夜桜 |
「なんつうかな……お前はともかく華奢だから、まずそれを埋めることを考えねぇとな……」……頭の中で何の鮮度も落ちることなく再生された言霊に無表情を繕ったまま瞬いた。繕ったと言えるのか。あの頃のことを思い返すと自然と感情が抜け落ちる。それはヤコブスが意識したことではなかったが、いつの間にやらそれが当たり前になって仲間たちもこの時ばかりは遠慮がちになった。ミオ・リトモ(マイペース)が服を着て歩いているグイドまでがそうなった。手の中で弄んでいた紙巻煙草から灰が落ち、危うくパンタローニ(ズボン)に穴をあけさせる寸前だった。火をもみ消そうとは思わなかった。 青緑石とそれより小さめの臙脂石を一定間隔を置いて繋げたアッチェッソーリオ(アクセサリ)が、いつからそこに巻かれていたのかヤコブスは知らない。渡されたときには既に鞘に巻かれてあって、そこが自らの祭壇であるように我が物顔で納まっていた。鞘に残った日焼けの跡から鑑みるに、それほど短い期間の出来事ではなさそうだ。もっとも今見てみたところで当時と同じ感覚は得られまい。日焼けはあの時より増しに増し、それほど使っていないにも関わらず新たな人物の新たな手垢が付着していた。それが自分のものであるということを認めることに苦労した。三十年、時折その月日を本当の意味で遡ってしまうことがある。 「銃がメインウェポンなんだと思っていたわ」 「……」 一瞬反応回路が錆び付いていたため見返しただけで黙っていると、「主武装」“メインウェポン”の意味をわざわざ純異界語で訂正してきた。改めて思うが動じない奴だ。短剣から視軸を外して短くなった煙草の先端を噛み咥える。甘い香りが鼻腔をついた。 「……それくらいは知っている」 「ここの世界に伝わっている日本語が一体どういう基準で選ばれているのか、ますます分からなくなってきた」 「口にしたのは君だぞ」 「本当に伝わるとは思わなかったのよ」 と言って特別感情の色の見られない双眸を飄々とヤコブスと同じ樹海のほうに向けていた。雨はやむ気配はなく、一定間隔のシトシトいう音を聴覚の薄膜にたたきつけている。三十分か一時間は立ったまま雨のやむのを待ち続けていた面々も、それを超えれば皆めいめい思い思いに腰をおろしたり談笑したり止まっていた作業を再開したりし始めた。ヤコブスもその例外では勿論ないし、彼の傍らに目線を合わせる格好で膝をついたサクラのほうもそのうちの集団に加わったことになる。相棒はいいのかと一瞬もう一人の異世界人を横目で捜した。 「短剣使えるの?」 とサクラが聞いた。 「使える。習ったからな」 「誰に」 「先代に。……だがまあ銃のほうが単純でいい」 使えるか、という言葉に戦闘としての意味合いを当たり前のように付加してくる女はあまり見かけたことがない。ついに短くなりきった煙草を土のところでもみ消した。短剣を彼女のほうに渡してやると、少しく驚いた顔つきで恐らく条件反射で受け取った。ただし何も承諾を求めようとはしなかった――そっちのほうが単純でいい。 自分もそうやって見ていた気がする。暗い色味をした鞘を半ばまで引き抜いて、地に映る地景をなぞり見る。柄の頭は刃のふくらと同じ角度で切り込まれ、柄を逆手で握りこむ際親指の場所を決めやすかった。鍔は短く、元幅と比べて刃幅のほうが幅広い。使われていないのかと疑うほど綺麗なもんだ。 「人を斬ったことは?」 「一度か二度はあるかもしれないが、そこまでする状況がほとんどない。大抵は銃で事足りる」 「カタリナたちは」 ……詰問されているのかと一瞬間だが疑った。プント・インテッロガティーヴォ(クエスチョンマーク)を表す尻上がりはなかったが、それは紛れも無く何気ない調子で紡がれた言だと断定するのに一拍分の時間を要した。 