「…………」

 マクシミリアヌスが般若のような顔をしている。花崗岩みたいな顔を赤黒く染め上げて、つり上げた眼尻から発散される眼力で相手を睨んでいるため眼球が眼窩から零れ落ちんばかりになっている。歯を食いしばっているからか口が角ばった感じで静止している。

「俺一人が同行したいと言った覚えはない」

 ヤコブスさんが飄々とそう言ってさくらの荷物を自分たちの馬に背負わせた。真佳の荷物も持ってもらった。当たり前のように無言で手を差し出されたときは握手したいのかと困惑した。

「……あたしらのこと、まさか話してない?」と色黒のお姉さんがそう言えば、
「首領……」
「勘弁してくだせえや……。ただでさえ教会人と一緒なんて堅苦しいってのに」

 頭にタオルを帽子みたいにきゅっと巻いた糸目の人が諦めたようにヤコブスさんを階級で呼んで、灰をかぶったような髪色の小柄なおじさんが辟易したように呟いた。……二人目のおじさんは顔の真ん中に配された獅子鼻がとても大きくて視線が引かれる。多分壮年だと思うのだけれど、いまいち判断がつきにくい。

「話す暇がなかった。どこかの誰かが先走ったおかげでな」
「そもそも隙があったとしてアンタちゃんと話したの?」
「それは君らの聞き方次第だ」

 さくらが腕を組んだまま嘆息してそっぽを向いた。なるほど、ヤコブスさんとても頭が切れるっぽい。さくらや真佳が助太刀しなくても、あれならマクシミリアヌスを丸め込んでしまいそうな策の一つや二つ考えていても不思議はない。……どこか直情的な感じがするけど。今さっき出会ったばかりの相手をすぐさまカテゴライズするのは真佳自身どうかと思うが。
 東の森から西のここまで、真佳らを(もっと正確に言えばさくらを)追っかけるために徒歩では無謀であると判断したのか、あるいはこれから先の旅路を慮ってのことであるのか、ヤコブスさんは最初から栗毛の馬を連れてきていたらしかった。話し合いが一段落した後に、切り株が並んだ広場の向こうからどこからともなく連れ出したのだ。どこに繋いであったのか知らないが毛並みの綺麗ないい馬だった。筋肉の形も申し分ない。
 人数が増えたところで旅のルートに上書きはない。広場のある森の中からさっきの通路に皆で戻ることになって、そこで待っていたのが彼女らだった――皆一様に青い上衣を見に纏い、首領であるヤコブスさんを待っていた。

「馬は五匹、異界人二人は乗せられるがあんたは無理だから全員歩きでついていく。予定に変更はないのだから問題はなかろう」
「大いにあるぞ……」

 地獄の底から這い上がってくるような低い呻き声だった。マクシミリアヌスとしては、一人でも許容範囲外だった堅気でない人間がいきなり五人に増殖されりゃあそりゃたまったもんではないだろうと推測は出来る。

「ええい……! 貴様らその上衣は脱いで行けよ、誰に見られるかわかったもんじゃない!」

 しかしここで駄々をこねたところでさっきの二の舞いになるのを理解しているあたり、マクシミリアヌスも頭は悪くないのである。ぶつくさ言いながらガプサの上衣をちゃんと畳んで仕舞う辺り上下関係は出来ている気がしないでも……ヤコブスさんが目線で示したからかな?
 緩やかなウェーブの茶髪をポニーテールにしたガプサ唯一の女性がカタリナさん。額飾りとして頭のところに孫悟空がしているみたいな金の輪っかがはまっている。褐色の肌に金の双眸がよく映える。タオルを巻いた糸目の人がフゴさんで、大鼻の人がトマスさん、一人話し合いに参加せず馬の手綱を引きながらマイペースに風景なんか眺めている褐色のスキンヘッドの人がグイドさん。ガプサからは“樽腹”という愛称で親しまれていて、あだ名のとおり全体的にふっくらしている。
 ヤコブスさん含めて計五人、これが東でさくらを保護したガプサという組織の全体だった。ガプサに拾われたというのは聞いてはいたけれど、それがどんな人だったのかという点については今まで聞いたことがなかったので知らなかった。アクの強そうな人たちが揃った、バラバラだけど整ったいい集団だ。
“糸目”と呼ばれているフゴさんと一瞬視軸が合った。少しだけ柔らかく微笑して、「あんたが“マナカ”さんだったんだな」。……さくらは一体どういうことをこの人たちに話したのか不安になった。どうせろくなことではない。

