草原の只中、十字に切られた舗装路面の中央部分に据えられた城壁に囲まれたこの国の首都、ペシェチエーロ――。それがここから見るのだけではわからないほど大きく高いことを姫風さくらは知っていた。雑多で騒々しい活気に溢れた町並みと、敬虔な信仰心を心の深奥に確かに持った人懐こい人柄の多くの町民。いいところだと素直に思う。
 しかしさくらにとっての首都ペシェチエーロとは、飽くまでも外から望んだ城壁だった。
 中の見えない、何が内包されているのかわからない、何の材質でどんな高さを持っているかもわからない、青空の下に立ち上がる香色の城壁がさくらにとっての首都だった。――あの時とは逆になってしまうのか。西側に望んでいた首都は今や東側に移り変わり、こうして共に望む人間の数も性格も体格も、随分様変わりしてしまっている。それでも正円に作り上げられた城壁の顔色は一つとして見慣れていないところがない。

「……神がなさることは全て不変の均衡で……」

 ――不変の均衡であるがため、神のなさることに落丁はなく、全ては萌芽の時宜に至っていないのにほかならない。神は時を創り給うたように時宜に適うよう全てを造り、悪人と善人とを全て等しく裁かれる。全ての出来事、全ての行為には、「定められた時がある」
 ……ソウイル聖典の始めの聖人、プリームムと肉親関係にあるジョヴァンニという聖人がプリームムに宛てて書き散らかした言葉のうちの一つらしい。覚書みたいな色合いが強く、ところどころ均衡に保たれた天秤のように浮ついたところがあるものの、指南書としてこれ以上のものはないとスッドマーレでペトルスがさくらに渡しておいてくれていた。聖典『ジョヴァンニの言葉』の他にあと五冊。当たり前だが全てが異界語版である。こちらの世界では“異界語”と呼ばれる慣れ親しんだ日本語は、五百年前にこちらへ渡った日本人が広めたおかげでスカッリア国での第二言語とされている。
 確か、神を拒んだ者は不変から外され闇に侵されるのではなかったか。なるほど、あの城壁が不変そのものを表しているとするならば、そこから取りこぼされたさくらや新教の人間は不変の契約からは外されたことになるわけだ。それが堅牢であればあるほど、神が描き出した不変の中へは絶対的に戻れない。

「ほ」

 真佳が一音発して立ち上がるとバックパックの中っかわでカンカンと何かがぶつかるような音がした。吊り下げ式の鍋だと一拍遅れて思いつく。マクシミリアヌスが途端渋い顔をした。

「そういうのは俺が持つと言っておいただろう」
「マクシミリアヌスも重いかなと思って」
「重いものか! この上腕二頭筋が見えんとは……。君たちとは鍛え方が違うのだ、いいからそれは俺に任せて君たちは最低限の食料だけを持っていてくれればそれでよい」
「マクシミリアヌスそれは少し筋肉馬鹿な台詞に聞こえる」
「いいから背嚢をおろしなさい」
「背嚢」

 復唱してから真佳が赤い眼をぱちくりさせた。……五百年前に異界へ渡った日本人の時代か或いは性格が悪かったのか、この世界で異界語として浸透している横文字とそうでないものの落差に時折少し目眩がする。背嚢って実際日常会話で音として聞いたのは初めてだ。
「私も一応鍛えぬいてはいるんだけど」と口の先で言いながら、今背負ったバックパックを大人しくまた地面におろした。マクシミリアヌスがその中から川水で洗った鍋を一つ取り出した。鍋を吊り下げるために組み立てた枝はその場に置いていくことに決定している。これから少なくともチッタペピータに着くまでには枝に苦労はしないだろうとのことだった。チッタペピータに辿り着くまでには首都西にある森を皆で越える必要がある。東の森には以前“棲んで”いたことがあるが、西の森に立ち入るのは初めてだ。

「お米と野菜とキノコと保存食……ちょっとしたお菓子」
 待て、と思った。「ちょっとしたお菓子ってなんだ。」

 バックパックの中身を改めて確認していた真佳に向かってそう言うと、真佳がきょとんと瞬いた。

「揚げパン。ルーナが作ってくれたの持たせてもらった。皆で食べてねーって」
「ああ……」

 なるほどそういうことか。てっきりお菓子でバックパックをいっぱいにしてると思った。中学の遠足のときに菓子代三百円という設定値段を逆手に取って、材料費三百円までの手作りクッキーを大量に作らせようとしてきたことを思い出す。大人しく普通に市販のものを買いに行かせた。クッキーはまた別の機会に作ってやった。
 ……あのときはまだ若干ぎこちなかった気がする。何がって真佳の笑顔が。表情は後天的なものだとどこかで聞いた……。なら、それを一時的に失念していたヒトの場合は、一体どういうことになってしまうのか。
 スティック状に刻まれた揚げパンを目の前で左右にチッチと振られた。

