「……女子が浴室から出てくるのを待ち構えるのはどうかと思うぞ」

 言いながら後ろ手で扉を閉めると、そいつは「堪えていたようだったので」という免罪符にも何にもなっていない一文を悪びれもせず口にした。いつからここにいたんだろう。男女比の関係で女性用の浴室は教会行政棟にしかなく、その脱衣場に通じる扉の前にこうして陣取っているというのはマクシミリアヌスやシスターなんかにバレたら小言だけでは済まないような気がするんだけど。
 ……でもまああの一言だけで、さくらにとっての理由にはちゃんとなっていた。堪えていたようだったので。そう見えたものだろうか。自信がない。

「まさかここでやめると言われると、ぼくが懸命にひねり出した解答が意味のないものになってしまうわけですね」
「アンタは私に復讐してほしいの? してほしくないの?」
「だからそれは、サクラさんの査閲結果に依拠しますって」

 ……改めて、どうしてペトルスに自分の心境を語ったのかわけが分からなくなってきた。頭ごなしに理性と正論をぶつけられなかったことにあの時は深く感謝していたはずなんだけど。今のペトルスは敢えて軽薄な口調を選んでいるような感じがする。……ということは、これはペトルスにとってつまり意味ある会合なのだということに遅ればせながら気がついた。
 腕を組む。誰もいない脱衣場へと続く扉に背中を預けた。

「やめない。真佳は彼の復讐に全般的には手を貸さなかったけど、それは当然予期していたはずだったし、あの人の行動の結果も踏みとどまろうと考える程度の事柄ではまるでなかった」

 ――受け入れて許すための気持ちの折り合いも当然ながらついていない。それは昔から分かっていたはずだった。飲み込めないまま宙ぶらりんに垂れ下がった感情の居所はさくらの中には用意できない。どす黒く変色した感情が飲み込まれたがって暴れる度に、殺意というものは否応なしに膨れ上がった。血のにおい――真佳を連れて駆け抜けた血のにおいが、どうしたって過去の思い出とリンクしてどうしようもなく息苦しい。両親の家。膨れ上がった血のにおいと、そこに横たわる二人の姿。まだにおいが消え去っていないような思いがして、何度も何度も体を洗った。それでも未だ嗅覚の奥がそれらのにおいを執念深く捕まえたままでいる気がする……血と、腐敗と、死のにおい。

「……あなたたちの登場は、ぼくにとってはとてもありがたいものだったんですよ」

 とペトルス・ズッカリーニは口にした。
 軽薄の色が最早見当たらないことに気がついた。

「ここに居場所がないから異邦人に惹かれたのかもしれません。この場合の異邦人とは異世界人のことではなく、この町以外の場所から訪れた人を意味するものではありますが。溶け込む折り合いをつけられないままぶら下がった状態でこの町に居、且ついない中途半端なぼくにとって、よそから来た人間というのは救世主と言ってもいい存在だったんです。ぼくのことを知らない人と接すること、その機会をどうしようもなく求め続けていたんだということを、本当につい最近やっとのことで気がつきましたよ」

 眉の片方を跳ね上げた。ペトルスのレンズ越しの視軸は決してさくらのほうを見ず、自身の組んだ両の手指に自嘲的と言うよりも刹那的な色を投げかけている。さくらは口を挟まなかった。

「ヨハンネス・ラ・ロテッラの裁判覚えてますか」

 唐突に変わった話の矛先に目を剥いて、――視軸の先を逃してから「……ああ」とだけ不明瞭な声で口にした。あれがさくらにとってどういう意味合いを持ったものだったのか、ペトルスは知っているはずだった。わざわざそれを掘り返したということは――あの裁判中、ペトルスの表情が変わった場面があることに遅ればせながら思い出す。「その件で医術士を憎んだことはありませんか」――?
 ペトルスが僅か微笑した。
 或いはそれは苦笑であったかもしれなかった。