「どうせ道中を共にするのだから馬に積んだほうが効率的だろう」
「何をされるかわかったもんじゃない、断固拒否だ! 荷物を渡さないと言ったら渡さんぞ!」
 ちっと小さく舌を打って「分からないジジイだな……」
「貴様そこに直れ!!」

 マクシミリアヌスとヤコブスさんの言い合いを眼前で軽くでいなしながら澄み渡る青空の彼方を仰ぐ。グイドさんの見ていた方向は多分チッタペピータのある方角で、街の先端みたいなものがほんの少しだけ地平線から突き出ているのを、辛うじて読み取ることができていた。尖塔みたい。首都ペシェチエーロにあったような大聖堂があの街にもあるのかも。
 すん、すん、と何かを嗅いでいるような音を耳殻が拾った。

「……ちょいと荒れそうな空気になってきやしたね……」

“大鼻”トマスが誰にともなく呟いた。


絵画の疑惑



「今日の予報は晴れだったんだ!!」

 とマクシミリアヌスが誰より先にまず吠えた。教会が発行する新聞には隅っこのほうに天気予報の見慣れた図式が書いていて、そういうものは全て運命鑑定士が決めていることを以前に聞いた。今日の天気予報はマクシミリアヌスの言うとおり全体的に晴れだった。

「気象を決めるのは最終的に神のご意思だ。運命鑑定士はその過程を勝手になぞり結果を予測しているに過ぎない。そもそもあの言行からして神のご意思に反している。予期しないことが普通だと受け入れるんだな」
「“神、先に立ちて知恵あるものをこそ導かれし”――計画し正しく処理していく者、真理を見抜く認識力のある者をこそ神は御国に導かれるのだ。思考を停止すればそこに神の都はない」

 緑色と金色が鋭く交錯するのを横目で見ながら大木の幹に背中を預けた。葉の表面を雨が叩いて滑り落ち、濡れて濃くなった地肌の上に新たな雨粒を降り注ぐ。曇天は厚く切れ目は見えず、通り雨と言うには多分長すぎるだろうと真佳は思った。トマスさんが言ったことは的確で本当に綺麗に荒れてしまった。
 視界の端から真新しそうなタオルが差し出されて一瞬思考回路が固まった。

「濡れただろう? 森の中に即座に避難できたと言っても、完全には雨はしのげないからね」

 ……貸してくれるのだということに漸く気付いた。見るとカタリナさんの側も片手でタオルを差し出しながらもう片方の手で髪にかかった雨滴をとても丁寧に拭い取っている。その向こうでさくらが頬を拭いていた。天然ものの茶髪が濡れて少し毛が伸び、肩のところに濡れた毛先が触れかかっている。装飾ナイフを思わせる銀の双眸が憂いを帯びたまつ毛の下で物思いに耽っているような様相で、その横顔の曲線は曇天の暗がりに映えるように浮かび上がっていつもの数倍美しい。霧。また霧だ。隔絶のミスト。
 差し出されたタオルを出来るだけ丁寧に受け取った。

「丁度いい大木があってよかった。あれから大分歩いたろう? 馬にも休息を入れさしてやりたいと思っていたんだ。これからの相棒になるんだから大事に労ってやらないと」

 ……実際どれぐらい歩いたろう。髪の雨滴を拭いながら真佳は思う。特に全員喋ることはなかったと見えて黙々と(マクシミリアヌスが時々ぶつくさ言う以外は)、ただ黙々と目的地に向かって歩いていたから、もうほんの一息というところまで来ていたのではないかと思う。地平線上に突き出た物体も四分の一くらいは見えてきた。大聖堂と言うよりは、どうやら何かのお城らしい。
 ガプサの上衣を脱ぎ去ると、カタリナさんは男まさりがうっそり消えてセクシーでエキゾチックなお姉さんという態になる。ワイシャツの第一ボタンを外した女性をこの国では初めて見かけた。形のいい鎖骨がちらりと覗いて、それが何だか艶かしくて「えーっと」と慌てて視線を逃す。