新しい煙草に火をつける。意地の悪い気持ちが沸き起こってきていることに気がついた。 「……“彼女”のように人を斬ったことのない人間に身を託すのは不安か?」 刀身に注がれていた視軸が持ち上げられて驚愕の表情で息を呑むのを「――」何気ない気持ちで眺めていた。サクラがどこに驚いたのか、どこに息を呑んだのか、正しいことはわからなかった。 数回口をぱくつかせ、漸く彼女は「何で」と言った。何でそんなことを言うのか、何でそんな心ないことを言うのか――などということを考えるほど面倒くさい奴ではないので「何で」の意味はすぐに分かった。 「動きを見ていれば分かる」 「アンタみたいに銃で戦う側かもしれない」 「彼女が好んで取る間合いは銃で戦う者は取りにくい」 サクラからの返事はなかった。刀身を鞘に納めきってからこちらに託す。鞘に包まれた刀身の部分を握りこんで受け取った。鞘に僅かな傷がついていたことにそのとき気付いた。 最初、漆黒の刃でアキカゼに切り込まれたことは未だ記憶に真新しい。その時刃を受け止めたときに出来た傷であることは間違いなかった。短剣を準備していたわけでは勿論ないが、咄嗟に刃を薙がれたために防御しないわけにはいかなくなった。鞘を抜かずに翳したために傷ついた。 煙草の切れ端から伸び上がる煙をただただ眺めた。両刃のつるぎで切り込まれたことを人を斬った証だとして持ちだしたなら、サクラは何と言っただろう。あの間近の間合いで銃を出すことは危険行為であり、銃を扱い慣れている者であってもつるぎを薙いだほうが効率的であることを見事に指摘出来ただろうか。実際にヤコブスもあの時咄嗟につるぎを出した。その実例だけを指摘するほうが彼女の性には合っている気がしないでもない。別に彼女を論破してやりたいと思うほどには悪童心は働かせていなかったが、実際にはよりズヴェルト(スマート)なほうを優先させた。 「――行ったことあるの? アンタらか、或いはトマスだけが?」 「どこに」 「チッタペピータ」 条件反射で尋ねてみたら返ってきた答えは想像していたものだった。チッタペピータ。お上品な欲望と下品な願望が入り乱れた貴族の街――。煙草の一端を口はら離した。 「通ったことはある」 「チッタペピータを?」 「ああ、西から東へ行くなら必ず通る街並みだ」 「アンタは西から来たのね」 ……ほんの少し返事に窮した。 煙草の端を咥え直した。 「一時だ。教会の影響が薄いと言っても歴史を重んじる貴族の街、我々にとっても居辛いことに変わりはない」紫煙を吐いて一息ついて、「トマスは共にはいなかったが、あいつは国の様々な場所を渡っていると聞く。実際いたこともあるあろうし、その期間は俺より長いかもしれん」 土を叩く雨の足跡を見透かす横で、サクラが頬骨のあたりを見やっていることに気がついていた。“姫さん”が言い淀むのが物珍しく、ついつい視軸を投げて「何だ」と聞いた。 「本当にいるの、その絵画から抜け出した男というのは」 「……」 言葉の意味を理解するのに少しく要った。 「……それは、そういう種族がいるのか否かという問いか?」 「種族としているならいるでいいのだけれど、あるいは絵画から抜け出す術がこの世界にあるのか否か。不老不死とまではいかないまでも、不老というのがいるのか否か」 ……異世界人というのは思ったよりも面倒くさい。 いや、それよりも不老不死という言語に怖気が走ったほうが先だった。不老不死とは神への背信であり、彼女らの世界でどうかは知らんがこちらの世界ではそれは――。 「サクラ」 と口にしたのはヤコブスではなかった。ヤコブスの沈黙を会話の終わりととったのか、どこぞの中佐が眇めた眼を遠方に投げてサクラに声をかけたのだった。