ガサッという音に引かれて思わずそこで跳ね起きた。草を踏む音、だと思う。決して大きくはない音だ。しかし深い眠りに落ちることもなかなか出来なかったフゴにとってそれは大きな音となった。寝袋を剥いで起き上がる。首領であるヤコブスの天幕はもう少し離れたところにあって、何事かを察知するのは恐らくフゴより遅いだろうと思われた。彼に対する報告と、それから二人の異界人に万が一のことがあったらというのが何より心を占めていた。
 だから天幕から這い出すように顔を出したとき、姫さんことサクラさんがびっくりしたような面持ちで立ち尽くしているのに出くわしてうっかり次の思考が繋がらなかった。

「……びっくりした」

 と彼女のほうがまず言った。

「アンタ毎度そういう番犬みたいなことしてたっけ?」
「いや、えー……」

 してなかった、けど、今回ばかりは特別ですと心の中で弁明だけしてそら笑いを貼り付けた。以前姫さんと一緒にペシェチエーロ付近の天幕場で行動を共にしていたころ、そういえばちょこちょこと姫さんが外を出歩くのを天幕の影から見かけた気がする。あれはマナカさんの存在が確定してから後だったっけ。今思えば友人を想ってペシェチエーロの闇に沈んだ様相を遠くから眺めていたのだろう。
 そら笑いを貼っつけたままさり気なさを装って話の方向をねじ曲げた。

「姫さんこそ、こんな時間にお出かけですか?」

 トマスとグイドが後ろのほうで寝こけているのを確認しいしいテンダ(テント)の側から外に出た。こうしてマナカさんと再開を果たし無事に旅をしている上で、遠く夜風に沈むペシェチエーロを臨む必要はないはずだ。……という話は姫さんにしてみようとも思わないけれど。多分姫さん自身だって、一人ペシェチエーロを眺望していたことを他人に見られていたとは思いもしまい。
 やってきた方向に姫さんのほうが視軸を乗せた。女性陣の天幕場はもう少し奥まったほうの側にある。……何を見ているかはすぐに分かった。振り返ったときの姫さんの顔色は穏やかだった。

「少しお水を汲もうと思って。そう遠くない場所に川があったでしょう? 明日朝イチで出るのなら今がそのタイミングだと思ったのだけど」
「ああ……」

 今更ながら首領の言ったことを想起した。朝イチで出ると言ったのは確かに首領だ。……こんな危険な場所から即刻彼女らを離してやりたいのはフゴとしても同感だが、しかし些か急ぎすぎているような印象もないではない。日が昇れば一先ずはそこで安寧のはずで。
 ……いや。
 そういえばこの気温とこの気流、明日は天気が崩れないまでも青天というわけにはいかないか……。だとすれば行動出来得る最低のリーネア(ライン)で行動するのが最適解。首領の考えは飽くまで正しい。

「分かりました、お供します」
「えっ、いいわよ別に、そこだし。お水汲みに行くだけよ?」
「いえ、一応念のためですから……。首領からもあまり目を離しすぎないようにと言われています」

 ……姫さんの眼光がじっとりした色を帯び始めたので思わずビクついて視線を逸らした。鈍感を通すべきであったと逸らし終わってから気がついた。

「……アンタら、“何を”隠しているの」

“何を”のところが強調されたその語句はあまりに如実に内証事を語るようにと告げていた。首領うう……と我ながら情けなくなりながら首領に助けを求めたが、当然のように我らが首領は助けになどは来なかった。
 姫さん、と最初に彼女を呼んだのはフゴであったと自負しているが、その時はこんなに(……名前の通り)姫様然としているなどとは微塵も思ってなかった。ただその容貌があまりに綺麗で、月明かりの中でも花香の中でも何であれ全てが彼女の前では褪せて消えて風化してしまうと思ったほどの人だったから。……名前に姫が入っているのは神のお導きだろうと思われた(そりゃあ初っ端銃口を突きつけられたりはしたけれど)。
 聡明で美しい彼らの“姫”は空白を吐き続けるフゴを相手に何かを断つように吐息して、「じゃ、いいわ」と短く言った。吐息の塊が透明の見えない鈴か何かに見紛った。