「カタリナさんの馬は黒鹿毛ですね」
「おっ、よく分かったね、馬乗ってたの?」
「少し。祖母に……乗らされてたというのが正しいけれど」

 カタリナさんの指先が水を孕んだ真佳の髪に触れたのを実感した。「あんたは馬に例えると青毛だね」……にっこり笑われるとどう反応したらいいか分からない。
「首領」と“大鼻”のトマスさんが向こうの端から言葉を放つ。ヤコブスさんの目がそちらを向いた。

「駄目ですね、かなり広い範囲で降ってるらしい。雲も厚そうですし、風はあるっちゃありやすが……」
「そうか」

 と一言言っただけで、大樹の幹に本格的に背中と頭を預けてしまった。上衣から引っ張りだした煙草に火をつけ、雨に叩かれる樹葉を見上げて紫煙を短く吐き捨てる――。
 ……あまりに自然な動作だったのでそれが何を意味しているのか理解するのに数十秒の時間がかかった。雨がやむまでの間、どうやらここでのんびり一服を楽しむらしい。ヤコブスさんの向こう側にいるマクシミリアヌスに目をやると、「疫病神が揃うから」とか何とかぶつくさと不満顔で呟いている。どうしても雨の犯人をヤコブスさんたちにしたいらしい。この前は見事に雨が降ることを予測すらして見せたのに、今回それが発揮されなかったのは単純にヤコブスさんたちに苛ついていたからだろうか。

「……マナカさ、あたしもっと奇妙奇天烈な奴だと思っていたよ」
「は」

 ……いきなり何だ? 左隣のカタリナさんを振り返って視軸の位置をさっきの位置まで戻そうとした。が、……ちょっとうまくいかない。

「もっと超人的で圧倒的で、規格外の奴だと思った」
「う、うーん」――一体何を話した?
「でも大人しいね。奔放にもっと動いていると思ったよ。くるくるくるくる目の色とか表情変えて、世界を取り込んでいると思った」
「人見知りしているだけよ」

 ……「人見知り?」とカタリナさんが左隣を振り向いた。何を話したか分からないがそれと一緒に人見知りであることもさくらさんにバラされた。

「……うん? え、じゃあここまで一言も喋らずずっと景色を見てたのもそういうこと?」
「……ううう」

 そう言われて「はい、私は人見知りです」とはきはき答えられる人見知りもいないような気がする……。それが初対面の人に言えたら苦労はしないし、出来ればなおしてしまいたいことではあるし……。折角さくらがお世話になった人たちなんだから。
 さくらがちらりとこっちを向いた。

「……私がお世話になった人だから、本当はアンタらと仲良くしたいんだって」
「嘘だろ!?」

 ……声を荒らげたらカタリナさんにびっくりされた。さくらが大儀そうに三文字(みもじ)を受けた。

「何が嘘だ」
「何って! だって! 何で! 何そのマジック!」
 ほくそ笑んで、「ビンゴだった」
「……あああああ!」

 ブラフかよ!! ブラフかよ!……ということに今更気付いた。遅い……遅すぎた。何も気付かれてなどいなかった。さくらが勝手に適当っぽい答えを繋げて、鎌をかけてきただけだった……。樹木に背中を預けた状態でそのままずるっとしゃがみ込んだら幹の荒い触感が背中の表面に刻まれた。今、今全員がいる前でそれを……。それを言う……。

「違う……違うの……違くないけど違うの……」
「顔覆われると聞き取りにくい」

 きっ、とさくらを睨み上げたら素知らぬ顔で流された。
 ……思えば出会ってからずっとこうだった。最初は真佳もさくらに対して人見知りを発揮していた上ちょっと状況が捻くれていたのも手伝って、今よりもっと純粋にさくらのブラフに引っかかっていたような。で、その度に抗えない羞恥に見舞われるのだ……。あの頃も読心術を本当の本気で疑った。何故今ブラフをすぐに疑えないのか自分でとても疑問に思う。……何故だろう。