「食べる? もう食べる? 私は全然全く、一向に完璧に構わないよ?」
「アンタ食べたいだけだろ……」

 お昼ごはん食べたばかりだぞと思ったが何となく目の前で振られたそれをそのまま手に取っていた。何となくメトロノームを想起した。

「マクシミリアヌスも食べるー? 揚げパン」
「あ!? 昼飯を食ったばかりだというのに君たちは何を……というかいつの間にそんなものを持っていた!?」
「ルーナが作って持たせてくれたー」

 ……今の真佳の表情に翳りはない。とても自然な破顔のように、さくらの目には映って見える。中学のときは表情筋などぴくりとも反応しなかったのに――“あいつ”が表に出てこない限りは。
 今なおちゃんと覚えてる。あれは終わった物語では決してない。根本的には解決していないのだと知っていた。コールタールに似た粘着質の声色と、奈落の底を覗いたような赤い――赤い双眸。
 ――秋風真佳に近づくな。
 ――ワタシは真佳みたいニお人好しじゃアないよ――。
 いつの間にか閉じていた目を見開いた。

 ――近づいタら殺す。
「さくら」

 ……一瞬現実と思い出の区分けがつかなくなった。同じ声音で紡ぐから……。おどけたように上半身を屈めながら、上目遣いでもってこちらを見やる赤い双眸に奈落の翳りが一つもないことに安堵した。一ヶ月間伸ばしっぱなしのウェーブのかった黒髪は何の工夫もなくそのまま背中に垂れていて、これ以上伸ばし続けることを許可していたら腰のあたりにまで毛先が触れてしまうだろうと思われた。……さくらのほうもこの一ヶ月一度も散髪していない。

「揚げパン食べないなら私にください」
「食べる」

 揚げたての香ばしさと砂糖の甘味が口の中程に広がった。


砂糖菓子に埋没



 首都ペシェチエーロからチッタペピータへ渡るのであれば森の中を経由していくのが最短ルートと知られているが、南町スッドマーレからチッタペピータへ渡るのであれば森の中へわざわざ立ち入る必要もない。森を南側からぐるりと西へ巡るので多少遠回りにはなるものの、整備されていない森の中ほど歩きにくくはないだろう――と、出発する前夜にマクシミリアヌスから告げられた。移動魔術式で首都まで戻って再び出発しなかったのはそのためだ。マクシミリアヌスはそうでもないとして、まだ馬に慣れていない真佳とさくらが同行するなら徒歩でこちらを通ったほうが幾分安全ということだった。と言ってこれから先永遠馬に乗らずに駒を進めることは困難なので一応チッタペピータで簡単な訓練を受けることにはなっている。馬車で通れない道のりを往くのにはこの訓練は必須であるとマクシミリアヌスは熱く語った。……それまでは徒歩で、“背嚢”を背負ってこうして森の南側を延々巡り続けることになる。

「あ、蝶々。多分」

 淡い紫色の四枚羽を持った昆虫を指して真佳が言った。……さくらの中では蝶々だって堂々と昆虫にカテゴライズされて苦手が流石に距離があれば怖くない。あれが本当に蝶々であればの話。というか、

「食うなよ」

 ……真佳が一瞬固まった。

「……食わないよ! やだな何言ってんの! 蝶だよ!? 虫だよ!?」
「……この前ゴキブリ食べれるのかなって言ってた……でしょうが」
「もしそれしか食料がなかったらの話だよ! 率先しては食わないよ! 虫だよ!?」
「おっ、食える虫もあるぞ」
「マクシミリアヌスは入ってこないでややこしくなる!」

 実際元いた世界でも食える虫あったでしょうがと続けようとして寸でのところで取りやめた。調理された虫の数々を思い出してしまった……自分で掘った墓穴に自分で入ってしまったようなものだ。失態だ。

「大体調理して美味しそうなものしか食べないよー……。さっきの鹿みたいのは美味しそうだった」
「ファモスか」マクシミリアヌスが言うと同時にさくらの思考も先ほど真佳が狩ってきた四つ足の動物にシフトした。「まあ実際美味いらしいがな……。しかしあの愛らしさにあまり食おうとするものは……いや、まあいい、それも次の街に入れば食す機会はあるだろう」

 歩くついでにバックパックの位置を調整しながら真佳がマクシミリアヌスの体躯をうんと見上げた。ぱちくりと赤目をしばたいて、

「あるの?」

 ……何でちょっと嬉しそうなんだ?
 マクシミリアヌスが複雑そうな顔で頷いた。

「あるにはある。美味い調理法というのが面倒くさい手順を踏むんで、大抵高級料理店でしか見かけないが、まあ何、旅費は頂いているのだし、多少君たちの観光のために奮発しても神も許してくれるだろう」
「そこで神が出るのか……」とても緊張するなと唇の先で真佳が言った。
「……ところでシカとは何だ?」
「……ファモスみたいな生き物だよ」