「ヤコブスに口止めされててもおかしくないし。そしたらいくら問いただしても無駄だものね。アンタたちはヤコブスの忠実なるしもべだもの」
「いや、そんな……さすがにしもべまでは。せめて随行人とかですね……」

 ……あまり変わっていないと明らかに言外に含んだ無言で睨まれた。睥睨も本当にお美しいが、叱られて悦ぶたちではないので喜んでいいのか恐ればいいのか自分自身でも決めかねる。
 姫さんの視軸が逸れたその瞬間を見計らって肩を竦めた。確かに首領は尊敬しているしお守りするべき人ではあるが、それは別にフゴらに限ったことではない。

「マナカさんだって姫さんの随行人のように見えましたよ、俺には」

 ……本当に一瞬の間があった。

「……マクシミリアヌスの間違いじゃなくて?」
「中佐殿は中佐殿としっかり言いますって……。どこをどう間違えたらそうなるんですか」
「一文字目の音が同じ」
「……本当にそう思ってます?」
「まさか」

 本気だと思った。姫さんの仕掛けたブルッフ(ブラフ)にものの見事に引っかかったマナカさんを純朴だなどと分かったふうな口をきけたようなものではない。

「……何で真佳が随行者? 普通に友達なだけだけど」
「何故って」

 ……常に姫さんを視界の端に入れていた。何かあったとき、いの一番に動けるように踵の向きや体の位置や筋肉の流れ全て休むことなく支配下に治めて行動しているようだった。常に計算していたのならあれは確かに神童だったが、もしも本能でやってるのであればそれはそれで別の怪物だとフゴが思ったほどだった……これをまさか当の本人が気付いていないとでも言うのだろうか? 何事があっても敵前で銃口を下げることのしない戦を分かった彼女のような存在が?……
 紅い双眸を思い起こして背筋に知らず怖気が走った。友達であると姫さんは言い切ったが、よくよく考えればそれにしては少し――
 ゴォン、
 という地響きがしたのはそのときだった。もう一回、一瞬の感覚をあけてゴォン――。体験したことのない縦揺れに胃の内容物がひっくり返るような妙な心地。それとは別に小さな揺れが、カタカタカタと継続的に地面の表層を叩いていた――何が? 地震? こんな揺れはこの地方には存在しない。「うわっ、何だ――」“大鼻”トマスが寝ぼけた声音で毒づきながらテンダ(テント)の中から這って出た。
 ――姫さんを気遣う義務があるのは無論のことだがこのときばかりはそんな余裕が微塵もなかった。遠く中空を仰ぎ見る。首領を呼んで来るべきかこの場に留まっているべきか寸瞬迷った。その隙間にグイドがトマスを追ってテンダ(テント)の外へ這い出して、姫さんが自分と同じ中空に視軸をやっていた。

「……何が来るの」

 つんのめって駆け出しかけた足が寸でのところで動きを止めた。縦揺れが続く。縦揺れが酷くなる。小刻みなそれが明らかに勢力を増しているのを体感として実感した。心の臓が物理的に跳ね上がって気持ち悪いくらいの。
 圧しかかってくるぐらいの威圧感に姫さんの頬が引き攣って、自分もそうやって表情筋を引き攣らせているのに違いないとフゴは思う。

「何が来るの……隠していたこと?」

 固い唾を飲み下した。

「……危惧していたこと? ヤコブスとアンタが、」
「さくら!!」

 力強い肉声にはたかれたようにそちらを向いた。誰かが近付いてきていると思ったときには赤い瞳の小さな少女は既に眼前に立っていた。「わ」勢いよく駆け出しすぎたかたたらを踏んで、左右に寸前伸ばした腕でぎりぎり転倒を免れる。「マナカあんた足おかしい……」それよりかなり後方でヤコブス組唯一の女性所属者たる姐さんことカタリナが荒い息を吐いていた。

「フゴ」

 ――ゴォン。
 胃と心臓と頭蓋の内側とが跳ね上がる。

「何が“来る”の――アンタが危惧していたのは、一体なに」

 銀の双眸はそのとき月光を反照した研ぎ澄まされた刀身で、一瞬間だけ過去向けられた銃口の口を想起した。……

「カバネだよ」

 ……どこかでアッチェンデスィーガリ(ライター)に火が点いたような音がした。

「悪魔が至る成れの果て。……誰かが神に背いたな」

 一際大きく地響きが立つ。



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