「仲良くなりてぇってんなら丁度いい」

 どこか別の方向から誰かが言った。
 顔を振り向けると“大鼻”トマスさんがそこにいた。

「これから行くチッタペピータについて、ちょいと面白い情報を仕入れてるんですがね。聞いてみやすか?」
「どうせくだらんことだろうが」
「まあまあ、旦那そう言わずに。にべもなく一蹴するには希少すぎる話題なんですがね……」

 トマスさんがそう言うのでただの一言で切って捨てようとしていたマクシミリアヌスもほんの一瞬トマスさんのほうを一瞥せざるを得なかった。雨が路傍を叩く音。……音に塗れたこの中で、一体どうやって一番端にいるトマスさんに話の内容が伝わったというのだろう。
 咳払い。

「チッタペピータ。皆さん知っての通りあすこは金持ち、特に教会関係者とは縁もゆかりもない貴族様方が名を連ねる一つの都市でございやす。噂では古くからある名家でなければ軒を並べるのも許さないという話もありやすが、それが例えば嘘であっても貴族の名が連ねられるのは必然的と言い切っても過言じゃありやせん。何しろ土地代、物価が高いんですからね。商人もあすこなら買う連中がいるってんで、高価な品や希少な品は皆まずあすこへ流されるってぇ話ですぜ。実際それで商売が成り立つんだから貴族ってえのは恐ろしい。
 ……そんな土地の外れに一つ、どこよりも広くどこよりも古い立派なお屋敷がございやしてね」

 ……濡れた肩がぶるっと震えた。トマスさんの声が低くなった……。雨水吸い込む土壌のように湿気を孕んで低く低く、じっとりと。……体の芯がまた震えた。うん……?

「いや、あれは城と言ったほうが正確かもしれやせんね。ほら、歩いているとき見えたでしょう。地平線から浮かび上がる尖塔が。オレぁばっちり見えやしたが、あんた方はどうだったかな。ああ、マナカお嬢さんは勿論視界に入れていらしたのをちゃあんと確認済みですぜ。遠くをずっと見ていやしたもんね」
「え、ああ……みてた、」

 ……けど。
 トマスさんはそこで小さく頷いた。ヤコブスさんのふかした紫煙が甘い香りを運んで逃げた。

「古来からある城、もう何百年前、何千年前になるとも言われていやす。何せあすこに一番近付いた人間が、その頃合いの建物で違いないと太鼓判を押しているんですからね。原初の異世界人よりも前ですぜ? その頃からの貴族ってえと、そりゃあいくらチッタペピータであっても序列が雲の上まで伸びるのは必至、必然ってやつでさあ。知ってやすか? あそこの一番の権力者であっても城の持ち主には頭がてんで上がらねえって話……。ま、それだけ名前に力があるってことでさあ。けどねえ、おかしいと思いやせんか……それほどの序列の人間が、どうしてチッタペピータの外れだなんて辺鄙なところに住んでるか、ってえのがさ……」

 雨の音が大きくなった……ような気がする。誰も茶化す人はいなかった。多分話の筋を掴みかねている。どういう類の話であるのか、未だ確信が持てないのだ。だから迂闊に口を出さない。だからトマスさんは何も言わずに話を始めた。
 ……でも真佳には確信があった。
 嫌な予感こそよく当たる。

「雨が」
「そう、雨が」――先手を打とうとしたらかわされた! 真佳の流した話の一端をうまくとっ捕まえたと思ったらマジシャンみたいに手品の種に変えている――「雨が降ってきたのは、もしかしたら幸運だったかもしれやせんぜ。昔チッタペピータでどういう事件が起こったかご存知で? 街中の子どもが一夜のうちに失踪するって話でさ。結局見つからなかったって話ですが」
「ただのお伽話だろう。教会はそんな話は認めておらんぞ。彼女たちの世界にも同じような話があった。『ハーメルンの笛吹き男』だ」
「まあまあ、話の真偽はともかくとしてですね。問題はその事件で失踪した人間を最後に見た目撃者の話のほうで」
「……目撃者?」

