気付かれていないとまず思った。とても綺麗な動物だ。多分草食なのだと思う。短い耳はまるで瞬きでもするようにぴくん……ぴくんと上下に動いて、周囲の音を収集している。長い鼻面は今は地面に近い草原の中に埋もれてあって、小刻みに少し律動している。草を食んでいるのだと分かる。
 真佳のよく知る動物図鑑の中から似た生物を選び出すとするならば、多分鹿になるんだろう。まだ子鹿でつぶらな眼が世界の悪意という悪意を無意識のうちに排斥している。両耳の間には角があったが、これは通常の鹿とは違って枝分かれのないたった一本の真っ直ぐした角だった。幻想動物図鑑を引っ張りだしてきていいのなら、そこはユニコーンに近いかも。毛並みが何より美しく、青味を帯びた白銀色の体毛が午前の気怠い陽光を惜しげも無く跳ね返していた。こういう立派な毛皮がどこかの店先で売られていても不思議でないが、首都ペシェチエーロでも港町のスッドマーレでもお目にかかった記憶はないと思う。
 ……出来うる限り上体を屈めて、草むらの中に両手の先を突っ込んだ。号令。位置について、よーい……。


Unico-rno



「心配! せんでも! 食料なら腐るほど持ってきとると言っただろうが!!」
「もし万が一何かが起こってしまったらと心配になって……」
「それならそのときに俺がいくらでも調達してやるとも! 万が一に備えて備蓄を蓄えるほど厳しい土地柄ではないわ!!」

 そうまで言われると仕方ないので生け捕りにした一角鹿は渋々縄を解いて草原に放してやることにした。放してやったら振り返りもせず一目散に遠く彼方に逃げてしまった。折角狩って来たのに。
 三人用の小さなお鍋の中っ側でことこととスープが茹だっていた。こういうときマクシミリアヌスの魔力は便利なもので、本来動物が忌避すべき存在である火というものをまるで同胞のように扱って鍋の火加減を絶妙な具合に調整している。火を扱う料理において、真佳とさくらの出る幕というのは多分ない。鍋を中心に並ぶ三つ石の一つに腰掛けて、綺麗な毛皮の一角鹿が去っていった方向を未練がましく眺望した。

「……ああゆー動物初めて見た」

 鍋が邪魔で両足を思う存分伸ばせないので代わりにぐんと背もたれのない椅子の上で仰け反った。遠くに伸びた草原が九十度近く回転する。空の割合が二割減った。もうあの生物の尾っぽも見えない。

「……見たことないのによく食べようなどと思ったものだ」

 マクシミリアヌスに渋い顔をされたけれど、それについては真佳だけでない自信があった。この世界のいつかの時代に、ハルモングリという生物を食おうとした猛者がいることは既に調べがついているのだ。
 スープをかき混ぜる手を休ませて、真佳の視線を辿るようにマクシミリアヌスがごつい唇を開け放つ。

「ファモスという。確かに食用にもされる生物だが、それより毛皮としての価値が高い。非常に高価であるがな。食うときは火を通さないと感染症に感染する」
「マクシミリアヌスがいるなら大丈夫だね」

 しかつめらしく頷いたら「だから食おうとするな」と怒られた。実際マクシミリアヌスの言う通り、ここから目的地の街に着くまでに足りるだけの食料はちゃんと持ってはいるのである。ただ真佳が必要以上に万が一を心配してしまうだけで。もし万が一誰かに食物を没収されるとか生き物も見当たらない荒れ果てた土地に放り込まれてここで一ヶ月過ごせなんて言われてしまっては本当に困り果ててしまうからね?
 難しい顔で広げた本に目を落としていたさくらの顔が、つ、とこちらに向けられた。

「焦げてる」
「何!?」

 ……さっきからした黒っぽいにおいはそれだったのか。鍋がかけられていた火が弱火になってしまったのを見てようやくのことで理解した。まだ大丈夫だと思っていた。

「……そういえばマクシミリアヌス、さっきあの動物を見つけたときに真っ赤なキノコがあったよ」
「食うなよ」

 すかさずさくらに突っ込まれた。「キノコがあった」の時点で既に被さっていた。

「……そのまま食べようってんじゃなくて」
「入れるなよ。鍋に」
「……」

 流石付き合いが長いだけあってさくらにはいろいろお見通しだ。それでも何だろう……。またさっきみたいに文庫本サイズの書物に目線を落としたさくらが少し心配だ。心配というか、どうやら何かがおかしいらしい。霧に迷わされていた人間が、迷わす霧になったみたい。
 港町スッドマーレを朝早くに叩き起こされ出発し、太陽が南に昇る頃にはマクシミリアヌスの定める休憩地点に着いていた。それがここ、森の入り口よりも手前に連なる草原のほんの一画だ。森に入る前の旅人か、あるいは森を抜けた寸前の旅人は例外なくここで休息をとるらしい。ということを真佳が知ったのは、誰がいつごろから設置したのかわからないくらい自然の中に同化した、いくつもの座席がわりの大石を見つけたそのときからだ。乱雑に置いてるようでありながら、そのくせ大所帯のパーティでもいくつかのグループごとにこうしてご飯を作れるように計算されて配されているにおいがする。
 真佳とさくらとマクシミリアヌスが座しているのはそのうちのほんの一つで、コンロがわりの調理場を囲んで三つの手軽な座席があった。自分たち以外に周囲に旅人はいないらしい。祭りのときには首都を目掛けてよそから大量の人と屋台と大道芸人が運ばれてきたようだから、旅にも時期があるのかも。その首都ペシェチエーロは今、真佳から見て右側に遠くその城壁を覗かせている。南から西へぐるっと回って、中央に位置する首都が見えるようになったのだ。