視軸の先にアキカゼがいるのを目に留めた。 「マナカの人見知りはいつもああなのか?」 「……ああって?」 「どちらかというと引っ込んでおる。光の粒子は外に向かうが消極的で、外から来る刺激を消化するのに必要以上の長い長い時間をかける」 大木に背を寄りかからせた大男を、両膝を地面につけたまま天を仰ぐようにサクラが顎を持ち上げた。 「大体そうだと思うけど。アンタの知ってる真佳は違うの?」 「うむ……」 何とも曖昧な言い回しだとヤコブスは思った。肯定とも否定とも違う、ただの呻き声だと判断を下し紫煙を吐く。 「今のマナカを見ていて気付いたことだが……初対面でありながら、あまりに普通だったのだ。人見知りしている様子などまるで感じたことがなかった。人見知りだということを今知ったくらいだからな……。今思えば、今と比べて少し型にはまるくらい大袈裟だった気はしなくもないが」 「……」 サクラが次の句を挟み込むのに時間がかかった。雨の音が強調された。 「……誰もいないからね」 とサクラが言った。 「歴史を繰り返すのを怖れたのかもしれないし、言わないと伝わらないことを理解したのかもしれない。あるいは相手の信頼に応えたかったか、ただ単純に必死だったか……。怠けられないときにならないと、必死にならないやつだから」 カッラと並んで疑問符を浮かべたことが不本意だった。それは答えというより独り言で、吐息のついでに乗せたかのような返答だった。 「恐らくマクシミリアヌスの知るそれが、本来のアイツに近かったことは間違いないわ」 断定。今度は独り言とは聞こえなかった。 「絶対的に信頼できる人間がいない状況だからこそ、尻込みしている暇がなかったんでしょう。早急に適応する必要があった。少し無理をしてでもね。そうすることでこの世界に、自分の居場所を仮にでも作り上げてもらおうとした。できるだけ早く」 マクシミリアヌス・カッラが低く唸った。「何故そう急ぐ? 今のように慎重でも問題はなかったろう。どちらであっても状況は変わらないのなら、楽なほうを選べばいい」 「ここがアイツの世界ではないからよ」 紫煙を吐いた。カッラが瞬くだけの時間が要った。あるいはサクラがそれを待っていた。 「アイツの世界ではないということは、土台が何もないということ。だからまず第一の課題として土台を作る必要があった。楽観的に見えてアイツは全く楽観的じゃないのだもの。帰る場所がなければどこへも行けないし、行こうともしない。アイツが戦うのはアイツが周りより強いからであって、そうでなければあんな無茶苦茶なことはしない」 強い、とあまりに自然に口にしたことに横目を投げた。過信とは違う。どこか誇らしげで、ただ空が青いために青いと言うだけのそれだけの意味しかない口振りだった。 「……結果、君が彼女の土台になったのか」 ……カッラが尋ねたことに相違はなかった。 アキカゼが無理にでも適応を早めた場面をヤコブスは実際に見てはいない。ただそうする気持ちはよく分かる。敵地で必要以上に自分らしく在ろうとするのは自然なことだ。動揺や恐怖を気心知れない相手に見せてはいけない。いち早く適応するか、あるいは何でもないフリを装うのはある意味では威嚇であり、強固な鎧であろうと考える。 十七歳で。――とヤコブスは思う。サクラと同い年であるなら十七歳。成人年齢の十五歳を超してはいるが、十七歳で突発的にそれを行うことが出来たのか。 “歴史を繰り返すのを怖れたのかもしれない”とサクラは言った……アキカゼの“歴史”に一体何事があったのか? サクラは曖昧に微笑んだだけで、カッラの問いには答えなかった。 雨は滴り、遠く受け答えるアキカゼの声すら消していく。 |