「そう、“医術士を憎んだことはありませんか”――? あの問いかけはなかなかに堪えましたよ。祖父ならどうだったかなとも考えます。或いはほかの医術士だったなら?……ぼくはね、サクラさん。医術士の道を歩んでいることに疑問を感じてはいませんが、それでもぼく自身を疑うことはありますよ。本当にそれでよかったのか? 最善だったか? もしかしたら救えた人間はいなかったか? 祖父が真っ先に駆けつけたなら救えた命だったのではないか? 誰かに恨まれてはいないか? それであるのに今こうしてのうのうと医術を勉強していることは果たして誰かにとっていいことなのか?」

 ……吐息。何の物音も起こらない静かな廊下に吸い込まれるかのような。

「……本当に、明確に答えが提示されたならと思います。いっそ嫌われているならよかった。嫌いだと面と向かって言ってさえもらえれば、ぼくの道に何らかの答えはいただけるはずなんです」

 十四歳だ。
 とさくらは思った。
 こちらでは成人一歩手前でも、さくららのいた元の世界では十四歳の未成熟な小さな子ども。双肩に乗せるにはあまりに大きい、大人でも諦めてしまいそうな大きなものが乗っている。それでずっと、こいつは一人でやってきたのか、とさくらは思った。何年間?――数え知れないくらい。

「……何であなたにこんなことを言ったのか、自分でもよくわかりません。困らせるつもりはなかったんです」
「……困ってたように見えた?」
「かなり」

 そう断言されるとそれこそどう反応したものやら困る。ただ痛ましさは胸に痛いほどに感じているのはいたけれど、困っていたつもりはなかった。
 廊下の左右に視軸の先を走らせた。真佳は未だ来そうにない。

「嫌いだって言われたいわけじゃないんでしょ。私たちに」
「そりゃあもう」
「良かった。私は嘘が下手だから」

 ペトルスが名状しがたい顔をした。それが何を意味するのか考える間もなく両肩を竦めて、

「それで?」

 と言う。

「え?」
「その先は」
「その先って、だって」
「話した理由が自分でもわからない。それはわかった。でも多分アンタなら、ある程度の予測はついている。本当に暗闇の中から引っ張り出してきたことをそのまま告解したのなら私のことをここで待ちはしなかったし、私の答えを聞いてから話すか話さないか考えたはずもないはずだった」

 小さく笑った弧が見えた。まだあどけなさの残る少年の微笑で、かつてさくららに創世記四十五章三十節から以下を暗誦し新たな道を示して見せたのと同じ男とは、ちょっと見には思えない。

「ぼくはあなた方に救われたんですよ」

 と言う。告げられたそれは理路整然とはほど遠い手探りの言葉であったはずだが、多分何よりもペトルスの心に近いと思った。

「覚えてますか、最初にあなた方と事件に首を突っ込んだとき……。あの時ぼくを真っ先に追いかけて来たのはマナカさんでしたね。一人で突っ込んだぼくもぼくでしたが、一人で助けに来たマナカさんもマナカさんだった。思えば多分、ああやってぼくは誰かの役に立ちたかったんです……結果としては、やっぱり誰かに助けられた結果になりました。あの時マナカさんの苛烈さにびっくりした。ああいう無茶をする人は生まれてこの方初めて見ました」

 多分それは私もだとさくらは声に出さずに同意した。何でもかんでも無茶やって、それで何とかしてしまう奴なのだ。だからあの存在はさくらにもひどく苛烈に映った。

「アートゥラや彼女の眷属を追っかけたとき……そう、あの時初めて今回の発端を見つけたんでした。気付いてましたか、ひどく蒼白でしたよ……。それでも無茶をしようとするあなた達に、ぼくはほとほと呆れたものです。それにはサクラさんも入りますからね……。ああ、でも、そうやって利益も損害も考えずに突き進んでいく姿に憧れもしたものです。ありきたりな言葉を使うなら、眩しく思えたというのが最も適当かもしれません。守らなければいけないのは分かってはいたけれど、あなたたちが進んだ姿を見ていたいとも同時に思った。当たり前のようにお互いをしか頼りきらないのにもどかしく思えてきたりもした。ぼくもあそこに入りたかったんです。がむしゃらに突き進むあなた方の内の一人として」

