湿った土を革靴の先で踏み固めるようにして二、三、はたいた。どこかで虫が鳴いている。この森の中に幾つの虫が隠れているんだろうという話題をさくらに振ったらきっと確実にはたかれるので心の底に留めておいた。天を仰ぐと今更晴れた空の向こうでオレンジの夕陽が地平線に溶けている。
 何時間雨が降ったのか、考えるだけで気が滅入った。
 少なくとも今日一日は十分潰れた。

「疫病神が……!」

 マクシミリアヌスが鍋の支度を荒っぽくしながら毒づいた。余裕を持って食料を調達しておいたというのは本当で、一日野宿することになっても申し分ないほどご飯は余る。狩りはしなくていいと先に言われた。さすがにあの一回目の後自分から率先して何かを捕ってこようという気はなかったのだけど。

「馬で急げば日付が変わるまでにはギリギリつきそうなんだけどね」

 と言ってカタリナさんが集めてきた小枝をその場におろした。さすが野外で生活している少数精鋭というか、こういったことには慣れたものでガプサの皆々も食料に関しては抜け目ない(馬に積まれた“樽腹”グイドさんの食料袋は皆の三倍膨れていた)。
 他の皆が集めた小枝を一緒に揃えておいてから、曲げた腰を引っ張り戻して苦笑気味に一言。

「……さすがに慣れないあんたたちを急がせた馬に長時間乗せてたまるものかって中佐殿に怒られた」
「……ははは……」

 過保護だからなあと心の中で呟いた。でもそういう考えには一理ある。真佳はともかくさくらは翌日きっときつくなると思う。きっとカタリナさんたちも本気で進言したわけじゃあないだろう……多分。
 同じく運び込んだ小枝の束を持ってきながらさくらが何とはなしに口にした。

「……城門はまだ開いてるの?」

 少し考えて、日付変更のその前には、という文言を頭の中で捕捉する。ヤコブスを会話のキャッチボールがなっていないとぼやいていたけどさくらも時々不親切な言を言う。自分のとこの首領で慣れているからか、カタリナさんが頷くときに惑った様子は微塵もなかった。

「一応閉まってはいるけれど、日付変更前ならギリギリ門番がいて開けてくれるって聞いてるよ。チッタペピータとか首都のペシェチエーロみたいな大きな街なら大抵のところはそうだろうね」

 ふうん、と言って薪の束をカタリナらのそれと重ね合わせた。人数が人数なだけに薪の必要量は前回以上に必要で、森の中を真佳とさくらが歩き回るのは許せないと主張するマクシミリアヌスに対して彼らの目の届く範囲内でという条件付きでお許しをもらっていたのであった。真っ先に拾い集めたのは“大鼻”トマスさんで、二番手が真佳であったことはここに自慢のために記しておく。糸目のフゴさんはまだ帰って来ていなくて、グイドさんは調理当番。ヤコブスさんは甘い煙草をくゆらせながらこちらの世界地図らしきものと睨めっこを続けている。

「そっち、チッタペピータで買い込むつもりだったんなら寝床も何も無いだろう? あたしんとこ来なよ、三人までなら何とかギリギリ入れるよ」

 と言ってカタリナさんは気安く笑った。「ありがとうございます……お世話になります」片言の敬語で答えたら「あたしらにはそういうのは必要ないよ」とまた笑われた。イマイチ距離感が掴みにくい。

「おい、こら取りすぎだろうが、そちらの人数分を加算してもそんなに枝はいらんはずだぞ!」
「フゴが持ってくるのもあるから大丈夫だってえ。こっちは鍋が大きいからさー」

 少し離れたところではマクシミリアヌスがグイドさんまでにも噛み付いて口論らしきものを一方的に吹っかけていた。何だかんだでマクシミリアヌスもすぐに馴染んでしまうんだからな……。多分本人に言うと苦さで卒倒しそうな顔をするけど。
 グイドさんと目が合って、チョコレートみたいな色の両目を無邪気な感じで細められた。マクシミリアヌスのことは本当に全く気にもしていないらしい。作り笑いは苦手だが何とか口角は持ち上げた。

「無理しなくていいのに」

 ととてもぼそっとさくらが言った。……仲良くしたい気は満々なんだよと頭の中で言い返す。

「マナカさん、マナカさん」

 誰かに呼ばれたと思ったらその先にトマスさんがいた。トマスさんとの身長差は多分恐らく十センチほどであろうと思うので、目を合わせようとすると少しだけ顎を持ち上げることが必要になる。
 こっちに来る前、通りがかったついでみたいにちらっとヤコブスさんの広げた地図を瞥見していたような感じを受けた。

