「本当に全く! どこに行っていたかと思ったら……マナカさんはともかく、サクラさんだけは無茶はしない人だと思ってましたよ!」

 教会のほうに心身共に疲れた体で帰ったら、案の定ペトルスに怒られた。青い顔でマクシミリアヌスに合流していたペトルスが、それでも何より真っ先にヴィンケンスの傷を応急処置として塞いでくれたのを優先させてくれたことに感謝した。危険なところではあったが、さくらの処置が良かったことと時間の進行を絶望的な基準手前で打ち止められたことが幸いしてヴィンケンスは助けられるだろうとのことだった。それにしても、真佳だけでなくさくらまで年下のペトルスに怒られる構図というのは新鮮で何だかおかしい。口の端だけでにやにやしているとさくらに横目で睨まれた。「話聞いてるんですか」ついでにペトルスにまで追加で更に怒られた。

「早くお風呂に入ったほうがいいですよ。血でひどいことになってます」

 とペトルスに言われて、改めて自分の体を見下ろしてから真佳は少し苦笑した。手は勿論のこと、“シルバー・ハンマー”の右腕を切り取ったときに随分血を浴びたから左半身も赤い鮮血で汚れている。ヴィンケンスの傷を抑えていたさくらの両手も真佳と同じですっかり綺麗に血みどろだ。それはヴィンケンスの怪我の手当てに当たったペトルスの両手も変わらない。
 スッドマーレ教会支部内に設けられた仮眠室に、血が付着する可能性なんかは無視してスツール椅子に腰を下ろした。マクシミリアヌスが手配してくれた部屋だった。利用者は真佳ら以外に他になく、清潔に整えられたベッドの一画ではヴィンケンス・ドラーツィが青白い顔で希薄な寝息を立てている。一見死んでいるように見えてふとした瞬間どきりとした。生きててくれなきゃ困るんだ。だから殺さずに済んだんだから。
 真佳らが帰ったとき、血の海は更に濃く、地に横たわった隊員は一層多くなっていた。それでもマクシミリアヌスが前線で(あの銀の植物がいた場所を今でも真佳は覚えている――)体力をすり減らして戦っていてくれたことが分かって安堵した。最後に立っていた場所と思しき場所で片膝をついて剣を立てて、すっかり崩折れるくらい消耗しきっていたけれど――でもこの場所をちゃんと守ってくれた。隊員たちの葬式は、恐らく朝になってから、強力な火を焚き行われることであろう。
 扉が引き開かれたその先に、マクシミリアヌスが立っていた。ちょっと視軸の焦点を失ったように立ち尽くしてから(何せ真佳は扉正面の壁際に、さくらはヴィンケンスのいるベッドの足元に、ペトルスはその枕元に散らばっていたものだから)、

「“シルバー・ハンマー”の手当ても無事、完了したらしい」

 扉を閉めきってから口にした。眼鏡を押し上げてからペトルスが言う。

「祖父ですか?」
「ああ、フラヴィオ・ズッカリーニ殿だ。目を覚ましてズッカリーニ殿の許可がおりたら即話を聞くことになるだろう。聞きたいことは随分あるからな……」ちらりと眠ったままのヴィンケンスに目を向けた。「彼にも、恐らく聞かねばなるまい。無断で教会から逃亡した件も含めて……」

 それは多分大罪だろうと真佳は思った。脱走兵と言うのだっけ。国によっては死刑に処せられる場合もあるという。戦時でない今、寛大な措置を期待できるとは思うけど。
 苦々しく苦渋に満ちた顔色を首を振ることで追い払ってから、マクシミリアヌスは真佳の側へ視軸を投げた。

「殺そうと思ったのか?」

 とマクシミリアヌスは言う。……あまりに直球で、でもマクシミリアヌスらしい予想出来た問いかけに笑顔を取り繕うことも出来なかった。多分歪んだ微笑みになったと思う。

「……頼まれたよ」
「誰に」
「ヴィンケンスに」
「殺そうと思ったのか?」
 同じ質問。肩を竦めた。「殺すつもりだったら腕を斬る前に心臓を刺してたはずだった。わかってるでしょ」
「何故だ」

 ――そう問いかけたのはマクシミリアヌス・カッラなどではなかった。ベッドの中で、顔面を貫く一文字の傷に引き攣られながら、掠れたような声を出す。ヴィンケンスだ。……顔色はまだ青い。