 空を覆い尽くさんほどに大樹の密生した右手の森から視線を外して、南側に広々と展開される草原のほうに目をやった。西のほうから風が騒げば、葉擦れの音を重ね合わせて悠々伸びた緑の草本がずっと後方に煽られる。樹木の上から落ちかかる葉擦れのそれとはまた別で、こちらのそれはどこがという根拠もないが伸びやかだった。森林だってそうではあったが草原のほうが日本に見慣れたさくらの目には真新しい。アメリカでももっと田舎へ行ったら見られていたのかもしれなかった。ただそのときは、どこかへ行く余裕すらもなかったから。

(アメリカの思い出……は)

 父と母の欠落した世界という印象しかないなと思う。叔母夫婦にそこで暫くお世話になって、それから中学の途中から半ば強引に日本に戻って真佳と会った。いつから弁護士になりたいと思うようになっていたのか、それは今から考えてみると意外なほどに定かでない。
 スッドマーレはもう随分と前から振り返ってみても見えないようになっていた。道中緩やかな丘をずっと登る地帯があったから、それで見えなくなったのかも。町の教会一帯は随分と高い位置にあったように記憶していたのだが、国という規模で見るとこんなものなのかもしれない。“豊穣の月”五月の日差しは静謐として暖かく、港町スッドマーレに比べて流れる風は爽涼だ。……なるほど、随分と旅人に踏み固められてきたのだろう……歩きやすすぎて旅をしている現実感はあまりなく、バックパックの重さだけが唯一の拠り所になっていた。真佳の適応能力には全く尊敬の念すら抱く。何が起こるか一つも予測がつかないだけに、地に足つけて応対していくことを要求されているのだが……。
 ――ガサッと何かがどこかで鳴った。
 局部的に鳴らされた葉擦れの音だということに遅ればせながら気がついた。風ではない。人か、あるいは恐らく動物だ。草原ではない、多分に森の――。
 いつの間にか右のすぐ隣を真佳に陣取られていることに気がついた。真佳が草原に目をやった。マクシミリアヌスが否認する。

「……」

 動物ではない、人のほうか――。こいつらの気配の察し方はもはや野生動物レベルである。ただの旅人だとは認識していない様子であるが、ただ単に特定できないが故の一応の警戒がこれかもしれない。こういうときの彼と彼女の思考について、さくらは全くの無知である。
 スラックスの腰部に差したハンドガンの銃把の位置を、ロングベストの薄い生地の上から指の先だけで確かめた。手渡されてから一度も撃ったことはないけども、扱いはよく知る銃と同じであることは識っている。
 行商人、楽師、吟遊詩人、移動型民族、巡礼者、説教師――いわゆる旅人という人種はその大体がこれに該当するとマクシミリアヌスは語ったが、もちろん町の外に出ているのがそれだけというわけではない。収穫や狩猟目的者、娯楽の追求、国教に抗う他宗教信者等々……山賊や馬賊もその範囲内であることは、事前にマクシミリアヌスから注意と勧告を受けていた。首都の周りは特に獲物がかかりやすいため盗賊の類が湧きやすい。マクシミリアヌスが隊服を着用していれば話は別だったのかもしれないが、行く町々で変な威圧を与えないようワイシャツをスラックスに突っ込んだ軽装でスッドマーレから通してある。治安部隊員だと悟らせて諦めさせることは無理だった。
 幌馬車一台が通れるくらいの道幅中央を歩きながら真佳に腕を捕捉された。利き手にぶら下がられると銃が持てない。「……? 鋭い気配……淀みない……でもどこかが……?」不思議なことを真佳が言った。「……一人だったけどどっか行った……見張りのかのーせい……」ぼそぼそしたアルトトーンはさくらの耳にしか届かない。小首を傾げて、「……どこかで感じた覚えが?」はてな、と真佳が口にした。

「……森の中を突っ切る本道から外れて森の突端に出てくる時点で、ろくな者じゃあるまい……」

 大きな背中を弛緩させてマクシミリアヌスが小声で言った。“一人だったけどどっか行った”のはマクシミリアヌスも感じたらしい……。

「少し先を急ぐ。何、普通に歩けば一日かからず着く街だ。今日の終いはゆっくり休めると思えば惜しむ力もあるまい」

 右肩にしょい込んだバックパックを背負い直し、出来得る限り人に発見されたこの場所から遠く、チッタペピータに近いところを求めてマクシミリアヌスが忙しく片足を踏み出した――その時、視界の右端で何かが一瞬閃いた。と思ったときには真佳の腕が振り絞られて大ぶりのクナイが真横に一閃。がきんと何かがぶち当たって、派手な金属音を響かせた――真佳が背後を振り向いた。音に驚いたに違いないマクシミリアヌスが臨戦態勢で踵を返、「あ?」……マクシミリアヌスが短く言った? チッ、と頭上で逆さのTの音がした。

「君の猛犬を引っ込めてくれ。害しに来たわけではない」

 ……振り返った先の見慣れた顔とぶっきらぼうな声色に、一拍の間反応の仕方を失った。

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