「行商人、楽師、吟遊詩人、移動型民族、巡礼者――あとは一年に二度ほどだが、説教師もそのうちか」

 とマクシミリアヌスは口にする。しながら椀に野菜のごろごろ入った野菜スープを盛っていた。真佳がここいら一帯を見回していたことにどうやら気付いたらしかった。

「そういうものなら確かにここにいてもおかしくはなかったな。ただ時間と時期の問題だろう。相席してみたかったかね?」

 渡された椀を受け取りながら、少し考えて「……うーん」首を傾げた。そういうものに興味はないではなかったが、自称人見知りの自分がそういうのと相席したところで何か益になるとも思えない。ご飯の味を感じられなくなったかも。マクシミリアヌスの作ってくれた野菜スープは美味しいが少し塩っ気の強い味がした。

「説教師って」

 分厚い本をぱたんと閉じて、さくらが片眉を器用に上げた。彼女のほうに盛った椀を差し出しながら、マクシミリアヌスが頷いた。

「巡り歩くものであるから正確には遍歴説教師と言う。村や街を練り歩いてソウイル教の教義、教典を説き明かす者を言う。大体教会からの公式派遣のため、旅する時期は決まっておるのだ。夏と冬、教会の中から選ばれた数名が各地の町を訪問することになる」

 ……自分の椀をすすって一言、「塩が多すぎたな」眉を顰めてマクシミリアヌスが独りごちた。そうして眉間にシワを刻んでいると本当に細かい凹凸が刻まれた花崗岩みたいだと真佳は思う。二メートルを超える巨体にごつめの顔、口周りを覆う赤味を帯びた茶色のお髭。一見山男然としている彼の緑色の双眸が、知的な光を一筋宿していることを真佳は既に知っている。

「ここを通るのはそういうのが多いのね?」
「そうさなあ……ここまで来るのはそれくらいか。移動魔術式が使えれば話は別だが、旅自体がかなりの日数を食うものだという認識だ。君たちの世界にはクルマやデンシャなどいう移動手段があると聞いたが、蒸気自動車や蒸気機関車はこちらにもあるもののどちらも一般人には手を出しがたい品物になっている。必然的に馬車や馬の類を使うことになるのだが、遠くの村になると道が整備されているところも少なくないためここら一帯以上の時間も要る。まあ、遍歴説教師とか吟遊詩人とか、そういうものが大体の通行人だと考えてくれても差し支えない」

 ふうんと息を吐きかけてさくらの側も野菜スープに口をつけた。塩辛いということは分かっているので、特別面白い反応が見れたりなどはしなかった。吟遊詩人も遍歴説教師も今までお目にかかったことのないものだから、一度くらいは見てみたいなあと真佳は思う。
 世界の違いというのは不思議なものだ。前提条件が違うだけでこれほど生活に差異が出るとは思わなかった。科学の発達した真佳らの世界と、魔術の発達したマクシミリアヌスらの世界。この世界へさくらと共に落ちて来てから一ヶ月は確実に超過しているが、未だに物珍しいものには多々出会う。二つの世界でこうなのだから、もっと複数の世界と比べてみればもっと面白いことになるかもしれない。どうやら他にも異世界というのはあるようだから。

「……そうさな、蒸気自動車なら次行く街にはあるかもしれない」

 塩のきいた野菜スープをそれでも美味そうにすすりながら思いついたようにマクシミリアヌスが口にした。

「……チッタペピータ?」とさくらが言う。
「そう。ペシェチエーロの西に位置する辺境の都市、チッタペピータ。この国では実に有名な、いわゆる金持ちの集まる貴族の街だ」
「貴族の街……」

 何とはなしに呟いたらマクシミリアヌスに強い頷きを返された。ごろごろ入った野菜の一つをプラスチックのスプーンですくい上げ、ふーふーしてから咀嚼する。野菜は新鮮でとても美味しい。

「教会上層部もいるとは聞くが、その大多数はいにしえからの伝統的な貴族の家柄、であるそうだな。俺も行ったことはほとんどない。合同演習をしに行くには貴族の声が大きすぎるし、そもそも治安部隊員が立ち入ることをあそこはよしとしないのだ」
「でも、その街にも当然治安部隊はあるんでしょう?」嚥下してからさくらが言った。
「ある。無論、教会もある。だが権力はない。治安部隊はお飾りめいた形式上のものがほんの数人いるだけで、力があるのはむしろ貴族の有する戦闘部隊が寄り集まって形作られた自治体のほうと言っても言い過ぎではないだろう」

 うげ、と我ながら変な声が出たと思う。

「動きにくそーだね?」
「恐らくな……。しかし避けて通るわけにもいくまい。西の具体的にどこへ行けばいいか、あちらの運命鑑定士にもお伺いをたてにゃあいかんし、あそこを逃すと西に大きな街は一つもない。食料やら何やらごっそり買って、ついでに馬も調達せんと旅どころでは……。あそこから先はここのように動きやすい道は少なくなるし、何より町から町がうんと遠くなるからな」

 マクシミリアヌスの目が少し遠くに向いた気がした。真佳もスッドマーレを出る前に地図を何度か見せてもらってはいたけれど、そういった些事には気が付かなかった……。自分は徹底的に旅というものに向いていない。つまり全てはマクシミリアヌスとさくら任せということだ。

「スッドマーレに残るか、あるいは首都に戻って待っててくれてもよかったのよ」

 と本当に小さくさくらが言った。せいぜい右横に座す真佳にしか聞こえないような小さな低声。
 ……野菜スープを口をすぼめて吹き冷ます。

「何を今更」

 それが形式上の問いであることは疑いようもなかったので、返答するのに大した時間は加えなかった。

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