 頼りきらなかったのは自分も悪いとさくらは思う。未だ完璧にはこの世界の住人に信頼を託してなかったのかと少し自分に落胆した。それを取り払ったのは間違いなくお前だった。暫定的な関係なんて一切存在しなかった。いつでも皆真剣で、途中で逃げる道何か彼らにだって一つも与えられてなかったんだっていうことを。

「事実あなた達はそうやって、がむしゃらに突き進んだ結果全ての状況を変えましたね。ぼくは無事に牢から抜け出てあなた方が迎えてくれた。サクラさんのしたこともマナカさんがしたこともちゃんと聞いて知っています。随分無茶をしたと思った。それを言うとカッラ中佐もそうですが。……でも多分、それが生きていることだと思いもした」

 濃緑色の双眸が光彩を放ったようにさくらに見えた。
 そうか、と思う。……口にしないまま、そうか、と思う。

「だから少し嬉しかったんです。あなたがぼくの手を振り切って、マナカさんやカッラ中佐のもとへ駆けつけたときには。“シルバー・ハンマー”と相対すること、危険なことだと当然分かってはいたけれど、そうやってぶれないあなた方を見ていると」

 喉の奥がつんとした。真佳、と思った。

「……あなた方を見ていると、それが正解なんだと思えた。……本当に思えたんです。道が、ぼくにも道が見えたんです。自分にできること、すべきこと、したいこと、何がなんでも……例え周りに何と思われているかわからなくとも、必要とされていなくても、中途半端な存在だって。ただ僕の治療であなたが凄いと言ってくれた、ぼく自身を肯定する言葉をくれた、そう、多分……それだけで」言葉を少しつまらせて――唾を喉奥に押し込むような間を開けて「よかったんですね。ぼくには――」
「……そうよ」

 真佳、と思った。
 ペトルスにとっての自分と真佳がそうであったように、自分にとっての真佳もきっとそうだった。そうか……ようやく分かった。話を聞いてるはずだったのに、さくらのほうが救われた。
 真佳。
 だから多分――アンタがそうやって自分の信じた道を進むなら。
 進む、
 からこそ。
 ――多分、利益も損害もうっちゃって……私はアンタの希望を越えて、きっと真実と、ひいては復讐と対峙する。恐らく前から決まってた。出会う前からそれはずっと――アンタの性格がきっとそうであるように、ずっとずっと昔から。

「ぼくはここで医術士を目指します」

 とペトルスが小さく断じた。
 共に進む道を彼がほんの僅かでも考えていたことにそのとき気付いた。同じ道をこれから歩んでいく先も、きっと多分にあったのだろう。それは今、完全に潰えてしまったけれど。

「だからあなたも絶対に諦めないで……見極めるのをやめてしまったら、きっとあなたは後悔します」

 笑った。
 小さく。

「大丈夫よ。ちゃんと真実を見極める……あの言葉、私はとても助けになったのよ? 見極めるという選択肢は少しも考えていなかったから」
「それは良かった……多分、ヨハンネスさんにも感謝するべきだったんでしょうね」

 ペトルスの口からそういう言葉が出たことに少なからずも驚いた。故意ではないとは言え自分を犯人に仕立てあげようとした男に、まさか感謝するだなんて。……だからこそ、あの言葉が出てきたのかもしれないけれど。

「出立はいつですか?」

 とペトルスが言う。

「分からない。真佳の足が治ってからか、或いはもう明日から出発することになるのか……これからの話し合いによるんでしょうね」
「本当に僅かしかいられないかもしれないわけですね。できればそれまでに異界のことについていろいろ教えてほしかったんですけど。あなた方ときたらいつも色んな問題を抱えてきて、ほとんど尋ねるどころではなかったんですからね!」
「それは悪かったとは思うわよ……何が知りたいの? それまでの間なら私と真佳がお互いの知識を総動員してもいいわ」
「本当ですか。じゃあ向こうでの医者や治療行為のことについて」
「……総動員しても答えられるかな……」

 壁から二人、背中を離して一つの方向に歩をしるす。進む道は違うのだろうが、目指す先は同じであることを真に願った。


そして蒼穹、ポラリス

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