「ヴィンケンスは死ななかった。あの約束は無効であったはずだったからだよ」
「だが私は」
「私は人を殺したくなかった」

 ……吐息。

「ヴィンケンス、人を殺したことのある通常人が一体何を恐れると思う。人を殺すこと(・・・・・・)だよ。だからそうしない道を選べるのなら出来うる限り生かしたいし、殺さない道を選びたい。人を殺したらどうなるか、私たちは既に知ってるからだ」

 ……マクシミリアヌスならどうするか? 殺人行為を許可するか? 真佳はそれに、それを考えるだけ野暮だと思った。隊員として戦争を経験したマクシミリアヌスが人を殺したことを知っているから。それなら俄然殺さないだろうと考えた。考えるだけ野暮だ。人を殺す苦しみを抉られるほどに知っているはずなんだから。
“シルバー・ハンマー”に怒れるあまり、他人の指標に頼らなければ留まれなかったことは認めよう。あのままさくらを殺された場合、その指標に従えなかったことは認めよう。それでも今は、真佳はこの道に確かに立った。幸福だったと確かに言える。

「……それに多分、私が代わりにあの人を殺していたとしても、ヴィンケンスの恨みは晴れないよ。復讐するなら自分の手で果たさなきゃいけなかったはずだから。殺すなら今、殺しに行けばいいと思う。ここに送り込まれた以上、教会の人たちは絶対にそれを阻止するけれど」

 ヴィンケンスが微かに息を吐きかけた。吐きかけた息が震えているのを知覚が捉えた。

「……君は、人を殺したことがあるのだね」
「……」

 答えなかった。説明する必要もないと思った。ヴィンケンスが吐息した。

「すまなかったね、下らないことを口にした……無論、私が生きているのだからあの約束は効果を発しない。君には何の咎もない」

 咎はあるよ、と真佳は思う。私刑の援助をする意味合いで彼をあそこへ、チェス盤上へ運んだのに、結局最後まで幇助し切ることが出来なかった。これはヴィンケンスの恨み心を知っていた真佳が持つべき深い咎。
 マクシミリアヌスがドアのところに寄りかかった音がした。

「この件は全てチンクウェッティ大佐の指揮下に置かれることになった。裁判は長引くだろう。何せ被害者の数が数だからな。このままではあまりにも君たちの時間を消費してしまうということで、裁判が終わると終わらざるとに関わらず、俺を始めとして君たちには出立の許可が下りている」

 ……びっくりして顔を上げた。また何日間かを引き止められることは必然のことだと思っていた。組んだ腕をそのままに、マクシミリアヌスが太い肩を小さく竦める。

「今回は以前のペシェチエーロの殺し屋の件同様、教会関係者の目撃者が大勢いるからな……。それに大佐の温情も多分にあるのだ」
「温情?」きょとんとして聞き返した。マクシミリアヌスが首肯する。
「囮捜査を最終的に引き止められなかったこと、申し訳なかったとおっしゃっていた……あの件はご子息を亡くされて判断力を失った司教の言が発端であったと言ってもいい。簡単には許し得ないと思うが、俺の顔にも免じて許してほしい」

 組んだ腕をといて頭を下げられたことに逆に慌てた。マクシミリアヌスに謝られることをされたような覚えはない。

「……結果的に生きていたのだから――」とさくらが口を出したとき、本当に彼女の存在に感謝した――「その件は皆、忘れたほうがいいわ。貸し借りも恨みも何も無し。そんなもんに囚われていたら、私たち全員が生きられるようにと尽力したことが全部無駄になるでしょうが」

 あまりにばっさり切り捨てたことに真佳は思わず小さく笑った。マクシミリアヌスもようやっと、固めた表情を薄く緩めたらしかった。それで真佳の中に燻っていた黒い想いもペトルスの張ったままの若い双肩もほどけさせたのだから世話がない。
 昔っからそういう子だった。すぐに人を許してしまえる友人だった。
 ヴィンケンスに宛てがわれたベッドの枕元で壁にもたれて突っ立っていたペトルスが、つけていた背中を外して本当に不意打ちでこっちを見た。

「さて、ここはもういいでしょう。これから出立するのなら、その前にマナカさんを治療させてもらいますよ。打ち身とは言え、これからの長旅では馬鹿に出来ませんからね」
「……何で分かった?」
「医術士の観察眼をナメないでください」

 黒縁眼鏡のレンズの奥で不気味に双眸を光らせられた。


神・ソウイルは緑閃光の夢を見るか?