「マナカさんもしかしてこういうの慣れてたりしやすか」
「こういうの……」
「あー、何て言いやすかねぇ、サバイバルだの野宿だの」
「うーん。うん、多少は」

 多少は。
 一般の周りの女子高生と比べれば。多少は。
 ……トマスさんが大鼻の下でくしゃりと笑った。笑いジワを始めとするシワがたくさん現れて、ただでさえ判別の難しかったトマスさんの年がここで再び分からなくなる。笑い顔は幼いような気もするし、反面どことなく老いているふうな感じも受ける……。

「やっぱり! そうだと思いやしたぜ! ここらはよく誰かが通って行きやがるもんで薪もそうそう落ちてねえってぇのに、マナカさんは随分早く戻って来られましたからね。ポイントを見極める目をお持ちだ」
「やー……そんな自慢できるものでもないんだけど」
「トマス、あんたマナカが慣れてるからって頼るんじゃないよ! あたしらは自分のことは自分ですんのが決まりだからね!」
「分かってやすって姐さん!」

 肝っ玉母さんだ……とこっそり真佳は思った。男所帯に咲く一輪の花に甘んじる気はないのだなとすぐ分かる。こういう組織に属するとなれば、必然的にああいう度胸が必要になってくるのだろうか……いや、そういう組織に入りたいわけでは全くないけど。
 カタリナさんがこそっとさくらに話しかけているのを耳殻が拾った。「ねえ、ねえ、何でマナカ慣れてんの? あっちであたしらと同じようなことしてたの?」……そこはかとなく女子高生にも似ているような気がしてきた。
 ヤコブスさんが卒爾に立ち上がったのはそのときだった。……不意に辺りを見回して、全員の顔の表面を舐めるように視軸を回したかと思ったら、再び地図に目を落とし、そこですとんと腰をおろした。何事もなかったかのように。……何事もなかった顔でなかったことは確かだけれど……。
 ヤコブスさんが、と言いかけたがどうやら誰もその様子を目撃してはいなかった。カタリナさんは相変わらずさくらに前の世界のことや真佳のことを尋ねているし、トマスさんはあまり姫さんを困らせねぇでくだせえよとか何とか言いながらそれでも楽しげに二人のやりとりを聞いている。
 マクシミリアヌスはそもそもこっちに背を向けて作業を続けているし、グイドさんは料理のほうで忙しい。ヤコブスさんのあの反応を直接見たのは真佳だけのようだった。

「……」

 どうしたの、と気安く聞くにはあまりに距離がありすぎるし、もうヤコブスさんのほうは丸めた背中をこちらに向けて地図を凝視しているし、タイミングというのを完全に失した気がする。ここからちょこちょこ出て行ってカタリナさんやトマスさんに注目されるのも申し訳ない。
 でも何で話さないんだろう? 話せるような人間が見当たらないということか?

「首領!」

 悶々と思考に耽っていると一際高い声が夕焼けの空を劈いた。喉のところでごろつくトマスさんの声色とも少し間延びしたグイドさんの声とも違う。芯の通った固めの、でも男らしいと言い切るにはほんの若干高すぎるような男の声。薪を取りに出ていた“糸目”のフゴさんだ。枝の束を小脇に抱えて息も切れ切れ、細い眼光でしかし確かにヤコブスさんの側を見つめている。
 さすがにこれにはさくらもカタリナさんもトマスさんもすぐに気付いた。マクシミリアヌスが横目だけでフゴさんのほうを振り向いた。

「首領、あっちに……」
「いたか」

 とだけヤコブスさんは呟いた。当たり前だが真佳は何のことだか分かりやしない。カタリナさんが少し険しめに片眉を重く跳ね上げて、トマスさんがヤコブスさんのほうをしかと見た。フゴさんの喉が唾の塊を飲み込む音。

「いえ……いたかどうかはまだ」

 ふい、とヤコブスさんの視線が他方へずれた。……フゴさんのほうも戸惑っていた。ヤコブスさんに「いたか」とあの時問われてだ。自分が何を言いたいのかを正確に汲みとったヤコブスさんに惑ったような感じを受けた。ただヤコブスさんに説明する意思はないらしく、ただ一言ひっそりと。

「……ならいい。ここには必要以上長居はしない。日が昇ると同時に出る」

 ……咥え煙草で言っただけで、それで地図も畳んでしまった。フゴさんが見つけたものとヤコブスさんが地図を開いて気付いたこと、恐らく同じものを指し示しているという直感はどこかにあるのだがそれが何かがわからない。

「どうせ明日の昼や夕方まではおるまいよ」

 と苦々しげにマクシミリアヌスが呟いた。グイドさんの世話した鍋からぐつぐつぐつと良い匂いが湧いて出た。



海の一滴

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