかったが牽制にはなった。一瞬怯んだカバネをよそ目に「きゃっ――」ここまでいつの間にやら距離を詰めていた我らが首領がサクラさんこと姫さんを抱きかかえ、一旦の戦線離脱を試みていた。首領と立ち変わるように飛び込んできた姐さんは、魔術銃の銃口をカバネに合わせて舌を打つ――「参ったな……カバネの数が多すぎる」。姐さんのそれと放列するようにトマスとグイドが魔術拳銃を持ち上げながらフゴの側まで後退し切った。あんぐりあいた自身の口をようやく閉じて魔術銃を取り出すことに思い至ったのは、一瞬が終わった後だった。
 カバネに向かって照準を合わせる――……ドラーゴ(ドラゴン)は、マナカさんの言う“ティラノサウルス”とは確かに違う。“ティラノサウルス”という想像物はフゴも知識としては知っていた。大昔に異界に在った超巨大なドラーゴ(ドラゴン)――実物は誰も見たことがなく、ただ骨だけが化石として世に残っているのだと過去の異世界人は語ったらしい。今眼前にいるこれも形はそれに似ているが、単純な身長は異世界人が想定した“恐竜”よりもずっと低い三メートル弱。標準的なドラーゴ(ドラゴン)の子どもとほぼ同一であると想定される……。子どもがカバネのまま世に留まるのは珍しいことだ。

「おい!」

 と恐らく首領がマナカさんに向かって言った。

「貴様も下がれ、それは俺たちが引き受けるほうの仕事だ」
「キミたちには多分、この役は出来ないよ」
「……何?」

 背筋のところから首筋までぞわりと来た。思わず銃口を落としそうになった。それまでドラーゴ(ドラゴン)様のカバネしか出てきていなかった茂みから、陰険な画一的な動きで他の小動物まで這い寄るように一様に姿を表した。白骨、白骨、白骨――喉のところが捻り潰されたような声が出た。人体がいた、四足歩行の物体がいた――それらがマナカを取り囲むように這い出した。冒涜。マナカさんが半歩下がるのと同時に、フゴのほうも一歩ばかり砂を削って後退していた。月明かりに佇む白。背徳的な白。のっぺりした白。平面で平板な地中に深く晒された、
 ……胃が屈服を訴える。

「私は空が飛べないんだよ」

 とマナカが言った。
 片方の肩を器用に竦めて、

「キミ、いつの間にかいい性格してきたね」

 呆れているのか感心しているのかよく分からない声色で、ちらっとこっちを振り返って――
 ……こっちを?
 フゴがまごついているところで真佳が飛んだ。飛んだふうに映った。実際は駆けたのだ、地面の横を。前方十二時一直線に――ドラーゴ(ドラゴン)のカバネだけを狙い撃って。
 ドラーゴ(ドラゴン)の前足は退化している。それは骨になっても変わらない。ただ胴の辺りにぶら下がっているだけで、図体が大きいことも加わって一度懐に入られるとすぐにはドラーゴ(ドラゴン)も打つ手が無い。ということに今初めて気がついた。あの発達した顎と歯牙とをかいくぐって飛び込むのさえ至難の業だ。少しでも心が怖れを抱いたら頭のところから噛み千切られる。「キミたちには多分、この役は出来ないよ」――マナカが言った言が脳のところで再生された。あちらの世界では遺骨は――冒涜的で涜神的な言葉を使うなら(おお、神よ!)――忌むべきものではないのだろうか?

「真佳!!」

 どこか後方から我らが姫さんの声がして、落ちていた銃口を危うくフゴも上のほうまで引き上げた。速い――そうだ、成る程、カバネはカバネであるがこそ、肉や筋肉やその他もろもろの遮蔽物から解放される……!
 マナカが懐に入り込んだそのとき、一瞬彼女を目標軸から逸しただけで既にドラーゴ(ドラゴン)は次の手を打ち付けていた。片方の足で地面を擦って(骨の足で! ……吐き気がする!)下げた左足を軸足に、半回転する勢いを殺す隙もなくマナカさんの左肩に歯牙を並べて、
 ガギン、という音がした。黒き刃がけだものの犬歯を打ち鳴らした音――上顎側切歯と犬歯の間で黒き刃が不安定な音を打ち鳴らし、「っ」力では押しきれなかったかマナカさんが僅か後方へ揺らめいた。銃声。
 ……銃声!?
 音のなったほうを振り返る。首領が銃口を構えて屹立していた。……見惚れすぎていて自分たちの役目を失念していた。首領が放った銃弾は正確にカバネの頭蓋を撃ち抜いてカバネのバランスを一瞬間だけ切り崩し、ドラーゴ(ドラゴン)カバネの頬骨に叩きこまれた中足骨が完全にカバネをよろめかせた。「っし――!」……マナカの流れるような足技に思わず腹の前で拳を固めてしまったがだから自分が見惚れている場合でないんだって――
 よろめいたカバネの距骨に躊躇いなく足をかけたマナカに思わず思考を中断させた。ドラーゴ(ドラゴン)が顔を振り向ける。脛骨と大腿骨の骨の隙間につま先を引っ掛け、腸骨のところに手をかけた。

「マナカさん……あんた、」

 途中で口端が引き攣った。平坦的で無感情な白に黄色みを帯びた彼女の肌が触れ合う様子はあまりに異様で歯茎のところが気持ち悪くてうずついた。まったき白は死の色だ。
 腰のところまで頭が回らないドラーゴ(ドラゴン)が首を限界点まで回しながら虚空で歯を打ち鳴らし、最後に腸骨を膝下にやり込めた彼女がいと高きところから遥か上空に指の先端を突きつけて……?
 一(ワン)、
 二(ツー)、
 三(スリー)――マナカさんの唇が確かに動いた、
 瞬間。
 白い腸骨に靴の裏底を叩きつけ、一瞬の空白マナカさんが正真正銘空を飛び(・・・・)――
 そして世界は焼け落とされた。

「ってアッチ!」
「わあ!」

 トマスが叫んでグイドが下がる。火の粉はフゴらの位置まで飛び交って、カバネの頭を膝下に置いた礼儀知らずを引き落とそうと群がりそこここに広がっていた数多の白骨を全て覆った。救いを求める声もなく、ただただ骨が擦れ続ける耳障りなキイキイ音を聞きながら、フゴは呆然とただ促されるように一歩を下がって。
 振り向いた。
 キミ、いつの間にかいい性格してきたね――マナカが見ていたのは自分なんかでは到底ない。この状況を能率的に圧倒的に覆しうる、この場に居合わせた唯一の
 ……第一級魔力保有者。
 彼が保持する唯一の魔術式にしっかと靴裏を炙られながら、悪魔を溶かす霊験あらたかなる炎火の流れをいかめしい顔つきで静観し続けるマクシミリアヌス・カッラと目が合った――、気がした。

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