 トマスさんが「へえ」と小さく頷いた。……マクシミリアヌスの取り込み方をよく知っているとまず真っ先に感心してしまったことが仇になった。声は一層低くなる。

「月のない夜、何でも事件が起こってから数日経ったある日のことですがね……いなくなった子どもの一人を見かけたってやつが現れまして。それがどこかってえと、くだんの城の中っ側だっていうじゃねえですか。今から数えると、そうですねえ……丁度百五十年前ってえことになりますか。子どもの行方を捜索するのに必死だった街の人間は城の主に捜索の要請を求めやしたが門前払い。名が名だけに無理矢理の捜索も許されねえもんで、結局証拠不十分でそこの捜索は一向叶わず、子どもたちも見つからず。……ただちょっと、そこから思わぬ話に発展していくわけですが」
「思わぬ話……?」

 とさくらが聞いた。
 多分さくらが聞かなければ、他の誰かが聞いていた。
 トマスさんが頷いて、唾を呑むための妙な隙間が一瞬できた。

「門前払いに出てきたその城の持ち主――まあ青年だったんですがね、交渉に来てた街の人間が一人、見覚えのある顔だとそのとき気付いたそうなんです。そのときはそれで帰っちまったんですが、後々ふと気付いたそうです……“ああ、あの絵だ”、って」
「……絵?」今度はカタリナさんが問いかけた。
「――ええ、その人間、どうやら美術商を営んでいたようなんですが、そういう目利きはめっぽう強かったらしいんで。で、そいつが昔、一度くだんの城を覗いたときに見たらしい。玄関ホールに粛々と飾られた肖像画――状態から百年は経っているに違いないその絵に描かれた青年と瓜二つ。まるでその肖像画から人物だけが忽然と姿を消し去って、この世に現れたみたいだったと後に男は語ったそうです」と
 トマスさんが語ってから大分長い隙間が空いた。

「…………絵から男が抜け出して来た、って言うのかい」かなりの静寂ののちにカタリナさんが言葉を挟んだ。トマスさんは首を振る。縦方向にではなく横方向。

「さあ、それはどうでしょう。あくまで又聞き、伝聞の域は出ませんや。城に肖像画がかけられてるってえ話は、どうやら本当らしいんですがね」
「……偶然に決まってる!」

 とまた間をあけてマクシミリアヌスが口にした。ポーカーフェイスを保とうとはしているが唇の端がひくついているのは明らかで、頬を引き攣らせているのはすぐ分かる。

「……往々にして一族というのは似るものだ! 描かれている先祖の絵と子孫の姿形が似ていたところで、驚くには値しない」
「っつってもねえ、ほくろまで似る、なんてことはさすがの旦那でもあり得ないと思うでしょう?」
「――ほくろだと?」

 へえ、とトマスさんが首肯した。あまりに深かったので一礼したのかと見紛ってしまったほどだった。左の首筋――指し示されたのは頸動脈のある一点。

「ここに一つ、ぽつんとね。星形のほくろで、あまり見ない形だったから覚えていたと、そう美術商は語ったんだそうですぜ」
「……馬鹿馬鹿しい!」

 結局マクシミリアヌスはそう言って、ぷいとそっぽを向いてしまった。「現実的にあり得ん、絵が動くならまだしも……絵から人が抜け出すなど……」ぶつぶつという呟きが何やらここまで聞こえてくる。
 絵から抜け出してきたような男、数百年の時を乗り越えた肖像画――千年の時を受け継がれてきた貴族の古城。

「幽霊じゃなくてよかったわね」

 誰にともなくさくらが言って、乾いた笑いをそのまま口から漏らしてしまった。てっきり幽霊話だと思った……お化けの類じゃなくてよかった。
 しかし妙な話だ。容貌だけならまだしもとして、ほくろの位置や形までそっくり絵画と同じだなんて。もしそれが真実本当のことだとして、その人は(その絵画は?)まだあの古城に居るのだろうか?……

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