「この世界に来てから随分過保護的に治療されすぎているような気がする」
「それは君が無茶するからだろう」

 間髪入れずにマクシミリアヌスに突っ込まれて首を竦めた。モスグリーンの隊服の上着だけを脱ぎ去ったマクシミリアヌスというのは見慣れていないせいか何となく余所行きという感覚が拭えない。マクシミリアヌスの普段着は、真佳の中ではくすんだ緑の軍服だ。
 別にあれから酷使したつもりもないのだが、膝の打ち身は歩いただけで少し痛みが走るようになっていた。これなら通例の一週間よりよっぽど早く完治するだろうと言われたときはほっとした。許可が下りた以上、必要以上に長い時間さくらを真実から遠ざけておくことは気が引ける。椅子から投げ出した左の足を小さく振った。少なくとも二十四時間はこのままでと主治医たるペトルス・ズッカリーニに言われている。布に包まれた氷が患部に当たって心地よいがくすぐったい。

「何故腕を切断した?」

 ……さくらとペトルスがいない状況を見計らっていたのは明白だと真佳は思う。それでも真佳は驚いた。それを感じていたはずであったのに、その話を今、ここで持ちだされることが何故だか考えられなかったのだ。或いは、見計らっていると感じたシナプスの明滅はマクシミリアヌスのその言を聞いたときにこそ発生したものであるかもしれない。
 仮眠室のすぐ外にある廊下の中で、薄まりつつあるペトルスが散布した薬のツンとしたにおいを知覚の奥に嗅ぎながら、真佳は壁に背中をもたせた。――目を細める。同じ長椅子の右に座すマクシミリアヌスの横顔は、真正面を見据えたままちらともこちらを見なかった。猫背とも取れる前屈姿勢……開いた膝に肘を据え、強健な前腕を足の間に硬く垂らして石のように動かない。筋肉質で大きな背中が真佳に向かって緩い弧を描いていた。
 マクシミリアヌスの緑眼が、誰言うとなく好きだった。真っ直ぐな目。歪められない意志と姿勢と、正義感とそれから良心。虚言癖には出来ない目だと真佳は深く知っていた。多分自分とは相容れないものであることも識っていた。

「君なら」

 声が少し掠れていた。唾を飲み下してからマクシミリアヌスは改めて声帯器官を震わせる。

「君なら、腕を斬ったその間に気絶させることも出来たはずだ。あれを中途で挟んだ理由は一体何だ? 俺はそれが知りたい」

 笑った。何故だ何故だと問いかけることは可能でも、愚直に知りたいと言える人間はそうはいない。

「せめてもの餞別だよ」

 と真佳は言った。

「どうしたって私にはまだまだ殺せなかったから、餞別としてマリオ・ロッシの恋人を奪ったその右腕を私の一存で贈与した。あの腕一本でヴィンケンスの気が晴れるとは思っていなかったけれど、私に出来ることはそれくらいしかなかったから」
「……まるで人を殺したことがあるような口振りだったな」
「感謝してるんだよ。マクシミリアヌスならあの先を許可しないだろうと考えたから、私は一線を飛び越えなかった」

 話の方向を意図的にねじ曲げたことにマクシミリアヌスは気付いたはずだが、そこから先を追及してくることは結局のところしなかった。だから真佳は口にした。

「……生きて帰ってきたよ」
「……ああ。……ああ、運が良かった」
「とゆーことは、マクシミリアヌスが異世界人を見殺しにした廉で法に裁かれる機会というのは、これで暫く無事延期の判を押されたわけだ」
「暫くと自分で言っておれば世話がない。少しは危険を前に逃げるという選択をだな……」
「危険が私を追って来るんだよ」

 せめて追いつかれて手折られないように頑張るよとは付け加えて言ったけど、我ながらあまりに説得力のなさすぎる言葉だなと間髪入れずに気付いてしまった。軽薄に過ぎたかな。今度言うときはもっと重きを置いた口調で言ってみようか。
 ふあっと小さく欠伸した。思えば昨日のあたりから今この瞬間まで(あの落書きが発見されたのがまさか昨日のことなんて!)、あまりに頭を酷使しすぎたような予感がする。気も張りすぎたし、お風呂は治療の前にさくらに譲ってもらってもう既に入ってしまった後だから、このままご飯も食べずに眠ってしまいたい感じもする。教会の浴室からさくらが抜け出してきたらベッドに直帰しようかな。
 マクシミリアヌスが物言いたげにこちらをじっとり見つめているのに気がついた。

「……何だろうか」
 太い溜め息。「何でもない」

 それっきり、彼はもう暫く何も言わなくなった。

 TOP 

inserted by FC2 system